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2023.03.13

家康の家臣「徳川十六神将」大久保忠世とは?生涯や逸話など紹介

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2023年大河ドラマ『どうする家康』が、話題を呼んでいます。ドラマの魅力の一つが、くせの強い家臣たち。こんな連中を従えていくのは、徳川家康も大変だっただろうなと、思わず同情しつつ物語の世界に引き込まれていきます。そんな家康の家臣たちの実像を紹介する本シリーズ、第3回は大久保忠世(おおくぼただよ)です。

『どうする家康』では、個性派俳優・小手伸也が、演じています!大河ドラマは、『真田丸』に続いて2回目の出演。

金の揚羽蝶の旗指物

「む? あれは?」

織田信長が目を凝らしました。視線の先では、将兵たちが激しい戦いを続けています。
怒濤のように攻め寄せる騎馬隊と、槍先をそろえて肉迫する、よく訓練された足軽槍隊。「その強さ、戦国一」と謳(うた)われる、武田軍の猛攻でした。もし陣の前に柵がなければ、敵の圧力の前に味方は腰がくだけ、ひとたまりもなかったかもしれません。織田軍と徳川軍は、戦場に長く南北に結った柵の内側から鉄砲を撃ちかけ、柵の端から内側に回ろうとする敵を、槍で懸命に防ぎました。
天正3年(1575)5月21日、三河国(愛知県東部)長篠設楽原(ながしのしたらがはら、新城市)、いわゆる長篠の戦いです。

このとき信長が注目していたのは、敵の武田勢の進退にぴったりとついて離れない、二つの旗印でした。一つは金の揚羽蝶(あげはちょう)の羽を模した奇抜な旗指物(はたさしもの、鎧の背につけて目印とした小旗)で、まるで敵勢に大きな蝶がとまっているかのようです。もう一つは浅黄(あさぎ)色の石餅(こくもち、白い円形の意匠で、縁起のよい丸餅に見立てて呼ばれる)の旗指物。一見、敵の部隊ですが、敵と戦っているようでもあり、しかし味方であれば、あまりに命知らずな接戦ぶりです。思わず信長は、「あの者らは敵か味方か、徳川殿に訊いてこい」と使い番を走らせました。

信長からの問いかけに、徳川家康は破顔して、使い番に答えます。

「いやいや敵ではない。わが家中の譜代の者だ。金の揚羽蝶は大久保七郎右衛門(おおくぼしちろうえもん)、石餅はその弟で、大久保治右衛門(じえもん)と申す」

使い番が急いで織田の陣に戻り、信長に報告すると、しきりに感心した様子で信長は言いました。

「さても三河(家康)は、よい家来を持っているものよ。わが家中に、あれほどの者どもはおらぬ。まるで、よき膏薬(こうやく、貼り薬)の如くである。敵にべったりと貼りついて、離れない」

信長が、まるで膏薬のようだと絶賛した大久保兄弟。揚羽蝶の羽をかたどった旗を背負う、兄の七郎右衛門が本記事の主人公忠世(ただよ)です。また弟の治右衛門が、忠佐(ただすけ)でした。長篠合戦の勝利後、信長は兄弟に褒美として、小袖を与えています。

揚羽蝶の旗指物を背にする七郎右衛門

「蟹江七本槍」の栄誉を独占

大久保忠世と忠佐の兄弟は、それぞれ「徳川十六神将」の一人に数えられています。また彼らの弟の彦左衛門忠教(ひこざえもんただたか)が『三河物語』に兄たちの活躍を記したことで、七郎右衛門忠世の名は後世、広く知られることになりました。七郎右衛門は天文(てんぶん)元年(1532)の生まれで、家康よりも11歳年長です。

大久保一族はもともと宇都宮(うつのみや)氏で、三河に流れて、岡崎に近い和田村(岡崎市)に住んだと伝わります。苗字も宇都宮から宇津、大窪、大久保と変わりました。家康の祖父・清康(きよやす)の代から、譜代の家臣として扱われています。

七郎右衛門の父は忠員(ただかず)。兄の忠俊(ただとし)とともに、伊勢(三重県中央部)に逃れていた家康の父・松平広忠(まつだいらひろただ)を岡崎城に帰還させた功労者でした。なお大久保一族の本家は忠俊、その長男新八郎忠勝(しんぱちろうただかつ)の流れで、忠員とその長男七郎右衛門忠世は傍流(分家)になります。この大久保一族の面々、いずれ劣らぬ猛将ぞろいでした。

