2023年の大河ドラマ『どうする家康』に有村架純が出演! これを聞いた時、おお~!っとなりました! 若手演技派女優として近年とみに、評価が高い方ですよね。これは、期待大かも! 役は徳川家康の正室、瀬名(せな)です。築山殿(つきやまどの)とも呼ばれます。
有村は、朝の連続テレビ小説『あまちゃん』で、ヒロインの母親の若かりし頃を演じて注目されました。その後は映画にCMにと引っ張りだこの活躍ですが、大河ドラマは、意外にも今回が初参加なんだそうです。松本潤演じる徳川家康と、どんな夫婦を演じてくれるのでしょう? ワクワクしますね。
高貴な生まれの美貌の姫
瀬名の父は、今川義元※1の重臣・関口親永(せきぐちちかなが)で、母は義元の妹(義元の叔母だったなど諸説あり)でした。そのため、義元と瀬名は、伯父・姪の関係になります。色白の美人だったと伝えられ、由緒正しい家で、何不自由なく育ちました。後に、築山殿と呼ばれるようになります。
家康と結婚したいきさつ
一方の家康は、義元のもとで人質生活※2の日々。14歳の時に元服して義元の一字を与えられ、当時は元信と名乗っていました。元服の時の理髪(りはつ)の役※3を務めたのが瀬名の父です。
そして16歳で瀬名と結婚します。年齢は同い年であったとか、瀬名の方が年上など諸説ありますが、はっきりしません。幼い時から人質生活の家康は、温かい家庭を知らずに成長しました。結婚で自分の家庭を築けてほっとしたのかも? 大河ドラマでは、瀬名は家康の初恋の人の設定のようです。どんな描かれ方をするのか、興味深いですね。
つかの間の幸せな暮らし
家康は瀬名と結婚したことで、義父の親永が後見人となり、義元の直臣として迎え入れられます。そして初陣に臨み、見事な戦いをおさめて、武将としての第一歩を踏み出したのです。永禄2(1559)年、瀬名が嫡男を出産し、竹千代と命名。後の信康です。翌年には、第2子の亀姫という名の女の子をもうけました。駿府城下で瀬名と家康は、2人の子どもに囲まれ、親子水入らずの生活を送ります。けれども、この平穏な幸せは、亀姫誕生の年に起きた桶狭間の戦いで、打ち砕かれます。
家康の決断
桶狭間の戦いとは、尾張(おわり)桶狭間(現在の愛知県豊明市、名古屋市緑区)における義元と織田信長の戦いです。当時駿河(するが・現在の静岡県東部及び中部)、遠江(とおとうみ・現在の静岡県西部)を本拠としつつ、三河(みかわ・現在の愛知県東部)を領国化した義元は、拡大を狙って信長の領土へ進軍したのです。2万5000余りの大軍を率いた義元に対して、信長はわずか3000ほどだったとか。誰の目にも義元有利と思われましたが、信長は義元の本陣に奇襲をかけることに成功。義元は討ち死にをして、今川軍は敗走します。
義元死亡の知らせを受けた家康は、駿府からの撤収を決意し、岡崎城下に入ります。そして今川軍が引き上げた後、生まれ育った岡崎城※4に入城。駿府に抑留されてから、実に10年余りの年月が経っていました。今川軍の大敗で、思いがけず念願だった岡崎城復帰を叶えたのです。
▼桶狭間の戦いについて詳しく知りたい方は、こちらをお読み下さい。
奇跡の逆転劇から460年! 織田信長はなぜ、桶狭間で今川義元を討つことができたのか
別居で生まれた亀裂
こうして家康は人質生活からの脱却に成功すると、永禄5(1562)年に尾張の清洲城(きよすじょう)に赴いて織田信長と会い、同盟を結びます。今川氏の仇敵である信長との同盟は、今川氏からの反発は必至のことでした。この頃、駿府城下には妻の瀬名と、2人の子どもが人質同然の形で残されていました。義元亡き後は、息子の氏真(うじざね)が今川氏をついでいましたが、親戚関係だったために、手を下すことができなかったとも伝えられます。
家康は、たびたび氏真に妻子を渡すように頼みますが、拒絶されてしまいます。そこで考えた家康は、氏真の従兄弟の城を攻めて、子ども2人を捕虜とします。この2人と妻子を交換するように求めたのです。こうして、ようやく瀬名と子ども達は、岡崎城へ迎え入れられることに。瀬名が城に入る前の住まいは、岡崎城外の総持尼寺近くの屋敷でした。屋敷の地が寺の築山領であったことから、築山殿と呼ばれるようになります。近年では、瀬名だけは岡崎城には入らず、長くこの場所に住んでいたと言う説もあります。
人質交換には親永が陰で働いたとされ、後に氏真に命じられて、夫婦で自害させられます。家康はようやく家族再会にこぎつけましたが、瀬名の両親の死や、別居生活が原因で、瀬名との関係はぎくしゃくしていたようです。
▼岡崎城については、こちらの記事をお読み下さい。
徳川家康が誕生した岡崎城は、錚々たる大名たちが城主を務めたパワースポットだった!?
