吉原に生まれ、自力で江戸の〝メディア王〟となった男・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)の仕事からプライベートまでを、AからZで始まる26の項目で解説するシリーズ【大河ドラマ「べらぼう」を100倍楽しむAtoZ】。第7回は「K=狂歌ネットワーク」をご紹介します! Zまで毎日更新中! 明日もお楽しみに。
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蔦重AtoZ
K=狂歌を通して作家とネットワークを築いた

蔦重が日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に進出し、「耕書堂(こうしょどう)」をオープンしたころ、江戸の知識層の間では、狂歌がブームになっていました。狂歌とは、和歌と同じ五七五七七の字数で、冗談や滑稽(こっけい)を詠んだのが狂歌。武士や学者らが狂名で参加し、披露会が盛んに行われるようになっていたのです。
流行に敏感な蔦重がこの好機を逃すはずはなく「蔦唐丸(つたのからまる)」の狂名(きょうめい=狂歌師としての号)で参加。さらに、狂歌師を集めた吉原での宴会や、舟遊びなども催していました。
ですが、蔦唐丸の狂歌の評価は決して芳(かんば)しいものではなく、蔦重はいずれ劣らぬ才知をもった狂歌師たちと知り合い、版元としてのネットワークを広げるために狂歌を利用していたという説も・・・。
実際に、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)や恋川春町(こいかわはるまち)と組んでヒット作を連発。
宿屋飯盛(やどやのめしもり)選の狂歌絵本『画本虫撰(えほんむしえらみ)』などの絵を、「筆綾丸(ふでのあやまる)」の狂名をもっていた喜多川歌麿に描かせていたのですから、その説は的を射ているのかもしれません。

左が手柄岡持(朋誠堂喜三二)、右が酒上不埒(恋川春町)。『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』 編/宿屋飯盛(石川雅望) 画/北尾政演(山東京伝) 天明6(1786)年 東京都立中央図書館 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000005-00163780
ちなみに、蔦屋で執筆していた戯作者たちの狂名は、恋川春町が酒上不埒(さけのうえのふらち)、朋誠堂喜三二が手柄岡持(てがらのおかもち)、大田南畝(おおたなんぽ)が四方赤良(よものあから)。
宿屋飯盛は狂名で、名前は石川雅望(まさもち)。

左が宿屋飯盛(石川雅望)、右が四方赤良(太田南畝)。『吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)』 編/宿屋飯盛(石川雅望) 画/北尾政演(山東京伝) 天明6(1786)年 東京都立中央図書館 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000005-00163780
江戸狩野派(えどかのうは)の絵師・酒井抱一(さかいほういつ)も尻焼猿人(しりやけのさるんど)という狂名をもっていて、蔦重が狂歌を通じて知り合った文化人のひとりでした。
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あの酒井抱一が、ペンネーム「尻焼猿人」でセクシーな狂歌を詠んでいた?
狂歌名人がそろった席に蔦重も!

当時人気を集めていた狂歌師が吉原で一堂に会するという狂歌の会。左ページの下の左から2番目の書道具と本を持っているのが蔦屋重三郎(蔦唐丸)。右ページの右から上側2番目が朋誠堂喜三二(手柄岡持)、その向かって左側に太田南畝(四方赤良)が描かれている。『吉原大通会(よしわらだいつうえ)』3巻 恋川春町 黄表紙 天明4(1784)年 国立国会図書館デジタルコレクション
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構成/山本 毅
※本記事は雑誌『和樂(2025年2・3月号)』の転載です。
参考文献/『歴史人 別冊』2023年12月号増刊(ABCアーク)、『蔦屋重三郎と江戸文化を創った13人 歌麿にも写楽にも仕掛人がいた!』車浮代著(PHP研究所)、『これ1冊でわかる! 蔦屋重三郎と江戸文化』伊藤賀一著(Gakken)