Culture

2023.09.19

日本マニアの震源地、フランスで起きた「ジャポニスム」の真実。パリ在住キュレーターが解説

ペリー来航の4年後にはパリに「ジャパンショップ」が

「ジャポニスム(仏 Japonisme/ジャポニズムなどとも)」という言葉は、1872年にフランスの美術評論家でコレクターのフィリップ・ビュルティによって作られた造語で、西洋に紹介された開国後の日本の芸術と文化の理想化から発展しました。

当時、日本で庶民をはじめとして広く親しまれていた商業美術である「浮世絵」とともに、その「装飾芸術(デコラティブ・アート)」は、西洋人の目にこの国の美術の本質を具体的に示すようになり、西洋の美術と装飾芸術の両方に対して非常に大きな影響を与えました。

パリを拠点とする美術商やコレクター、批評家や芸術家たちによって、展覧会、書籍、雑誌、美術館の設立、万国博覧会などを通じて推進されたジャポニスムは、19世紀後半には「日本マニア」の震源地となるパリを「支配した」といってよいほどでした。

当時珍重されたものとして、具体的にはお茶や絹織物のほか、磁器、漆器、ブロンズ像、浮世絵、書籍、西洋市場向けに特別に製造された骨董品や現代装飾品などが挙げられます。

ペリー来航から4年後の1857年には、早くもパリに日本の品々を扱う骨董品店がオープンしています。初期の店の中には、ヴィヴィエンヌ通り36番地の「ラ・ポルト・シノワーズ」や、1863年に開店したリヴォリ通り220番地のデソワ夫妻の店がありました。1870年代には、クレリー21番地のオッペンハイマー兄弟、サントノーレ283番地のポール兄弟、1877年にはピガール11番地のシシェル兄弟の各店舗がこれらに加わりました。

鍵になるジークフリード・ビングという人物

こうしたディーラーたちの中で最も影響力があった人物は、ドイツ生まれのジークフリード・ビング(1838-1905)でした。彼は当時の日本美術の第一人者であり(図1)、国際的なジャポニスムの中心人物。ショシャ通り19番地の店で日本や中国の工芸品を販売し、1881年には店舗をプロヴァンス通り22番地まで拡張しました。彼はその前年、日本を訪れていて、櫛や簪(かんざし)といった日本の日用品を含め、ありとあらゆるものを買い集めました。帰国後、彼は他にも2つの店を開いています。

図1: ヘンリー・ソムン『ファンタジー・ジャポネーズ』、ジークフリート・ビングの広告、1879年。

彼の店に出入りしていたのは、フィリップ・ビュルティ(美術評論家・作家)、サラ・ベルナール(当時フランスで人気を誇った大女優)、フェリックス・ブラックモン(芸術家)、アンリ・ファンタン=ラトゥール(画家)などでした。さらに、作家で鑑定家でもあったエドモン・ド・ゴンクール(1822-1896)は、弟のジュールとともに、この当時の初期ジャポニストのサークルでは重要人物です。エドモンは日本の美術商、林忠正(1853-1906)の協力を得て喜多川歌麿や葛飾北斎に関する本を出版し、1890年から1901年にかけて1万6千点以上の版画を輸入し、フランスにおける浮世絵の重要な専門家・画商となりました(図2)。

図2: 喜多川歌麿、木版画、18世紀、1902年にオークションで落札された林忠正コレクションより(ミヒャエル・フォルニッツ蔵)

なぜ徳川幕府は万国博覧会に参加したのか

ジークフリート・ビングもまた、自身の出版物『Le Japon Artistique』(1888-91年)を通じて、当時その見方がまだほとんど確立されていなかった日本美術について、より深い理解と知識の普及に努めました(図3)。

図3: S. ビング編『Le Japon Artistique』No.14、1889年

当初、ビングや彼の仲間たちの日本びいきは、主に美術愛好家やアマチュア・コレクターに向けてアピールされたものでしたが、「エキゾチック」な日本の美術は、万国博覧会を通じて、より多くの人々の知るところとなり、これ以降ビングたちは広く大衆にもアピールするようになっていきます。

1851年にロンドンで開催された万国博覧会を皮切りに、ヨーロッパや北米の主要都市で順次開催された万国博覧会は、各国が貿易を促進し、自国の文化遺産や植民地支配力を誇示し、観客を教育し、楽しませ、国家間の関係を改善するための重要なプラットフォームでした。

徳川幕府は、欧米使節団から西洋の「万国博覧会」の概念を学び、1867年のパリ万国博覧会に代表団を派遣し(図4)、幕府崩壊後の1873年には、明治政府がウィーン万国博覧会に参加しています。1878年、再びパリ万博が開催されると、日本への憧れは頂点に達し、欧州のメーカーが手掛けた「ジャポニスム的」な品々も、明治政府が出展した公式な美術工芸品などとともに展示されています。

図4: 1867年パリ万国博覧会での日本女性のパフォーマンス。illustrated in “Le Monde Illustré”.