嫁との不和から思わぬ展開へ
無事に人質交換は成功しましたが、家康は氏真と決裂したことになり、争いが繰り返されます。氏真といとこ関係である瀬名の立場は、岡崎城内で微妙なものだったことでしょう。その後も瀬名にとっては辛い出来事が続きました。信長の長女の徳姫が、信康の妻として輿入れしてきたのです。今川氏の血筋を引く瀬名にとっては、耐えがたい日々だったのでは?
家康は元亀元(1570)年、武田信玄の侵攻に備えるため、居城を遠江の浜松に移し、岡崎城を息子に与えることにします。2人の仲が良くなかったからなのか、瀬名は家康についていかずに岡崎城に残りました。こうして再び別居状態になったことが、後の事件へとつながっていきます。
天正7(1579)年7月、徳姫が父の信長へ送った十二箇条からなる長文の書状が、波乱の幕開けとなりました。内容は、夫と姑の悪行を並べ立てたもので、真偽のほどは不確かな内容でした。
夫は鷹狩りに出かけた帰りに、出会った僧侶をなぶり殺すなど残虐な性格である。家康とも相互不信に陥っている。姑は、唐人の医師と密通し、武田氏と通じている。織田・徳川両氏の滅亡を画策している
徳姫は、なぜ、こんな突飛な行動を起こしてしまったのか。背景には徳姫が長女と次女をもうけているが、男子を産んでおらず、瀬名に疎んじられ、次第に信康とも疎遠の間柄になったと考えられます。浜松城では、側室の於愛(おあい)の方が家康の身の回りの世話を行い、男子が誕生していました。瀬名は、このことから焦りを感じていたのかもしれません。徳姫が書状を送る前には、家康が息子夫婦の間に入ろうとしましたが、すでに手遅れの状態だったようです。
諸説ある悲しい最期
愛娘からの訴えに激怒した信長は、家康に信康と瀬名の死罪を強く求めたと言うのが通説です。同年8月、家康から岡崎城主と嫡男の地位を奪われた信康は、三河の大浜に移され、9月に遠江の二俣城(ふたまたじょう)で切腹して果てました。享年21。これより先に瀬名は、岡崎城から浜松城へ向う途中で殺害されます。家康に、息子の助命のために向ったとも考えられて、哀れです。まさか、自分も殺される運命とは、知らなかったのかもしれません。享年39。
瀬名については、傲慢で嫉妬深い女だったとのイメージが一般的でした。家康を神格化するために、江戸時代に創作された可能性もあり、悪女ではなかったのではないでしょうか。本当に謀反を企てていたのかどうかも、謎に包まれています。
家康と信康には、親子の確執があったようで、後年「信康を気ままに育て、親の言うことを聞かない人間になってしまった」と、述懐しています。正室と嫡男を一度に失った『築山殿事件』は、史上まれな異常な事件です。また苦渋の決断とは言え、その判断は夫や父である家康が行った点でも。
悲しい最期を迎えた瀬名ですが、実は生存説が伝えられています。身代わりになって死んだのは侍女で、瀬名は生きており、尼になって後世を過ごしたというものです。真実はわかりませんが、あまりにも無惨な最期を悲しんで、生み出された物語かもしれません。『どうする家康』では、瀬名はどんな人生に描かれるのか? 彼女の紆余曲折を見守りたいと思います。
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参考書籍
『徳川葵の女たち』(新人物往来社)
『読むだけですっきりわかる日本史』後藤武士著(宝島社)
『日本大百科全集』(小学館)
アイキャッチ画像:葛飾北斎画 シカゴ美術館より
▼『築山殿事件』を題材にした歴史小説はこちら
築山殿無残 (講談社文庫)