作家堺屋太一が描いた「補佐役」
現在、多くの人が「秀長って誰?」と思う一方で、60歳以上の年代の方の中には、「若い頃に、名前を聞いたことがある」という人もいらっしゃるかもしれません。というのも、今からちょうど40年前の昭和60年(1985)、作家堺屋太一(さかいやたいち)の小説『豊臣秀長 ある補佐役の生涯』上下巻がベストセラーになっているからです。
堺屋太一といえば、通商産業省(現、経済産業省)の官僚でありながら、作家としても活躍したことで知られます。たとえば「団塊(だんかい)の世代」という言葉は、この人の小説のタイトルが元でした。また小説『豊臣秀長』と同年に発表したビジネス書『知価(ちか)革命』は、工業社会の次に来る情報化社会を予見して話題となり、堺屋太一の先見性は当時の多くのビジネスパーソンの支持を集めています。そんな作家が取り上げた歴史上の人物であったため、『豊臣秀長』は一躍、話題となりました。堺屋は小説の中で、秀長を「補佐役」と位置づけています。補佐役とは何でしょうか?
堺屋は、「補佐役 –それは、参謀ではない。専門家でもない。もちろん一部局の長、つまり中間管理職でもない。そしてまた、次のナンバー1でもない。『この人』は、豊臣家という軍事・政治集団の中でナンバー2の地位にあった」とします。次のナンバー1になることはない、ナンバー2が補佐役。秀吉にすれば秀長は、最も身近にいながら「自分に取って代わろうとするのでは?」と心配する必要のない存在でした。堺屋の言葉を借りれば、「自らの名を高めようと欲することなく生きた。それ故にこそ兄・秀吉と同化し真のトップ機能の一部となり得た」。堺屋は、そんな補佐役が現代社会(当時)にこそ必要だとし、それが、秀長を小説の主人公に取り上げた動機であったようです。
堺屋太一『豊臣秀長』 (1985年刊)
企業をはじめとするさまざまな現代の組織において、多くの人は「自分が高く評価されて、出世したい」と願うものです。自分の評価は二の次で、上役の功績のために、補佐役として裏方で貢献しようとする人はまずいないでしょう。それは、戦国時代でも同じでした。もし、そうした献身的な補佐役を上役が得る幸運な機会があるとすれば、上役と補佐役が兄弟、夫婦のような家族関係にあるか、もしくは上役の目指すものに共鳴し、また上役の人間性に魅了された部下が、自ら補佐役を買って出た場合に限られるのかもしれません。秀長のケースは、上役と補佐役が兄弟という家族関係にあてはまりますが、はたして実際の秀長はどう考え、行動していたのか、以下、探ってみましょう。
兄秀吉のスカウト
豊臣秀長は天文10年(1541)に、尾張(おわり)国愛知郡中村(現在の愛知県名古屋市中村区)に生まれました(天文9年説もあり)。父は尾張清須(きよす)城の織田大和守(おだやまとのかみ)に仕え、負傷して帰農したという木下弥右衛門(きのしたやえもん)、母はなか。姉にとも、兄に藤吉郎(とうきちろう、のちの豊臣秀吉)、妹にあさひがいます。秀長は小一郎(こいちろう)と名乗りました。従来、小一郎とあさひは、弥右衛門の死後に母が再婚した竹阿弥(ちくあみ)との間にできた子とされ、4歳違いの藤吉郎と小一郎は異父兄弟と見られてきましたが、最近の研究では兄弟姉妹全員が弥右衛門となかの子と考えられています。
畑仕事を嫌って、早くに家を飛び出した兄・藤吉郎と違い、小一郎は穏やかでまじめな性格で、畑仕事に精を出し、家族の暮らしを支えていたようです。ただし、木下小一郎の名前が良質な史料に初めて現れるのは、天正2年(1574)、小一郎34歳のときのこと。それまでの小一郎がどこで何をしていたのか、史料的には不明です。とはいえ、34歳の小一郎は、織田信長の伊勢長島一向一揆(いっこういっき)攻めの際、先陣を務める部将の一人として登場しますので、若い頃から兄秀吉とともに信長に仕えていたことは間違いないでしょう。

