どんな人生を歩んだ人なのかを見てみましょう!
藤堂高虎の転職
藤堂高虎という人物の特徴を挙げると、まず「多くの主君に仕えた」という話が上がります。その遍歴は過去に和樂webでも取り上げられています。
▼藤堂高虎とはどんな人物?戦国時代に10回主君を変えキャリアアップをした築城の名人!
「武士は二君に仕えず」みたいなイメージって、実は江戸時代以降のもので……、鎌倉時代オタクからすると、むしろ主君は変えて当たり前なんですよね。中世以前の武士はサラリーマンというか、フリーランスに近いんです。鎌倉時代だって、幕府と朝廷で二重に雇用されて、二拠点生活していた人は珍しくありません。
多くの主君を渡り歩いたというのも、それほどまでに時世を読む力に長けていて、なおかつ転職に成功するぐらい引く手数多な優秀な人材だったと見えます。
調べれば調べるほど、有能シゴトデキルマンっぷりが見えてきますね……。
藤堂高虎の半生
では藤堂高虎が豊臣兄弟に出会う前は、誰に仕えて、どんな人生を歩んできたのでしょうか。
出身は近江国(おうみの くに=現滋賀県)犬上郡の藤堂村。父の虎高(とらたか)は藤堂氏の婿養子となっています。藤堂氏の出自は諸説ありますが、元は近江国の豪族とされているようです。室町時代の初期、初代の景盛(かげもり)が公家に仕え、そこから9代目が高虎になります。
とはいっても、高虎が産まれたころの藤堂家は没落していて、ほぼ農民と変わらない生活を送っていたようです。
高虎は弘治2(1556)年に藤堂家の次男坊として生まれました。誕生日は藤堂家の記録『累世紀事(るいせいきじ)』には、子孫による「1月6日だった」という意見が書かれています。しかし、他の史料では確認ができないので、この日で確定というわけにはいかないようです。
伝承によると幼少期から体格が良く、よく食べ、大人の言うことを聞かないと伝えられていて、ヤンチャっぷりに周囲の大人が困っている様子が想像できますね。
高虎が数え15歳になった、永禄12(1569)年、織田信長と北畠(きたばたけ)氏の争いが激化し、大河内(おがわち)城の戦いがありました。そこに参戦した高虎の兄が若くして戦死してしまい、高虎は家督を継ぐことになります。
家督を継いでからの転職遍歴は以前の記事でも紹介されているので、ここではざっと紹介します。

なんだか転職理由に不穏な言葉が並んでいるのがさすが戦国時代ですね。しかしその後にすぐ昔の顔なじみに拾われるあたり、殺傷沙汰に勝る才能や愛嬌があったのでしょうか。
……自分で書いといてナンですが、なんなんでしょうね、「殺傷沙汰に勝る才能や愛嬌」って。なにそれ怖い。戦国時代のフリーランサー怖い!! そしてこれを採用する豊臣秀長も怖い!!!
藤堂高虎と豊臣秀長
高虎と秀長が出会った頃、秀長は「羽柴長秀(はしば ながひで)」を名乗っていました。名字どころか名前まで微妙に違うのでややこしいですね。わかりやすくこの記事では「豊臣秀長」、秀吉も「豊臣秀吉」で統一します。
高虎は、数え21歳で豊臣秀長と出会い、天正19(1591)年に秀長が亡くなるまで15年間仕えました。その後、秀長の養子である秀保(ひでやす)に仕えますが、その秀保も文禄4(1595)年に数え17歳で死去します。ちなみに、秀保は秀長の姉「とも」の息子です。
▼『豊臣兄弟!』の姉「とも」はどんな人?宮澤エマ演じる波乱の生涯
秀保の死後、高虎は出家して高野山に上りますが、その才能を惜しんだ秀吉によって呼び戻され、朝鮮出兵で戦果をあげました。しかしその秀吉も病がちとなり、高虎は徳川家康に積極的に近づき、味方するようになります。
ここまでの経歴を、まとめてみましょう。

秀長に提出した(してない)履歴書と比べると、なんて立派な経歴書! ものすごく成長を感じます。殺傷沙汰になるほどの暴力性も、上手く戦で発散できたのでしょうか。しかも、21歳~41歳という、一番社会人としてノリにノッている期間、主を変えたのは主人の死によるもので、しかも同じ系列会社(親族)での雇用です。
これこそまさに忠臣! どこが主をコロコロ変える不忠者なんでしょうか。徳川家康に近づいたのも、秀吉の死の時期です。どうして秀吉の跡取りである秀頼にそのまま仕えなかったのかというのは……豊臣家の内部争いを冷静な目で見ていたというのもあるでしょうが、私は「秀長様への御恩は果たした」という気持ちも大きかったんじゃないかなと思います。
『豊臣兄弟!』以降の藤堂高虎
『豊臣兄弟!』は豊臣秀長が主人公なので、秀長の死以降は描かれないとは思いますが、その後の高虎の人生をざっと見て行きましょう。
家康に自らを売り込んでいた高虎は、豊臣家が完全に分断すると徳川派として行動しました。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの恩賞で、20万石の大名となります。
その後家康の重臣の1人となり、江戸城の改築を手掛けたり、大坂の陣に参戦したりと活躍し、最終的には30万石を超える大大名となりました。元和2(1616)年に徳川家康が亡くなる、その臨終の枕元に侍ることを許され、その後は2代目の秀忠にも参謀として仕えます。
そして寛永7(1630)年、江戸の藤堂藩邸で74年の生涯を静かに閉じました。力を持て余していた若かりし頃、出会った恩人豊臣秀長に忠義を尽くし、その経歴でもって最終的には天下人に仕えた高虎は、こうして戦国時代を生き切ったのでした。
……なんだか、この人主人公でも大河ドラマが作れそうですね!
アイキャッチ画像:
土方稲嶺筆『猛虎図』 「ColBase」を元に作成
参考文献:
黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書)
黒田基樹『羽柴秀長と藤堂高虎』(NHK出版)
諏訪勝則『図説 藤堂高虎』(戎光祥出版)
福井健二『築城の名手 藤堂高虎』(戎光祥出版)

