ロシアが蝦夷に触手を伸ばすのは時間の問題だった
カムサスカとは赤蝦夷の正しい名である
よく調べたところでは阿蘭陀(オランダ)の東にオロシャ国があって、都をムスコウビヤという
(中略)オロシャは寛文年中ごろから勢力を得て、正徳ごろには奥蝦夷のカムサスクの国まで従えていた
『赤蝦夷風説考』は、この一文から始まります。天明3(1783)年、北方情勢の緊張を背景に著された上下2巻からなるロシア研究書でした。著者は工藤平助(くどう・へいすけ)。印刷物ではなく工藤の「手書き」の文書でした。
「カムサスカ」とはカムチャッカ半島、「赤蝦夷」とは赤ら顔をした異人、「オロシャ」はロシア、そして「ムスコウビヤ」はモスクワを指します。モスクワを首都とした赤い顔の異人が住む国・ロシアが寛文年間(1661〜73)にカムチャッカ半島に進出しはじめ、正徳期(1711〜16)には支配下に置いた——と、記しているわけです。実際、1700年代初頭、ロシアは先住民族との戦いに勝ちカムチャッカを占領していました。
続いて享保期(1716〜36)にはカムチャッカと蝦夷の間に連なる千島列島にも現れはじめ、このままでは蝦夷(北海道の古称)に手を伸ばしてくるのも時間の問題である、事実、蝦夷における日本の拠点・松前(現在の北海道道南の松前郡)にまでロシアの船がたびたび姿を見せている——と警告を発します。
原題は『加摸西葛杜加国(かむさっかこく)風説考』といいますが、『加摸西葛杜加国風説考』を朱線2本で訂正し、『赤蝦夷風説考』に書き換えた例もあるため、いつからか題名が『赤蝦夷〜』となって定着したと考えられます。
また、『別本 赤蝦夷風説考』という書もありますが、こちらは後年、蝦夷地探検家として名をはせる最上徳内(もがみとくない)が『赤蝦夷〜』からの抜粋に『徳内見聞記』を加筆したもので、まったくの別物です。
著者の工藤平助について簡単に解説しましょう。生まれは紀伊藩の医師の家。13歳で仙台藩医の養子となって工藤姓を名乗り、宝暦4(1754)年に養父の後を継ぎました。その後は江戸の数寄屋町(現在の中央区銀座)に居住し、医師として活動します。
豊富な人脈を持ち、工藤の娘で国学者の只野真葛(ただの・まくず)は、長崎や松前の関係者と頻繁に交流する父の姿を伝え残しています(随筆『むかしばなし』)。その1人に松前藩の元勘定奉行・湊源左衛門(みなと・げんざえもん)がいました。湊は松前藩と商人との間に起きたトラブルの責任をとらされ、藩から追放された人物です。湊を通じて蝦夷の情勢を詳しく知ることができたようです。
また、長崎通辞(通訳)・吉雄耕牛(よしお・こうぎゅう)からも、平戸のオランダ商館がもたらすロシア情報を入手していたと見えます。オランダは当時、日本と交易していましたから、「ロシアは陰謀をたくらんでいることもあるため注意を要する」と呼びかけている——そう『赤蝦夷〜』に記しています。
抜け荷と金山開発に田沼意次が注目し…
さて、どういう経緯を経たかは不明ですが、『赤蝦夷風説考』は時の老中・田沼意次の目にとまります。前述の工藤の娘の随筆『むかしばなし』には、意次の側近だった三浦庄司が工藤と懇意にしていたことから、意次が三浦を通じて『赤蝦夷〜』の執筆を命じたとありますが、真相は定かではありません。
意次が注目したのは、北方情勢に加えて次の2点でした。
(1)対ロシアおよびアイヌとの通商の公開
(2)蝦夷金山の開発
(1)の「通商の公開」とは、松前藩がアイヌとの交易を独占し、またロシアとの間に「抜け荷」(密貿易)も「内々行われていると思う」(『赤蝦夷〜』)ため、これを調査して公開すべきということです。江戸では「青玉」と呼ばれるガラス玉の工芸品や、蝦夷錦といった絹織物が珍重されており、工藤はこれらの一部に「抜け荷がある」と考えたのでしょう。
そこで「一本の通商路」、つまり公儀—蝦夷およびロシアとに正式な交易ルートを築き、さらに抜け荷を禁じれば、おのずと幕府の財政に寄与すると提言しています。
(2)は工藤の親の知人に「蝦夷地金山の開発に力を貸した者がいる」と述べ、水中(各地の川)から砂金が採れることを示唆しています。
