父の死後、15歳で家督を継いだ長秀
歴史好きでないと、丹羽長秀と聞いても「何をした人なの?」と思う方も多いのではないでしょうか。長秀は天文4(1535)年に尾張国児玉(おわりのくにこだま・現在の名古屋市西区)に生まれました。もともと丹羽家は、尾張の守護であった斯波(しば)家に仕えていた土豪(どごう)でしたが、長秀の父の代に、勢力をのばしていた織田家(信長の父)に仕えるようになります。長秀は15歳より、信長に仕えました。性格は穏やかで、我先にという強欲さや秀吉のような貧乏をバネに出世をもくろむ狡猾さもなかったのでしょう。江戸中期に書かれた『翁草』の中に出てくる小唄に、
木綿藤吉米五郎左、掛(か)かれ柴田に退(の)き佐久間
藤吉は秀吉のこと、美しくはないが、木綿のように丈夫で、調法な人、五郎左というのは長秀の通称で、米のようになくてはならないものと歌われています。かかれ柴田は突進していく武闘派・柴田勝家(しばたかついえ)のことで、佐久間は佐久間信盛(さくまのぶもり)で、戦の中で退却には打ってつけと、信長の重臣たちをこのように例えました。この小唄からもわかるように目立たないが、なくてはならない存在。それが長秀だったのではないでしょうか。
信長が縁戚関係を結んだ信頼の厚さ
信長にとって、15歳から仕えた長秀は、自分が育て上げた家臣という思いがあったのでしょう。その信頼の深さは、永禄6(1563)年に信長の兄である織田信広(のぶひろ)の娘で、後に信長の養女となった「桂峯院(けいほういん)」を長秀のもとに嫁がせたことでもわかります。長秀は、「信長と縁戚関係となり、信長は長秀について『友であり、兄弟のようなもの』と評していた」とも伝わります。それは長秀も同様で、同年代でありながら、力強いリーダーシップを持つ信長への憧れもあり、忠実な家臣として成長していきました。
調整役として力量を発揮
今川軍を打ち破った「桶狭間の戦い」を経て、尾張統一を目前にし、永禄6(1563)年、小牧山城を築きました。その際、奉行に任じられたのが長秀でした。小牧山城に居城を移した信長は、次なる標的であった美濃攻略へ邁進していきます。
『信長公記』によれば、犬山城を支える於久地城(おぐちじょう)と黒田城の城主を調略し、犬山城を攻囲したとされています。戦国時代、話し合いによって敵を味方へ引き入れるのは、並大抵の能力ではありません。時間をかけ、相手に信用されてこその手柄、長秀とはそういった人物だったのではないでしょうか。その後、美濃の斎藤家の配下にあった「猿啄城(さるばみじょう」を陥落させ、信長が信頼を置ける家臣としてますます活躍していきます。
戦いに明け暮れた織田軍を影でサポート
永禄11(1568)年に、信長が足利義昭を奉じて上洛し、畿内を平定すると、永禄13/元亀元(1570)年には、近隣の諸大名に上洛を要請。しかし、越前の朝倉義景(あさくらよしかげ)がこれを拒否するのです。そのため信長は、越前攻めを開始します。しかし、朝倉家と代々、同盟を結んでいた浅井長政(あざいながまさ)が義景に寝返ったため、織田軍は撤退を余儀なくされました。これがいわゆる「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」と呼ばれるものです。その後、織田軍と浅井・朝倉軍は熾烈な争いを繰り広げていくことになります。そのひとつが同年の姉川の戦いで、織田軍が勝利。以後、勝家、信盛、秀吉、さらには明智光秀が加わり、強力な布陣で戦いに臨みました。長秀も浅井家の配下にあった佐和山城を包囲、元亀2(1571)年2月には開城させ、城代を務めることになります。
姉川の戦いはコチラ
やらかしからの超速リカバリー! 織田信長が姉川の戦いで見せた「魔王力」
安土城普請を任せられたシゴデキ長秀
3年にも及んだ浅井・朝倉家との戦いに終止符を打った信長は、天下統一に向けて、もうひとつの大仕事を立ち上げます。それが安土城築城でした。岐阜城を居城としていた信長でしたが、京に近い交通・軍事・政治の要衝である近江国に居城が必要だったのです。安土に、信長がどうしても手に入れたかった自らの夢と理想を託した城が完成します。宣教師として信長との交流を深めたルイス・フロイスの『日本史』にも、