松平広忠没後の弘治元年(1555)、駿河(するが、静岡県東部)の今川義元(いまがわよしもと)の命令を受けた松平家は、織田家の尾張(愛知県西部)蟹江(かにえ)城(蟹江町)を攻撃。このとき、大いに奮戦した松平勢の7人が「蟹江七本槍(しちほんやり)」と称されました。メンバーは……。大久保忠員、同忠俊(同忠勝という説も)、同忠世、同忠佐、阿倍忠政(あべただまさ、大久保家出身)、杉浦吉貞(すぎうらよしさだ、母親が大久保家出身)、同勝吉(かつよし、吉貞の息子)と、なんのことはない、全員が大久保家の血筋なのです。多少割り引いて聞くとしても、大久保一族は無類の強さを売りにする、典型的な三河武士であったといえるでしょう。

最強の一族なのですね!

三河一向一揆のターニングポイント

七郎右衛門の初陣は天文16年(1547)、16歳での三河渡河原(わたりがわら)の戦いでした。その後、蟹江城七本槍を経て、主君松平元康(もとやす)が指揮する桶狭間(おけはざま)の戦いの前哨戦、尾張丸根砦(まるねとりで)攻めで活躍したのが29歳。以来、元康改め家康の合戦には、常に七郎右衛門の姿がありました。

なかでも激戦となったのが、永禄6年(1563)から翌年にかけての、三河一向一揆です。この一揆では、一向宗勢力に吉良義昭(きらよしあき)ら三河国内の反家康勢力がこぞって加担し、さらに家康家臣の中からも本多正信(ほんだまさのぶ)ら、少なからぬ者が一揆側につくなど、厳しい戦いとなりました。しかし大久保一族は一人も一揆側に与せず、本拠地の上和田(かみわだ)の砦(岡崎市)を足がかりに、一向宗の拠点の一つ、針崎(はりさき、岡崎市)の勝鬘寺(しょうまんじ)を攻めます。家康にとって大久保一族の存在は、頼もしかったことでしょう。

三河一向一揆の最大の山場は、永禄7年(1564)1月11日に訪れました。大久保一族が守る上和田の砦に針崎、土呂(とろ、岡崎市)、野寺(のでら、安城市)の一揆勢が大挙して攻めかかったのです。戦いは3日間続き、家康も援軍に駆けつけますが、鉄砲で撃たれてあわやという場面もありました。七郎右衛門は目を射られて負傷、一方の目の視力を失ったといいます。また従兄の新八郎忠勝も目を射抜かれ、隻眼となりました。大久保一族で無傷の者がいないほどの激戦でしたが、なんとか一揆勢を撃退。以後、一揆側の勢いは衰え、翌月には騒ぎが収束することから、三河一向一揆のターニングポイントは、上和田の戦いでの大久保一族の奮闘であったといえそうです。

負傷しても、殿を守りたい!という強い思いが、勝利へつながったのかも……。

一向一揆鎮圧ではずみがついた家康は、2年後の永禄9年(1566)にほぼ三河を統一。それを機に苗字を松平から徳川に改め、また徳川軍を東三河衆、西三河衆、旗本(主君を護衛する直属家臣)の三備えとしました。そして旗本内に家康直属の機動部隊「旗本先手役(せんてやく)」を設け、七郎右衛門は将の一人に選ばれて、金の揚羽蝶の旗を背に遠江(とおとうみ、静岡県西部)進攻に臨むことになります。

大久保氏の家紋「大久保藤」

武田信玄を驚かせた夜襲

遠江は家康の旧主・今川家の領国ですが、義元亡き後、後継者の氏真(うじざね)は将器に乏しく、家臣が離反。家康にとってチャンスでしたが、もう一人、今川領を窺う者がいました。甲斐(山梨県)の虎、武田信玄(たけだしんげん)です。信玄は家康に密約を持ちかけ、大井川を境に東の駿河を武田が、西の遠江を徳川が領有することで合意しました。永禄11年(1568)、武田軍は駿河に侵攻。ほぼ同時に、家康も遠江に攻め込みます。駿府を追われた氏真は、遠江の掛川(かけがわ)城に逃げた後、結局、正室の実家の北条(ほうじょう)氏を頼って落ちていきました。戦国大名今川家は、ここに幕を閉じます。