兄の木下藤吉郎秀吉が織田信長に仕えたのが、永禄元年(1558)、小一郎18歳のときのこと。秀吉はほどなく、信頼できる右腕が欲しくなり、故郷に帰ると、畑仕事にいそしんでいた小一郎をスカウトします。穏やかな性格で、争い事を好まなかったであろう小一郎が、よく兄についていく決心をしたものですが、秀吉は持ち前の明るさで、「その方が、家族にもよい暮らしをさせられるぞ」とでも言って誘ったのでしょう。江戸時代に書かれた『武功夜話』には永禄5年(1562)、秀吉が百人足軽頭になったときのこととあり、小一郎は22歳ですが、タイミングとしてはその頃だったかもしれません。
調整力と温和な性格
秀吉には、強烈な出世欲がありました。しかし、武士出身ではないため、生え抜きの家臣は皆無です。そこで秀吉は、見どころのありそうな者を次々に誘って配下に加え、合戦で手柄を立てて褒美を多くもらい、配下を養うとともに、さらに人を集めて木下勢の増強を繰り返します。そうしたことができたのも、勢力拡大を続ける織田信長の家臣だからこそ。また信長が家柄にこだわらず、能力のある者をどんどん重臣に取り立てたことも、秀吉のやる気を大いにかき立てたでしょう。
そして、秀吉が集めたくせの強い連中の士気が下がらないよう、戦闘部隊としてうまくまとめていくのが、当面の小一郎の役割ではなかったでしょうか。面倒の多い、気苦労の絶えない裏方仕事だったはずで、小一郎の性格でなければ務まらなかったかもしれません。また秀吉にとって小一郎は、唯一本音が話せる存在でした。信長から認められるために「お調子者」を装い、常に困難な仕事を笑顔で引き受けて、見事に成功させていく秀吉は、まさに命がけの綱渡りの日々で、気の休まる時がありません。そんな秀吉が小一郎と2人だけの時は、一息つくことができたのでしょう。一方の小一郎は、自分よりもはるかに激しい生き方をしている兄の姿に接して、「裏方は自分がまとめ、兄が外の仕事に専念できるようにしよう」と思うようになっていったようです。この役割分担が、秀吉と小一郎コンビの基本スタンスであり、「補佐役」としての小一郎の生き方の始まりでもありました。

小一郎が「補佐役」を務め始めた頃、信長は美濃(みの、現、岐阜県)の斎藤龍興(さいとうたつおき)攻めの最中です。攻撃拠点となる墨俣(すのまた)の地をなんとか確保しようとする秀吉に対し、信長は蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)、前野長康(まえのながやす)ら、濃尾国境付近の地元勢力を与力(よりき)として付けました。彼らは信長の家臣ですが、一時的に秀吉の指揮下に入って協力します。これを、与力といいました。そうした与力の手勢と、秀吉独自の手勢をうまく協調させるのも、小一郎の仕事だったでしょう。結果、美濃攻略において木下勢は大きな手柄を立て、小一郎の調整力と、温和で実直な性格は、蜂須賀や前野ら与力の面々からも信頼されることになりました。彼らがのちに秀吉の直臣になるのは、小一郎の存在も大きかったかもしれません。
兄を支える武将へ
永禄11年(1568)、前年に美濃を攻略して新たな本拠とした信長は、足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛、義昭を室町15代将軍とし、自らは後見役となります。しかしほどなく、将軍義昭と信長の仲は冷え込みました。そうした中、信長による越前(えちぜん、現、福井県)攻めをきっかけに、信長と越前朝倉(あさくら)氏、北近江(きたおうみ、現、滋賀県北部)の浅井(あざい)氏との戦いが始まります。姉川の戦いをはじめ秀吉が参戦した主要な戦いには、小一郎も加わっていたでしょう。
