「お綱のうらみ」として福岡県に伝わる有名なこの伝説。数々の伝承を読み解いてきた私には分かる。この話は作りものなどではない(ような気がする)。内容には諸説あるが、そのひとつをご紹介しよう。事件の真相にせまってみたい。
仲の良い夫婦だったのに

出典:国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/851214/1/34)
江戸は寛永時代の話。場所は福岡の大名町。ここに浅野四郎左衛門(あさのしろうざえもん)という若い武士が住んでいた。この男、若いだけでなく、かなりの美男子でもあった。さぞかし遊び放題好き放題かと思いきや真面目な男で、お綱という妻がいた。
お綱の容姿は四郎左衛門と比べると見劣りしたが、それはそれ。夫婦には幼いふたりの子どももあった。家族仲良く幸せに暮らしている、ごく普通の家族だった。
さて、藩主黒田忠之は参勤交代でお国帰りの途中、大阪で采女(うねめ)という名の遊女と馴染みになった。いたく惚れこんで身請けして国元へ連れて帰った。までは良かったが、理由あって手放すことになる。
「その方、手厚く第二夫人にするように」
主君の命で采女は四郎左衛門のもとへ下げ渡されてきた。御用済みというわけだ。ひとりの男にふたりの女。夫婦の不幸が幕を開ける。
四郎左衛門とお綱と采女の三角関係

出典:国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/851215/1/8)
下げ渡された采女も哀れだが、押しつけられた夫婦も迷惑としか言いようがない。なにせ四郎左衛門は妻のいる身。可愛い子どもだっているのだ。しかし主君の命令とあっては断れない。四郎左衛門はやむなく采女を本宅に置くことにした。たしかに最初はやむなく、だったのだろう。
采女が来たことで、お綱と子どもは下屋敷に引っ越すことになる。望まぬ別居生活である。
突然現れた采女に困惑していた四郎左衛門だったが、妻とはちがう魅力を放つ采女に次第に惹かれていく。男と女がひとつ屋根のしたに暮らしてなにも起こらないはずがない。
「月に何度かは子どもに会いに来る」
そうは言ったものの、四郎左衛門の足は次第にお綱から遠ざかった。
その言葉をお綱はきっと信じていた。信じながら、恨めしく、けれど恋しく四郎左衛門を眺めていたのだ。
止まらない死の連鎖
お綱はもっと怒ってよかった。
なにせ夫の仕送りは途絶え、お綱とふたりの子どもは食べるにもこと欠く貧しい暮らしぶりだったのだから。それでもどうにか家族で力を合わせ、ついに限界がやってきた。きっかけは娘の雛節句だった。娘のために雛祭りをしてあげたいという母親として当然の気持ちを、四郎左衛門は冷たくあしらったのである。
四郎左衛門に拒絶されたお綱は半狂乱になり、幼いふたりの子どもを刺し殺した。そして四郎左衛門と采女への復讐を胸に、薙刀をもって本宅へと乗りこんだ。
しかし四郎左衛門はあいにく登城中。お綱は、たまたま浅野家に居候していた浪人に無残にも斬り伏せられる。
それでも積年の恨みはおさまらない。お綱は血を流しながら薙刀を杖にして城内へたどり着き、城門にもたれかかって命尽きた。
四郎左衛門と采女は、お綱の亡霊に悩まされて死んだとも伝わる。以来、この門は「お綱門」と呼ばれるようになった。その柱に触れると、不幸があると恐れられるようになった。
お綱という女

いったいなにがお綱を殺人へ駆り立てたのだろう。
武家育ちで礼儀正しいお綱のことである。采女が訪ねて来た時も、三つ指ついて恭しく迎えたにちがいない。遊女あがりの采女は四郎左衛門に眩しく映っただろう。お酒を呑むのも呑ませるのも上手だったろうし、夏の暑い日なんかには手ぬぐいで汗を拭いてくれたり、後ろからうなじのあたりをうちわであおいでくれたりしたのかもしれない。
お綱とはちがう女の魅力に、四郎左衛門は少しずつ惚れていった。でも、どんな理由であってもお綱をなおざりにするのはあまりに失礼だと、私は思うのだ(きっと読者もそう思っているにちがいない)。
四郎左衛門のために言っておくなら、かつては彼も優しい男だった。はじめのうちはお綱をたてながら、ときどき采女のところへ通う生活を送っていたらしい。なにせ主君のお声がかりだから采女をむげにはできない。四郎左衛門にも事情があったのだ。
もしかすると夫が美男であることにお綱は引け目を感じていたのかもしれない。
薙刀を振りかざしてお城に乗りこむ度胸があるなら、もっと早い段階で嫌みのひとつでも言っておけばよかったのに。でも、それができないのがお綱という女なのだろう。それが武家育ちのお綱の魅力でもあったかもしれない。
語り継がれるお綱伝説
お綱と四郎左衛門が暮らした福岡県には、お綱の「話」を伝える場所がいくつもある。血に染まったお綱が辿り着いた城内の門跡とか、お綱とふたりの子どもを弔う墓、お綱の位牌も残されている。
当時、お綱のところには奉公人がふたりいて、お綱の死を追って死んだという伝説もある。お綱を斬った浅野彦五郎の墓も、ちゃんと残っている。こうまできちんと残されていると、お綱は伝説上の女性で、あんな悲惨な事件など実際は無かったのだと言い切ることもできなくなる。惨劇が事実だったと信じたくなる。
ただ、疑問も残る。お綱は薙刀を杖にして門をくぐり抜け、城に入ったと伝え聞く。そのときに、誰も門を守っていなかったのだろうか。ふつうなら警護の侍がいてもおかしくないのだけど。あるいは、のっぴきならない事情で留守にしていたとか?
何はともあれ、お綱の怨念はこうして現代も生きつづけている。事実は小説より奇なり、ともいうし、現実ではなんだって起こり得る。ほんとうのことは、誰にもわからない。お綱の胸のうちも、分からないままだ。
一番の悪者は誰?

出典:国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/851214/1/15)
いったい、この話の一番の悪者は誰なのだろう。浮気相手を御用済みと下げ渡した主君か、妻と子どもを放り出した四郎左衛門か、妻子持ちの男になびいた采女か、ふたりの子どもを殺したお綱か。確かなのは、殺された子どもたちに罪はない、ということ。
お綱の激しさばかりに目がいくけれど、その裏で誰にも語られることのない子どもたちの無念がひっそり息づいていることも忘れてはいけない。だからこそ、人間はなんて悲しい生き物だろうと思うのだ。四郎左衛門とお綱はたしかに幸せだったのに。
【参考文献】
『民話と伝説』学習研究社、1977年