「エキゾチックでオリエンタル」

明治政府は万国博覧会を通して、日本が欧米諸国と同等の産業発展を遂げた近代国家であることを示すとともに、「エキゾチック」で「オリエンタル」なものを好む欧米人の嗜好に応えるツールとして認識していたようです。

それを示すように、1878年のパリ万博に展示された和物の多くは、この万国博覧会のために特別に起立工商会社(※)に依頼して作らせた現代的な装飾品でした。中でも最も印象的だったのは、金工作家の鈴木長吉(1848-1919)による作品で、二羽の孔雀の形をした高さ230cm近いブロンズの香炉でした(図5)。この作品は大きな注目を集め、先程登場したジークフリード・ビングが購入し、後にロンドンのサウス・ケンジントン博物館(現ヴィクトリア&アルバート博物館)に売却されました。

※起立工商会社:明治時代初期に設立され、日本の美術品や物産品を世界へ輸出した日本の国策貿易会社。明治7(1874)年に開業し、日本における「貿易会社」の礎といわれる。

図5: 鈴木長吉作の香炉。イラスト週刊誌『ラール(L’Art)』より(フランス国立図書館蔵)

ただし、明治政府が、現代的であからさまな装飾や「オリエンタル化」された作品を展示することで、日本を近代的で工業的な国として宣伝しつつ、「日本美術はエキゾチックである」という西洋の一般的な認識を満足させようとしたのに対し、より本格的なフランスの美術コレクターたちは、宗教美術や伝統美術を含む「本物の」日本美術と文化について、より深く理解しようとしていたようです。

パリ万博に参加した個人出品者の中には、フランス政府の支援によって日本、インド、中国への旅行から帰国したばかりのエミール・ギメ(実業家/図6)がいました。彼は東洋美術の重要なコレクションを集め、故郷のフランスのリヨンに美術館を設立します。ギメ美術館は1889年にパリに移転し、イエナ広場に開館しました。

図6: 1878年パリ万国博覧会に出品されたエミール・ギメとそのコレクション。1878年「Le Monde Illustré」の図版より(パリ・ギメ美術館/装飾美術館)。

また、イタリアの美術コレクターで銀行家でもあったアンリ・セルヌスキ(1821-1896)は、日本にも訪れて膨大な美術コレクションを収集し、パリに東洋美術館を設立、1898年にモンソー公園のそばに開館しています。その10年後、クレマンス・ダネリー(1823-1898)の個人コレクションは、多くがS.ビングと林忠正から購入されたもので、パリのフォッシュ通り59番地にダネリー美術館として公開されました。

これら3つの美術館はいまもなお多くの人が訪れる美術館としてパリで機能しており、日本美術に対する魅力と関心の高さを物語っています。

国家としてのアイデンティティ

1880年代に入ると、明治政府の西洋に対する文化や芸術のプレゼンテーション方法は、変化し始めます。西洋諸国に比肩する国家としてのアイデンティティを確立するためには、日本の伝統的な芸術や文化の重要性を広く伝えることが重要であると自覚したためです。

1900年のパリ万国博覧会まで、日本は国家としての強力なアイデンティティ、さらには文化的なアイデンティティを世界に示すことに全力を注ぎます。それは、1880年代に注目された日本の文化芸術を「復興」させるものでもありました。

日本は初めて、仏教寺院や神社が持つ国宝から重要な歴史的遺物を集めた回顧展を開催します。展示は、現存する世界最古の木造建築である奈良・法隆寺の本堂を模した日本館「パレ・ジャポネ」(図7)で行われました。

図7: 1900年万国博覧会の様子を伝える絵葉書。「日本の真珠-金メダル」と書かれている。

この回顧展に呼応して、日本初の公式美術史『日本美術史』も発表されます。これは万国博覧会の開催に合わせてフランス語で出版されたもので、初期日本美術に焦点を当て、歴史、文化、伝統の重要性を強調しています。

このように振り返ったとき、1900年のパリ万国博覧会は、19世紀後半に日本が経験したさまざまな変化を色濃く反映したものでした。西洋からの新しい影響(思想、概念、制度など)の集大成であると同時に、長い歴史と伝統、文化を持つ日本という国の再評価であり、復興でもあったのです。

翻訳:安藤智郎(Translated by Ando Tomoro)
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マリーヌ・ワグナー

キュレーター、アートディレクター、「Tiger Tanuki: Japanese Art & Aesthetics」創設者。日本美術史の修士号取得後、出版業界やオークション業界を経て、現在はさまざまな観点から日本美術に関する執筆やキュレーション、アートディレクションを行っている。専門は日本の版画と19世紀から20世紀にかけての日本と西洋の文化交流。https://www.tiger-tanuki.com/
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