では実際はどんな人物だったのかというと……その生き方や選択の背景には、先祖から受け継がれた複雑な家の歴史があると考えられる。
というわけで、まずは新田義貞の先祖のことから話しておきたい。それに、新田一族も頼朝様と同じ河内源氏の一族なんだが、2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では登場しなかったからな……。
今回は新田一族の初代から義貞が鎌倉を攻めるまでのダイジェスト解説だ!!
新田義貞の家系図
先ほど紹介したように、新田一族は、源頼朝(みなもとの よりとも)様や足利尊氏(あしかが たかうじ)と同じ河内源氏と呼ばれる一族だ。
河内源氏や足利一族については下記記事を参考にしてくれ。
ここでおさらい。河内源氏の系譜を3分で解説【鎌倉殿の13人】
先祖も濃ゆいぞ!『逃げ上手の若君』足利尊氏とミステリアスな一族のナゾに迫る
頼朝様と枝分かれしたのは、八幡太郎(はちまんたろう)こと源義家(みなもとの よしいえ)様の息子の代。下野国(しもつけのくに=現栃木県)に移住した義国(よしくに)殿からさらに足利と新田に枝分かれした。
下野国の足利荘を受け継いだのが足利義康(あしかが よしやす)殿。上野国(こうづけのくに=現群馬県)の新田荘を受け継いだのが新田義重(にった よししげ)殿だ。
新田氏初代の娘の悲恋
初代の新田義重殿の時代は、坂東の勢力が大雑把に北と南に分かれていた。義重殿とその父・義国殿が上野国を開発する段階で、緊張状態となったのが武蔵国を中心に北関東に勢力を伸ばしていた、いとこの源義賢(みなもとの よしかた)殿の勢力。木曽義仲(きそ よしなか)殿の父上だ。
そしてその義賢殿とバッチバチに対立していたのが、相模国や房総半島を中心に勢力を拡大していた源義朝(みなもとの よしとも)様! 頼朝様の父上だ!
そういう状況だから、義重殿は義朝様の長男・義平(よしひら)殿に、娘の祥寿姫を嫁がせて、同盟を組んだ。

この義朝様と義賢殿の確執の詳細は過去記事で。
平安版『翔んで埼玉』?大蔵合戦を3分で解説【鎌倉殿の13人】
義平殿が義賢殿を討ち取って、その後保元の乱、平治の乱へと続く。
保元の乱とは?後白河天皇が関わった日本初の本格的内乱を解説
源頼朝も参加!大河の原作に直結する戦「平治の乱」を3分で解説【鎌倉殿の13人】
平治の乱で、義朝様は平清盛(たいらの きよもり)殿に敗れて敗走中に討ち取られ、頼朝様は捕まって伊豆に流された。
この間の義重殿の動向は定かではない。群馬県太田市にある清泉寺(せいせんじ)の伝承によると、平治の乱後に処刑された義平殿の首を祥寿姫が持ち帰って弔ったとされている。
新田氏初代のとその周辺
その後、義朝様・義平殿を失った相模国では平家の家人だった鎌倉党の大庭氏が幅を利かせるようになるが……。
国村隼演じる大庭景親とは?相模国代表!平家の家人で坂東武者のかたき役!【鎌倉殿の13人】
北関東は北関東で色々ゴタゴタがあったらしく、新田義重殿は本格的に秩父党などの周辺豪族と一線を交えていた。その一方で、足利氏や平賀氏の子を猶子(ゆうし)にしたり、烏帽子親(えぼしおや)になったり、武田(たけだ)氏とも婚姻関係を結んだりして、堅実に周辺国の同族との足場を固めたのだった。

ちなみに猶子というのは養子と似た概念なんだが、養子は完全にその家の子ととなり相続権もある。猶子はその家の子となるわけではないので相続権はないが、実の子並みに冠婚葬祭の面倒をみて後ろ盾となるのだ。オレは頼朝様の猶子だったよ! ……成人する前に頼朝様は亡くなってしまったけどな。
それから烏帽子親というのは、当時の成人式である加冠(かかん)の儀で、初めての烏帽子を被せる人物だ。成人後の名前「諱(いみな)」の名づけ親でもある。こちらも実際の親子のように人生を通して強い後ろ盾となってくれる存在だ。