駿河を奪った武田信玄は、次に遠江、三河をねらって家康と敵対。元亀2年(1571)に北条氏と同盟を結ぶと、翌年、大軍で遠江、三河に侵攻します。対する家康は、居城の浜松城の前を悠然と通過していく武田軍に戦いを挑みました。世にいう三方ヶ原(みかたがはら)の戦いです。

夕刻から始まった戦いは、家康の生涯の中でも最大の敗北となり、多くの将兵を失いました。徳川十六神将に数えられる鳥居忠広(ただひろ)、本多忠勝の叔父・忠真(ただざね)、七郎右衛門の弟・大久保忠寄(ただより)も討死を遂げています。家康自身、少数の家臣に守られて、命からがら浜松城に逃げ帰る有り様でした。

苦労をともにしてきた仲間の死は、殿も七郎右衛門(忠世)も、辛かったでしょうね。

やがて日没となり、武田軍は犀ケ崖(さいががけ)に布陣。七郎右衛門は、家康に進言しました。

「このまま首をすくめて城に籠もっていては、敵に侮られるばかり。ここは一つ、夜襲をしかけてやりましょう。諸隊の鉄砲衆をそれがしにお預けくだされ」

やがて100人ほどの鉄砲足軽がそろうと、七郎右衛門は密やかに城を出て、勝ち戦で緊張がほぐれた敵陣に近づくや、筒先をそろえてつるべ撃ちに撃ち込みました。まさか意気消沈しているはずの徳川勢が夜襲をかけてくるとは思いもよらず、武田の将兵はあわてふためいたといいます。

「勝つには勝ったが、なかなかの敵である。多くの者が我らに討ち取られ、負け戦で軍律も乱れておるだろうに、かくも見事な夜襲をしてのけるとは、徳川は手ごわい」

信玄はそう語ると、浜松城を攻めずに軍を三河へと進めました。そしてほどなく陣中で病を得て、没するのです。家康は七郎右衛門ら家臣たちに助けられて、なんとか信玄から領国を守りました。

遠江の諸城を攻略

信玄没後、跡を継いだ息子勝頼(かつより)も武勇に優れ、天正2年(1574)には織田領の東美濃、徳川領の東遠江を奪い、さらに三河に侵攻します。家康は勝頼に独力で抗することができず、信長に援軍を要請しました。これに応えた信長が、一説に3万の大軍で来援し、徳川勢と合わせて3万8,000で、1万5,000の武田勝頼を破ったのが、冒頭で紹介した天正3年の三河長篠の戦いでした。信長が「膏薬のようだ」と絶賛した七郎右衛門の奮戦は、このときのことです。

勝頼に大勝した家康は、すぐさま東遠江の奪還に動き、七郎右衛門を主将に任じて二俣(ふたまた)城(浜松市)を攻めました。このとき、七郎右衛門は武田の守将依田信蕃(よだのぶしげ)を説得して開城に成功、依田とはその後も深く関わることになります。なお七郎右衛門は44歳にして城代となり、二俣城を預かりました。翌天正4年(1576)、犬居(いぬい)城(浜松市)を攻めた際には、家康は七郎右衛門に敵の防衛線の背後を衝かせ、攻略に成功しています。

さらに天正5年(1577)、家康が小山(こやま)城(吉田町)を攻めると、武田勝頼が大軍を率いて現われます。家康はひとまず退くことにし、七郎右衛門の従兄・新八郎忠勝に退却の指揮を命じました。ところが忠勝は武田と戦うべきだと主張し、「退却の指揮の執り方など存じませぬ」と拒んだのです。どうも大久保一族には、こうした三河武士特有の頑固さがありました。忠勝の態度に、かたわらにいた七郎右衛門は「殿に何ということを申すか」と叱り、「それがしに代わりをお命じください」と言って、その場を収めました。以後、忠勝は大久保一族の本家でありながら重用されず、七郎右衛門が一族を代表することになります。

勇敢で、頼れる兄貴的存在だったのかも。

天正9年(1581)、遠江の要衝・高天神(たかてんじん)城(掛川市)攻略でも七郎右衛門や弟忠教が活躍。翌年、信長の甲州征伐に合わせて、家康は駿河田中城(藤枝市)を攻めます。守将は、かつて二俣城で戦った依田信蕃でした。間もなく武田家が滅ぶと、依田は七郎右衛門の説得に応じて開城。その後、七郎右衛門の進言もあり、家康は依田を家臣にします。七郎右衛門と依田は敵味方を越えて、武人として心が通じるものがあったのでしょう。