また浅井氏の本拠・小谷(おだに)城を攻めるため、秀吉は前線基地の横山城に入ります。秀吉が不在のときは、小一郎が守将でした。この折、小一郎は秀吉の与力であった竹中半兵衛(たけなかはんべえ)と協力して敵の侵攻を防ぎ、また一説に、半兵衛とともに浅井の重臣・宮部継潤(みやべけいじゅん)を説得、味方につけるなどの活躍をしたとも伝わります。
天正元年(1573)、信長は小谷城を攻略。滅亡した浅井氏の旧領は、攻略で最も活躍した秀吉に与えられました。戦いには小一郎も加わっていたはずで(一説に先陣とも)、兄より近江の一部を所領として与えられています。新たに長浜城を築き、城持ち大名となった秀吉のもと、小一郎も自前の家臣を持つ立場となりました。翌年、伊勢長島一向一揆との戦いで、『信長公記』に「木下小一郎」の名が初めて記されます。これが良質な史料に初めて登場した小一郎で、ときに34歳でした。
なお秀吉は、長浜城に母親のなかや妻のねねを迎えます。一方の小一郎は、美濃を攻略した永禄10年頃に結婚していたと見られ、妻の名は不明ですが(『豊臣兄弟!』では慶〈ちか〉)、長男与一郎(よいちろう)も生まれていたはずです。小一郎の家族も、長浜城に入ったと考えてよいでしょう。

さらに天正3年(1575)、近江で小一郎が出した文書には、その名が「羽柴(はしば)小一郎長秀(ながひで)」と記されています。実は秀吉は、天正元年より木下姓ではなく、羽柴姓を使い始めていました。これは信長お気に入りの重臣・丹羽(にわ)長秀の「羽」と、筆頭家老ともいうべき柴田勝家(しばたかついえ)の「柴」を組み合わせて作った姓で、秀吉らしい「ご機嫌取り」でしたが、小一郎も兄にならって、羽柴姓に改めていたことがわかります。また名の「長秀」は、丹羽長秀にあやかったとも、信長と秀吉から一字ずつ取ったともいいますが、のちに長秀から秀長に改めました。本記事では秀長に改名するまで、もうしばらく小一郎で通します。
但馬平定
天正5年(1577)、信長は秀吉に、播磨(はりま、現、兵庫県南部)をはじめとする中国平定を命じ、小一郎も参加。播磨の地元勢力は、姫路城の黒田官兵衛(くろだかんべえ)の協力もあって、比較的速やかに織田に従うことでまとまります。同年、小一郎率いる軍勢が但馬(たじま、現、兵庫県北部)を攻め、竹田城を落としました。竹田城といえば、雲海に浮かぶように見えるので、近年は「天空の城」とも呼ばれています。この頃の小一郎は、秀吉の別働隊として、単独で軍勢を任される立場になっていました。小一郎は竹田城代(城主代行)となり、但馬平定を進めます。また小一郎に与力として協力したのが、かつて浅井氏の重臣だった宮部継潤でした。
ところが翌年、織田に従うことでまとまったはずの播磨の地元勢力の大半が、離反する事態となります。秀吉は、地元勢力の中心である別所長治(べっしょながはる)の三木城を攻めますが、離反の背後には中国地方の覇者・毛利氏の存在もあり、予断を許さない状況でした。そんな中、離反しなかった黒田官兵衛に対し、秀吉は「わが弟の小一郎と同然に、心安く思う」と伝えています。秀吉が最も信頼するのが、小一郎であることがうかがえます。一方、但馬平定を進める小一郎に、信長は三木城攻めに加勢するよう命令。小一郎は但馬を宮部継潤に任せ、三木城攻めに加わりました。三木城を囲む陣には、蜂須賀正勝、前野長康、竹中半兵衛ら、旧知の面々の姿もあります。

