あさひの父の謎
朝日姫の誕生は、『徳川幕府家譜(とくがわばくふ かふ)』や『幕府祚胤伝(ばくふ そいんでん)』に書かれている享年から逆算すると天文12(1543)年。豊臣秀吉とは10歳、主人公の秀長とは7歳差です。母は兄弟と同じく「なか(のちの大政所)」ですが、父親は諸説あります。
というのも兄弟の母である「なか」の配偶者として名が挙げられる人物は2人います。「木下弥右衛門(きのした やえもん)」と「竹阿弥(ちくあみ)」です。
弥右衛門は出自やその生涯はほとんど記録に残っておらず、秀吉も父についてはあまり語らなかったようです。
江戸時代に作られた、秀吉の伝記『太閤素生記(たいこう すじょうき)』によると、弥右衛門の死後、母は竹阿弥と再婚しました。その竹阿弥も、秀吉が世に出る前に亡くなってしまったと考えられているようです。
『太閤素生記』には、竹阿弥が秀長と朝日の実父と書かれていますが、一方で、一番上の姉「とも(日秀尼)」ゆかりの寺に伝わる『瑞龍寺差出(ずいりゅうじ さしだし)』には、ともの父親は天文12年に亡くなったと書かれています。

朝日自身の生年から素直に考えると、豊臣兄弟全員の実父は同じであると推測できます。が、「ともの父」の名前が記されていないので竹阿弥である可能性も捨てきれないようです。
その弥右衛門と竹阿弥も別人であるとされてますが、それとは別に弥右衛門が出家して竹阿弥と名乗ったという話もあるようで……。謎過ぎますね……どうなってるんですか、なかさん!
そこら辺の事情が、今回の大河ドラマでどう描かれるのか楽しみですね。
あさひの半生
そんなあさひちゃん。実際の少女時代については記録がないのでわかりませんが、ドラマ公式サイトの紹介文によると「天真爛漫」と書かれていて、ドラマ上はすくすくとよい子に育ったようです。
実際の朝日姫も当時のごく一般的な女性として育ち、嫁ぎました。あさひの兄、秀吉が織田信長に仕えて出世すると、それに伴って朝日姫の夫も取り立てられて「佐治日向守(さじ ひゅうがのかみ)」を名乗ります。
しかし朝日姫の夫についてもハッキリとしたリアルタイムの記録がなく、諸説があるようです。ただ「豊臣秀吉の妹」という立場で未婚であることは考えられないため、秀吉の家臣と結婚していたのは事実だろうと考えられています。
近年では秀吉の家臣である「副田甚兵衛吉成(そえだ じんべえ よしなり)」という人物だというのが一般的で、大河ドラマでもそれに倣っています。しかしこの副田吉成も後世で成立した書物に初めて出てくる名前です。
朝日姫自身が記録として登場するのは、数え44歳となった天正14年(1586年)の事です。
あさひの離婚と再婚
織田信長が本能寺の変で亡くなって、豊臣秀吉がその後継者となりました。そして数々の対抗勢力と戦をし、徳川家康とは「小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い」の後に和平が成立しました。しかし家康は一向に京に上って秀吉の所に臣従の挨拶に来ません。

秀吉は徳川家康を懐柔するために、自分の縁者と結婚させようとします。
その白羽の矢が立ったのが、妹の朝日姫でした。朝日姫は夫と強制的に離縁させられて、徳川家康の元へ嫁ぎます。夫の方には僅かなボーナスを与えましたが、自害したとも、剃髪して隠居したとも伝えられています。いずれにせよ夫が相当なショックを受けたということでしょう。とても仲の良い夫婦だったことが伝わります。
……が、近年の研究では夫との関係もいろいろな議論があるようです。離縁の理由は家康との縁談のためではなく、それ以前に本能寺の変の時の失態の責任を負わされた可能性もあるとも言われています。
あさひと徳川家康
徳川家康の元へ嫁いだ朝日姫ですが、一体どんな結婚生活だったでしょうか。一昔前は徳川家康が強制的に田舎っぽいオバさんと結婚させられた! みたいな扱いでしたが……。
近年は兄に振り回される朝日姫の悲哀も描かれるようになってきたと感じます。今回の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では2005年生まれの若くて可愛らしい倉沢杏菜(くらさわ あんな)さんが演じるので、どんな関係になるのか楽しみですね。
また近年の研究では、家康の方から豊臣家との婚姻を望んだという説もあるようです。
朝日姫は総勢150名以上の大々的な花嫁行列を伴って京から駿河国へ行きました。駿河国へ行ったので「駿河御前」とも呼ばれるようになります。
朝日姫が駿河国で家康とどのように暮らしていたかは、記録にはあまり残っていません。とりわけ仲が良いという話もありませんが、仲が悪いという話もないので謎に包まれています。
秀吉から要請されても家康は上洛しなかったので、豊臣兄弟の母・なかも人質として三河国岡崎へやってきました。これにより家康は京へ上り、豊臣家との和議が成立します。
しかし当の朝日姫はというと病気がちだったのも関係しているのか、晩年は京都にある秀吉の政庁兼邸宅「聚楽第(じゅらくてい)」で過ごしています。そして結婚から4年も経っていない天正18年(1590年)1月14日に死去し、京都・東福寺(とうふくじ)に葬られました。48歳、激動の人生でした。
その時、家康が喪に服している様子はみられません。それどころか家康の家臣が残した記録『忠家日記』にも朝日姫の死の事は書かれていません。
この頃、家康の嫡子である秀忠(ひでただ)と秀吉の養女小姫(おひめ)との婚約式が京であり、その祝言は1月21日、朝日の死を隠して行われました。これは当時小田原征伐の準備中だったため、祝言を延期できなかったことなどの理由が考えられています。
もしかしたら家康にも知らされていなかったのかもしれません。京にいたはずの秀忠も、朝日姫の葬儀に参加している様子はありませんでした。
朝日姫の死を隠されていたのは、親族だけではありません。秀吉のもとに直接務めていた公家たちは「穢(けが)れに触れてしまった」と大いに慌てました。
当時の公家たちの観念では、身内に死者が出るとその穢れを移すことになるので、公の場に出てこないことが普通でした。ましてや政の中心となる人物が、その身内の死を隠して公務を続けていたのです。穢れに触れてしまった人は膨大な数となり、動揺するのも無理はないでしょう。しかし公家たちがそれを知ったのは朝日姫の死から9日も経った後なのでどうしようもなかったようです。
家康が朝日の死に何を思っていたのかは記録に残っていません。しかし家康は小田原征伐から帰ると朝日姫の弔いのため、東福寺に塔頭(たっちゅう=寺の中にある小さな寺)「南明院(なんめいいん)」を建立し、手厚く供養しています。さらに朝日の死から12年後の慶長7(1602)年には、「追善供養が怠りなきよう」と朱印状を与えました。
若い夫婦のような熱く激しい愛情ではなかったかもしれませんが、家康にとっては静かに尊重し気に掛ける人だったのかもしれませんね。
アイキャッチ画像
『山茶花図』 ColBaseから加工
参考文献
『世界大百科事典』平凡社
『豊臣秀吉事典』新人物往来社
福田千鶴『豊臣家の女たち』岩波新書
黒田基樹『羽柴秀吉とその一族』角川選書
黒田基樹『徳川家康とその時代』戎光祥出版