幕府の財政を改善する策を探っていた意次は、この話に飛びつきました。まず天明3〜4(1783〜84)年、配下の勘定組頭・土山宗次郎に命じて戯作者の平秩東作(へづつ・とうさく)を松前・江差に遣わします。狙いは抜け荷の事情を探らせることでした。平秩は平賀源内と組んで炭焼き事業に手を出すなど、たぶんに山師的な性格だったため、こうした役にはうってつけでした。
続いて天明5(1785)年、本格的に探検隊を組織して蝦夷に派遣します。800石積みの大型船2隻を建造し、東蝦夷・西蝦夷に向かう調査隊と遊軍の計3隊を編成。メンバーには前述の最上徳内も加わり、松前藩にも協力させる大掛かりな調査でした。
調査は蝦夷東部の厚岸(あっけし)から国後島・択捉島・得撫島まで、北は宗谷から樺太にまで及び、天明6(1786)年まで続きました。ところがその天明6年8月、10代将軍・徳川家治が没し、江戸の政情は風雲急を告げるのです。
蝦夷に関わった者たちが次々と失脚・投獄
家治という後ろ盾を失った意次は反田沼派の追い落としに遭い、8月27日、老中を罷免されます。意次の肝いりだった蝦夷調査も中止の決定が下され、探検隊も帰還を余儀なくされました。実は天明6年3月、樺太方面に向かった探検隊が宗谷で越冬する際、食料不足に陥って死亡者が続出するなど、多大な犠牲を払っていたことが後に判明します。
江戸へ戻った探検隊幹部たちも、意次失脚に連座して投獄・遠島に処される者が多くいました。意次に代わって政権を掌握した松平定信が、田沼派を一掃するために下した処罰です。意次のお側取次役関係者が蝦夷探検の内幕を記録した極秘文書『蝦夷地一件』でさえ、処分については大部分が欠落し、詳しいことを記していません。のちに少しずつ判明しますが、当時は定信を警戒し、あえて記録に残さなかったのでしょう。
咎(とが)は松前藩にも及びました。独裁者といわれた藩主・松前道廣は寛政4(1792)年、定信ら老中一同宛てに藩政から退く旨の血判状を提出し、事実上の強制隠居となります。抜け荷の疑惑やロシアに対する海防の不手際、素行不良などが原因だったと考えられます。
戯作者の創作にまで影響を及ぼす
蝦夷探検は出版にも影響を及ぼしました。恋川春町著、北尾政美画の黄表紙『悦贔屓蝦夷押領』(よろこんぶひいきのえぞおし/天明8[1788]年)の刊行です。「こんぶ」を昆布、「えぞおし」を絵草紙に掛けています。言葉遊びと風刺を巧みに操る春町らしい1冊で、版元は耕書堂でした。
源義経が奥州平泉で死なず、蝦夷へ逃れたという設定の物語です。義経は司馬ダンカンという道案内をたて、奥蝦夷を攻めに向かいます。そして当地の女王の娘婿に収まると、蝦夷人をだまして昆布などをせしめ、江戸に戻って大儲け——というストーリーです。
義経が田沼意次、義経家臣が土山宗次郎や平秩東作、司馬ダンカンが松前道廣、そして奥蝦夷の女王はロシア皇帝・エカチェリーナ2世(在位1762〜96)でしょう。義経一行の形をかり、蝦夷を搾取しようとする者たちを皮肉ったわけです。権力者を揶揄する春町の姿勢は、翌年に刊行され発禁の憂き目をみる『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)へと続き、彼の破滅につながっていきます。
『赤蝦夷風説考』をきっかけに起きた騒動は意次から定信への政権交代に利用され、蝦夷に関わった武士たちの悲劇的な処罰をもたらし、また戯作者の創作活動という文化面にも影響を与えました。上下2巻の文書が、これだけ歴史を変えてしまった例は、なかなか類を見ないでしょう。
そして、この時に工藤平助によって提言された北方情勢は、日露の間に解決されぬ国際問題として、今も横たわっています。
参考資料:『原本現代訳 赤蝦夷風説考』工藤平助原著・井上隆明訳 教育社、『北海道・東北史研究第3号「赤蝦夷風説考 再考」岩﨑奈緒子 サッポロ堂書店
アイキャッチ画像:『蝦夷国全図(写)』。『三國通覽圖説』を著した経世家・林子平(はやし・しへい)は若き日に工藤平助に影響を受けたといわれ、『蝦夷国全図』はその『三國通覽圖説』所収の地図。