その時代までに日本で建てられたもののなかで、もっとも壮麗だといわれる七層の城と宮殿を建築した
と記されているように、前代未聞の城でしたが、総普請奉行に任じられた長秀はその構想に従い、見事、完成にこぎつけました。その功績に信長から名茶碗を賜ったとも伝えられているほどです。一見、まったくタイプの違う信長と長秀ですが、その思いや理想とするものには共通するものがあったのかもしれません。
一国を拝領し、国持大名へ
実は、長秀にはもうひとつ、名誉と言える大きな出来事がありました。朝倉氏が間接的に支配していた若狭国を任されたのです。石高(こくだか・土地の生産力を表す数値)は決して多くはありませんでしたが、家老である勝家や信盛らよりも早く、城持ち大名となっているのです。これは長秀にとって大きな自信となったことでしょう。その後、他の重臣たちに負けず劣らず、我が道を貫いていくようになるのです。
信長亡き後、秀吉・長秀に仕える
栄華を誇る安土城に拠点を移した信長でしたが、天正10(1852)年に、明智光秀の謀反により、信長は自害。若き日より、傍で支え続けてきた長秀にとって、主君を失うことはどれほどの悲しみだったことでしょう。しかし、悲しみに暮れる間もなく、すぐに明智軍を倒した秀吉が中心となって、勝家、長秀、池田恒興(いけだつねおき・信長の乳兄弟)の4者による後継者を選ぶための『清洲会議』が開かれます。この結果、秀吉が後見人となった三法師、後の織田秀信(ひでのぶ・信長の嫡孫)が家督を継ぎ、勝家の推す三男、信孝(のぶたか)は岐阜城主となりました。
この時、長秀は織田家筆頭重臣であった勝家ではなく、秀吉側についたのです。数々の戦線の中で、次なる天下人を秀吉だと見抜いたのかもしれません。ここが勝家と長秀の運命の分かれ道となりました。目まぐるしく変わる戦国の世で、いかに自分の立ち位置を知り、自分の立場を守れるか、そういった冷静沈着な判断のできる男だったのです。これは現代にも活きる処世術といえそうです。
秀吉は、長秀より年下であり、長秀の『丹羽』の名から一字を取って「羽柴秀吉」となった、いわゆる後進の有力家臣だったのですが、秀吉の能力を早くから認め、その弟の秀長とも調和を図りながら、秀吉に従う道を選びました。己の立場より、いかに和を成すか、それこそが世を正しく導く道と考えていたのでしょうか。天正11(1583)年の秀吉と勝家による賤ヶ岳(しずかたけ)の戦いで、勝家と、正室で信長の妹、お市は自害。それにより、長秀は勝家が治めていた越前一国と、加賀能美・江沼を与えられ、北陸を支配する大名、越前守と称するのです。
突出しないという処世術で、多くの武将から慕われる
農家出身の秀吉に対して、偏見を持つこともなく、優秀な秀吉に一目置き、同僚の活躍を見守るかのように戦ってきた長秀。年長者には礼を尽くし、後輩への気遣いも忘れない。そういった功績が認められ、宿老へと昇りつめました。しかし、働きすぎ、気の使いすぎがアダになってしまったのか、天正13(1585)年、病気により、51歳でこの世を去りました。現代に生まれていたなら、信長と長秀は優秀な建築家と現場監督、あるいはプロデューサーとディレクターというようにタッグを組んで、大きな仕事を成し遂げていたかもしれません。
ルイス・フロイスの記述による「いとも裕福で信長がもっとも寵愛した家臣のひとり、丹羽五郎左衛門」という言葉は、何よりの長秀への勲章のように思えます。
アイキャッチ『長篠合戦図屏風(模本)』 出展:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)
参考資料:『信長公記』 太田牛一著 中川太古訳 KADOKAWA 『名将言行録』 岡谷繁実著 岩波書店 『織田信長の家臣 佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀』小野之裕著 ゆいぽおと 『織田信長と安土城』秋田裕毅 創元社