二俣城。七郎右衛門が城代を務めた

家康の躍進を支えた一族

武田家滅亡の約3か月後、本能寺の変で織田信長が横死。武田旧領の甲斐、信濃(長野県)、上野(こうずけ、群馬県)は無政府状態となります。家康はすかさず七郎右衛門らを送って甲斐を押さえると、信濃を窺いました。一方、北条氏直(うじなお)も大軍を率いて上野を押さえ、碓氷(うすい)峠を越えて信濃に乱入します。徳川四天王の一人、酒井忠次(さかいただつぐ)は家康の命を受けて、信州諏訪(すわ)の諏訪頼忠(よりただ)を味方につけようと赴きますが、高圧的な態度に頼忠が怒り、交渉失敗。そこへ七郎右衛門らが合流しますが、七郎右衛門は酒井に立腹していました。

「左衛門督(さえもんのかみ、忠次のこと)殿の口が災いし、諏訪を敵に回してしまったではないか」
「何を言うか、七郎右衛門。わしに意見するか」

両者が口喧嘩をしているところに、北条の大軍が接近中の急報が入りますが、「七郎右衛門が先に引き上げよ、さもなければわしは動かぬ」「左衛門督殿こそ引き上げよ、わしとて動かぬ」と、まるで子供の喧嘩に。そんなことをしている場合ではないと、周囲の者がなだめてようやく退却します。

ちょっとコミカルで面白いですね(笑)。

その後、家康は新府城(韮崎市)に入り、若神子(わかみこ)城(北杜市)に拠る数倍の北条軍とにらみ合いますが、形勢逆転に一役買ったのが依田信蕃でした。依田は同じ武田旧臣の真田昌幸(さなだまさゆき)を味方に引き入れ、碓氷峠を押さえて北条の補給ルートを遮断したのです。窮した北条氏直は家康と和睦し、甲斐・信濃から手を引きました。その後、七郎右衛門は依田信蕃とともに、服属していない信濃の諸城を平定しますが、その過程で依田は惜しくも討死します。さらに七郎右衛門は真田昌幸の要請に応えて、上田城(上田市)普請に協力しました。

しかし天正13年(1585)、真田昌幸は家康に手切れを通告。同年8月、家康は七郎右衛門、鳥居元忠、平岩親吉(ひらいわちかよし)に上田攻めを命じます。七郎右衛門にすれば、自分が普請を手伝った城であり、複雑な心境だったかもしれません。ところが真田の戦術の前に、徳川勢は翻弄されます。七郎右衛門の弟・忠教が著した『三河物語』によると、七郎右衛門が再三、攻勢に転じることを進言しても、鳥居も平岩も怯(おび)えて聞く耳持たなかったとあります。歴戦の2人が怯えるとは思えず、真田の策謀を警戒して無理攻めを控えたと見るのが妥当なのでしょうが、しかしそれを、七郎右衛門ら大久保一族の論理に照らすと、「臆病」にあたるということなのかもしれません。

とはいえ、大久保一族の奮闘が家康の躍進を支えたことは事実です。七郎右衛門は北条氏滅亡後の小田原4万5,000石を賜り、文禄3年(1594)に他界しました。享年63。また弟の忠佐は上総茂原2万石、七郎右衛門の息子忠隣(ただちか)は武蔵羽生1万石を賜ります。徳川一族以外で親子兄弟が高禄を得た例は他になく、家康がいかに大久保一族を重んじていたかを裏づけています。

『どうする家康』では、周囲を和ますムードメーカーの部分と、キリッと武将の顔との2面性が描かれていて、惹きつけられます。今後の展開を見守りたいですね!

小田原城。七郎右衛門は小田原藩祖となった

参考文献:大久保彦左衛門『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)、新井白石『新編 藩翰譜 第二巻』(新人物往来社)、岡谷繁実『名将言行録』(牧野書房)、煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(東京堂出版)、菊地浩之『徳川十六将』(角川新書) 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。

この記事に合いの手する人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。十五代目片岡仁左衛門ラブ。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。