結婚に関しても当時の結婚は家と家の結びつきがとても強かった。こうしてみると、新田氏が上野国においていかに強力な家か、想像に難くないだろう。
新田氏初代と源頼朝様
さて、そんな上野国の有力者・新田義重殿なのだが……源平合戦の時の初動は結構遅れていた。というのも、義重殿自身は平家側の人だったんだ。新田氏の所領である新田荘は平家の荘園だしな。
しかも信濃国ではかつて敵対していた源義賢殿の息子、木曽義仲殿が頭角を現して平家に対抗してきたし、他の同族も次々に鎌倉に入った頼朝様に味方している。まさしく四面楚歌状態だ。
頼朝様が挙兵したその年の暮、治承4(1180)年12月22日に新田殿は頼朝様に呼び出された。しかし呼ばれたのに鎌倉に入れない。
頼朝様は言った。
「お前源氏なのにこっちに来ないどころか、上野国で軍備整えようとしているって噂があるが、どういうつもりなのか」
新田殿は慌てて「いえいえ、頼朝様に逆らうつもりはないんですよ。戦が始まるので当主が安易に城から出ちゃいけないって部下が止めるもんだから、グダグダしちゃって、ほんとすみません」と、弁明した。
こうして関東にいた源氏はみんな頼朝様の配下となったのだった。
……ってなれば平和なんだけどなぁ、それぞれの国で代々力をつけてきた源氏たちだ。プライドだって高い。頼朝様を源氏の長だと素直に認めるのは難しいことだったのかもしれない。
特に甲斐国の武田氏、上野国の新田氏は冷遇されることとなる。
新田氏冷遇の原因の一つと言われているのが「祥寿姫」のこと。先ほど紹介した頼朝様の異母兄・義平殿の元妻なのだが……。『吾妻鏡』寿永元(1182)年7月14日条によると、頼朝様の側室にする計画があって、頼朝様は祥寿姫に艶書(つやがき/えんしょ=ラブレター)を送った。
しかし「御台所(=北条政子)の機嫌を損ねるから」と言って新田殿は祥寿姫を他の男に嫁がせてしまったのだ!
……まぁその後の亀の前事件を思えば、新田殿の判断は正しかったのかもしれない。
亀の前事件については下記を参照。
▼妻の妊娠中に不倫?バレた後も密会⁉︎源頼朝を虜にした美女「亀の前」とは
▼頼朝様の愛妾、亀とは?人物解説!江口のりこ演じる女性は頼朝様のヒミツの恋人?【鎌倉殿の13人予習シリーズ】
しかし、同族の足利氏は、頼朝様と同じように北条氏から嫁をもらい、尊氏にいたるまで鎌倉幕府内でもそれなりの地位にいた。そう考えると新田殿は頼朝様と直接の付き合いだったのに、もったいないことをしたとも言える。
もしこの縁談が進んでいたら、一体どんな鎌倉になっていたんだろうな……。
その後の新田氏
新田義重殿と頼朝様は仲良くなかったが、ずっと険悪だったわけではなかったようだ。
祥寿姫の事件から約10年後、『吾妻鏡』建久4(1193)年4月28日条には頼朝様が狩りの帰りに「新田館」に寄って遊んだという記事があるし、義重殿が亡くなった後、尼御台がその死を悼むような事を言っている。(『吾妻鏡』建仁2(1202)年1月29日条)
冷遇はされていたが、武田氏のように頼朝様から誅されることもない絶妙な距離感をたもちつつ、上野国で大人しくしていた、ということだろうな。
しかし頼朝様が亡くなって、源氏三代が滅んだ後も険悪ではないが冷遇されている状況は続いた。北条氏との関係もあまりよろしくなかったようだ。
『吾妻鏡』にもほとんど登場していないし、一時期は没落して分家に実権を握られていた時期もあったらしい。新田義貞自身も出生地や生年など、新田の家督を継承するまでの前半生は曖昧だ。

初代の義重殿の頃にはあった広大な所領も、義貞が家督を継いだころには僅かしか残っておらず、無位無官であった。
しかし同族の足利氏とは、代々それなりに上手くやっていたようだ。
新田義貞と鎌倉幕府滅亡