兵糧攻めの末、天正8年(1580)に三木城が落城。秀吉はこれを機に一気に播磨を平定、また小一郎も但馬を平定しました。秀吉が小一郎に但馬平定を急がせた理由は、生野(いくの)銀山を押さえるとともに、東隣の丹波(たんば、現、京都府中部、兵庫県東部)、丹後(たんご、現、京都府北部)を平定したライバルの明智光秀(あけちみつひで)が、西に進むのを牽制する意味があったともいわれます。小一郎は但馬で10万5,000石を与えられ、織田家臣の中でも有力部将といえる身分となりました。また但馬平定や三木合戦では、小一郎家臣の藤堂高虎(とうどうたかとら)も大いに活躍しています。
天下人への後押し
天正9年(1581)、秀吉は因幡(いなば、現、鳥取県東部)鳥取城を攻囲。城将は毛利氏の重臣・吉川経家(きっかわつねいえ)で、いよいよ毛利氏との直接対決でした。もちろん、小一郎の軍勢も加わっています。堅城とうたわれた鳥取城に対し、秀吉は三木城攻めと同様に兵糧攻めを行い、4ヵ月ほどで攻略。飢餓に陥った城内の凄惨な様子は、「渇(かつ)え殺し」と呼ばれました。因幡を押さえた秀吉は、矛先を転じて毛利水軍の拠点・淡路(あわじ)を攻略、じりじりと毛利氏の勢力を後退させます。
さらに翌天正10年(1582)、秀吉はおよそ2万の軍勢で備前(びぜん、現、岡山県東南部)に進軍、そのうち5,000を小一郎が率いていました。備前岡山城で織田方の宇喜多(うきた)勢1万と合流すると、3万の大軍で備中(びっちゅう、現、岡山県西部)に進み、諸城を次々と抜いて、毛利の勇将・清水宗治(しみずむねはる)の高松城を囲みます。これに対し、救援のため毛利軍5万が駆けつけ、毛利との決戦の舞台が整いました。秀吉は信長に援軍を要請、毛利討伐の花を主君に持たせようとします。信長は明智光秀に先発を命じ、自らは京都に滞在中、6月2日未明に起きたのが本能寺の変でした。信長と長男信忠(のぶただ)は、光秀の謀叛によって命を落とします。
変事を6月4日に知った秀吉は、急ぎ毛利方と和睦すると、6日より山陽道を東へと駆け、姫路を経由して11日には尼崎に到着します。いわゆる「中国大返し」で、もちろん小一郎も一緒でした。秀吉の軍勢が山陽道を無事に通過できるよう、小一郎の家臣・羽田正治(はねだまさはる)が地元勢力に依頼した記録が残ります。13日、明智勢との山崎の戦いでは、黒田官兵衛らとともに小一郎の軍勢も奮戦し、勝利に貢献しました。光秀を討って、主君信長の仇をとった秀吉は、織田家中で最も強い発言力を持つことになり、同年の織田家の家督を決める「清須会議」を有利に進めます。

さらに翌天正11年(1583)、秀吉は対立を深めていた柴田勝家と、近江の賤ヶ岳(しずがたけ)で衝突。織田家中の主導権争いでした。このとき、伊勢(現、三重県西部)の滝川一益(たきがわかずます)、岐阜の織田信孝(のぶたか、信長3男)も秀吉に敵対、秀吉は3正面作戦を強いられ、秀吉不在の賤ヶ岳は、小一郎が柴田勢と対峙することになります。これを見て、柴田配下の佐久間盛政(さくまもりまさ)が猛攻をかけ、秀吉方の中川清秀(なかがわきよひで)、高山重友(たかやましげとも)の陣を破りますが、小一郎は陣から動かず、猛攻に耐えました。岐阜方面からの、秀吉軍の到着を待つためです。秀吉は約52kmを5時間で踏破する「美濃大返し」をやってのけ、一気に戦況を覆して勝利しました。小一郎のぎりぎりの粘りが、秀吉に華々しい勝利をもたらしたのです。結果、織田家臣の大半が秀吉に臣従することになり、秀吉の天下人への道が大きく開けました。

豊臣秀長としての役割
賤ヶ岳の功績で、小一郎は秀吉より播磨・但馬を拝領し、姫路城を居城とします。翌天正12年(1584)、信長2男の信雄(のぶかつ)が徳川家康と結び、秀吉と争う小牧・長久手の戦いが勃発。秀吉は局地戦では家康に敗れますが、すでに、それをものともせぬほど政治的優位に立っていました。小一郎も参戦しますが、その役割は、秀吉が後継者にと考えている甥の秀次(ひでつぐ、姉のともの子)の後見にあったようです。同年、44歳の小一郎は羽柴美濃守「秀長」と改名しました。理由は不明ですが、もはや織田家に気兼ねせず、「長」よりも「秀」を上にしたのかもしれません。