元弘元(1331)年から始まった、後醍醐天皇と鎌倉幕府の対立「元弘の乱」の時、新田義貞は大番役で京都にいた。大番役というのは鎌倉御家人に課せられた京都を警備する兵役義務だ。
義貞は最初鎌倉方として護良(もりよし)親王や楠木正成(くすのき まさしげ)を相手に戦ってはいたが、元弘3/正慶2(1333)年3月ごろ、戦の途中で故郷の新田荘に帰ってしまう。
『太平記』によるとこの時すでに義貞は鎌倉幕府の滅亡を予感していて、敵方の護良親王を通じて密かに「北条を倒せ」という令旨(りょうじ=親王の命令書)を受け取っていたらしい。
▼護良親王についてはこちら
6歳で出家も、最期は非業…もう一人の『逃げ上手の若君』護良親王・波乱の生涯
『太平記』は軍記物語だからその記述がすべて正しいとは限らないが、この年の1月から5月にかけて護良親王が「北条を倒せ」という令旨を各方面に出しまくっていたのは事実だ。またこの頃の護良親王の令旨は綸旨(りんじ=天皇の命令書)と同じ扱いをされていたようだ。
一方、鎌倉幕府は戦続きで資金をやりくりするために、各地に増税した。新田義貞も税を課せられたらしいが、それが大金の上に納付期限がわずか5日ということで、領民ともども猛反発した。怒りのあまりに集金に来た幕府の役人を殺してしまったのだ……。
その勢いで、5月に鎌倉幕府に向けて挙兵する。義貞の元に最初に集まったのは150騎ほどだったが、鎌倉幕府に不満を持つ武士たちが集まり、最終的には1万騎に膨れ上がった。
こうして『逃げ上手の若君』の第1話に繋がる。……漫画では足利尊氏が攻めて来たみたいにも見えるが、実際は新田義貞だ。
ノリで挙兵したみたいにも見えるが、『太平記』には義貞は挙兵の際に受け取っていた令旨を掲げてアピールしたことが書かれている。つまり命令に従っただけ、ということだ。一応、「大義名分はこちらにある」という形にはなっている。
それから、この挙兵は義貞の独断ではなく、足利尊氏の指示によるものだとも考えられている。
尊氏は義貞の挙兵とほぼ同時期に京で幕府軍相手に大暴れした。新田氏と足利氏は地位の上下は開いたものの同族で先祖代々仲良くやってきたし、義貞軍には尊氏の子息・千寿王(数えで4歳)も父の名代として合流している。
ライバル関係のように描かれることも多いが、研究者の中には「新田氏は足利氏の分家だ」とする意見もある。もしそうだとしたら、足利氏と新田氏の立場に開きがあったのは当然だし、両氏の連携というよりは足利氏内での一つの動きとも見える。
新田義貞と源氏の血筋
『逃げ若』で新田義貞が部下から「源氏なのだから武士の頂点に立つ資格がある」と言われ、「源氏だからなんなんだ? 鎌倉幕府で一番偉かったのは北条で、みんな北条に従っていた」というような事を言っていたが、こういう先祖から続く背景もあったとわかれば、このセリフもまた違った印象になると思う。
漫画では直感で動くパワフルな武士として描かれていたが、実際の新田義貞は家柄の複雑な立場の中で立ち回ってきた人物だ。直感だけでなく政治的駆け引きや戦略的判断も求められたこともあったろう。
歴史の裏側には、人間の一筋縄ではいかない感情と葛藤が隠されているものだ。
アイキャッチ画像:『大日本歴史錦絵』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション
参考文献
『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館
『世界大百科事典』平凡社
『国史大辞典』吉川弘文館
久保田順一『新田義重 北関東の治承・寿永の乱』戎光祥出版
峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館
山本隆『新田義貞』ミネルヴァ書房
鈴木由美『中先代の乱』中公新書
谷口雄太『〈武家の王〉足利氏』吉川弘文館