天正13年(1585)6月、秀長は総大将として四国攻めに臨み、四国を平定しました。同年7月に関白に就任し、朝廷の最高職位にのぼった秀吉の名代ということでしょう。また、その2年後の九州征伐では、肥後(ひご、現、熊本県)方面の大将を秀吉、日向(ひゅうが、現、宮崎県)方面の大将を秀長が務め、九州を平定しました。いずれも敵をはるかに上回る大軍の指揮であり、賤ヶ岳のようなぎりぎりの戦いではありません。戦いに明け暮れる時代は、ようやく終わりに近づいていました。
四国攻めの後、秀長は紀伊(きい、現、和歌山県)・和泉(いずみ、現、大阪府南西部)・大和(やまと、現、奈良県)100万石の大大名に任ぜられ、大和郡山(やまとこおりやま)城を本拠とすることになります。また同じ頃、豊臣姓を賜って、豊臣秀長とも称しました。天正15年(1587)には従二位権大納言となり、「大和大納言」と呼ばれることになります。そんな豊臣政権の重鎮となった秀長の主な役割は、諸大名が豊臣家に親しみを持てるようにすることではなかったでしょうか。

秀吉もかつては「人たらし」と呼ばれるほど、人の心をつかむことが得意でしたが、天下の実権を握ると、威厳を保つために、そうした顔をあまり見せなくなります。代わりに、秀吉の大坂城を訪れた者に、気さくに接したのが秀長でした。豊後(ぶんご、現、大分県南部)の大友宗麟(おおともそうりん)が大坂城を訪れ、秀吉と対面した際には、別室で秀長は宗麟に酒をすすめ、手をとって、
「私はこのような人間ですから、ご安心ください。秀吉の家中では内向きのことは千利休(せんのりきゅう)が、表向きのことは私が承っています。ためにならぬことは一切ありませんので、何事もご相談ください」
と語り、宗麟を感激させています。他にも秀長が、越後(えちご、現、新潟県)の上杉景勝(うえすぎかげかつ)や、かつて干戈(かんか・戦い)を交えた毛利輝元(てるもと)とその一族を歓待した記録が残ります。
しかし、ほどなく秀長は体調を崩すようになり、有馬温泉に何度か湯治に出かけています。同じ頃、秀吉の側室・淀殿(よどどの)が懐妊。秀吉は驚喜するとともに、我が子を後継者に望むようになり、後継者に決めていた甥の秀次や、弟の秀長ら肉親との間に距離が生まれました。そうした心労も、秀長の病に影響したのかもしれません。秀長には長男の与一郎がいましたが、若くして亡くなっており、姉ともの3男秀保(ひでやす)を娘の婿に迎え、後継者とします。天正19年(1591)1月、秀保と娘の祝言を見届けた直後、秀長は逝去しました。享年51。
もし、秀長がもう少し長命であれば、その後に悲劇を迎える豊臣家の運命も、随分違っていたのかもしれません。とはいえ、秀吉が織田家の足軽から天下人に駆け上がる道を、常に伴走し、後押ししたのが秀長であり、秀吉にとって、なくてはならない「補佐役」だったことは間違いないでしょう。
2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、秀長の活躍がどのように描かれるのか、楽しみです。
参考文献:堺屋太一『全一冊 豊臣秀長』(PHP研究所)、柴裕之編著『シリーズ・織豊大名の研究14 豊臣秀長』(戎光祥出版)、河内将芳『図説 豊臣秀長』(戎光祥出版)、太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)、新人物往来社編『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社) 他

