じつはそこまで嫌いじゃない。
──ずるくて、悪賢い
そんな意味で、大抵の辞書には説明されている。
裏でいひひひと嗤(わら)う卑怯者というイメージだ。
でも、「ずるい」とか「悪賢い」って。
一体、誰の視点で判断されてるんだって。
ちょっと疑問に思ったりする。
結局さ、何を一番に考えるかで。
物事の善悪はごろりと変わっちまうんだ。
特に、生と死がいつも隣り合う戦国時代ではさ。
ということで。
今回の記事は、狡猾だけれども、あっぱれと思わせた戦国武将たちをご紹介する。
その名も「戦国武将爆笑エピソード集(狡猾編)」。
もちろん、武士にとって「名誉」や「武士の誇り」は譲れないもの。
けれど、すべては生きてこそ、命があってこその話なワケで。
過酷な戦国時代には、いかに生き延び、そして、犠牲を少なくするかがとても重要になってくる。
それだけに。
真正面から正々堂々と挑む戦い方もあれば、
調略で内部から敵を瓦解させるという戦い方も。
戦国武将の数だけ、いや、それ以上に、状況に合わせた戦法があったのだろう。
つまりは、たとえ「狡猾」であっても、賞賛に値する場合もあるというコト。
今回は、そんな「狡猾さ」がじわっと滲み出た戦国武将をご紹介しよう。
一体、どなたが出てこられるのやら。
是非とも、その驚くべき「真意」をご堪能あれ。
※本記事は「加藤清正」「豊臣秀吉」「武田信玄」「徳川家康」の表記で統一しています
あざとさ100%の「加藤清正」
まずは、最初のお方。
多くの浮世絵の中で描かれるその姿は、髭わさわさでもふもふの武将。
豊臣秀吉の子飼いのひとりであり、築城の名手と評される熊本城主の「加藤清正」だ。

秀吉と同郷であったからか。
それとも他の武将とは異なり、幼少の頃から秀吉に付き従って家臣として育てられたからか。
とにかく、清正ほど秀吉ラブな戦国武将もなかなかお目にかかれない。秀吉との年齢差は25、26歳ほど。清正から見て秀吉は「主君以上」、ある意味、父親のような存在であったのかもしれない。
そんな加藤清正の名が世間に知れ渡ったのは天正11(1583)年。
織田信長亡きあと、秀吉が次期ポストを巡って柴田勝家と戦った「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」でのこと。戦いを制したのはもちろん秀吉。清正もその武功から「七本槍」のひとりに数えられることに。
こうして、秀吉が天下人へと近づくに比例し、清正も知行(与えられる領地)が増大。天正15(1587)年には、秀吉の九州征伐の国分けで、3000石から肥後(熊本県)半国(19万5000石~25万石)へ異例の大出世となったのである。
その後の朝鮮出兵(文禄の役)でも、異国の地など関係のない働きっぷり。現地では「鬼上官」という名で恐れられたという。ただ、再び渡った朝鮮出兵(慶長の役)では大苦戦。九死に一生を得てズタボロの姿で帰国したところ、なんと戦を仕掛けた当の本人の秀吉は既に死去という、あまりにも報われない結果となったのである。

そして、秀吉亡きあと。
今度は、次の天下人を決する「関ヶ原の戦い」が起こるのだが。
今回ご紹介する逸話は、この戦いに関係するものである。出典は、幕末の藩士である岡谷繁実が、戦国の名将192人の言行を編述した『名将言行録』より。
この「関ヶ原の戦い」で、清正は、同じく秀吉に仕えた石田三成のいる「西軍」には属さず。というのも、朝鮮出兵の際に講和重視の石田三成らと、領地割譲を重視した清正は対立。遺恨を残す結果で終わってしまったからだ。
逆に「東軍」を率いる徳川家康からは、勧誘に際して領地の宛行(あてがい)の話も。具体的には、肥後や筑後(福岡県南部)を平定したならば、その後両国を治めてよいと、家康から事前の承諾を取り付けていたとか。こうして、加藤清正は「東軍」に与して九州内で参戦することに。
慶長5(1600)年9月15日。
いよいよ、上方では天下分け目の戦いと謳われた「関ヶ原の戦い」が始まるが。
なんと、その当日に勝敗がつくという結果に終わる。
一方、九州内の動きはというと。同年、9月10日、西軍の大友義統(よしむね、大友宗麟の嫡男)が、東軍側についた細川氏の飛び地「杵築(きつき、大分県)」6万石の領地を攻撃。救援に向かった東軍の黒田孝高(官兵衛)と激しい戦闘の末、こちらも9月15日に西軍の大友義統が降伏。
加藤清正はというと。
救援に向かおうと9月15日に杵築に向けて出立するも、その道中で黒田側の勝利を知り、急遽、反転。目指したのは、西軍である小西行長の居城、「宇土城(熊本県)」だ。ただ、行長は「関ヶ原の戦い」に身を投じており、宇土城に残るのは行長の弟である「小西行景(ゆきかげ、小西隼人とも)」であった。
同年9月19日より加藤軍が攻撃開始。これが「宇土城攻防戦」の始まりとなる。意外に、行景は奮戦。あの清正からの攻撃にも耐えて反撃、薩摩(鹿児島県)の島津家に救援要請を行うなど、相当に加藤軍を苦しめたといわれている。
同年10月20日(日付については諸説あり)。
小西軍もかなりの「粘り」を見せたが、最後は開城。
小西行景は自らの命に代えて、城兵の助命を選んだという。
こうして「宇土城攻防戦」は幕を閉じたのである。

さて、前置きが長くなったが。
ご紹介する加藤清正の逸話は、宇土城側が「開城を決意した理由」に関するものである。
諸説あるも、理由はひとつではなく、複数の要素が重なり合って決意したと推測できる。これまでの戦況や清正からの降伏勧告、そして、敗将として処刑された兄の「小西行長」の書状などが影響し、「関ヶ原の戦い」での「西軍」の敗北を確信するに至ったようだ。
ただ、『名将言行録』には、ひとつ気になる内容が記されている。
なんでも、籠城戦のさなかで、ひとりの兵卒が宇土城に入ろうとしていたとか。この兵卒を加藤軍が発見し、早速、捕縛。
尋問すると、なんと、あの「関ヶ原の戦い」で敗れ、九州まで逃げてきたというではないか。城内にいる母親を助けたい一心で、忍んでこの地までやって来たという。
この事情を知った加藤清正。
一体、彼はどうしたのか。
もちろん、清正としては籠城戦を早く終わらせたい一心だろう。
この関ヶ原からの敗走兵をどうしたものかと考えたはずだ。情けをかけて城内に入れてやるのか、場外で見せしめにするのか、はたまた……。取りうる選択肢は色々ある。
さあ、この場面で。
彼の取った行動とは?
「母を助けるために忍んできたというのは、もっともなことだ。その孝心に免じて助命してやる。早く城に入って母と会うがよい」といって縄を解いて許し、城に入れてやった。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
あらま。
敵なのに、通しちゃうの?
意外と、加藤清正って優しいんだ。
やっぱり、戦国武将って。情に厚く、義を信じる人たちが多いんだね。ホント良かった良かった。
──悪魔ダイソン降臨──
いやいや(笑)
まさか、あんた。それを額面通りに受け取るとは(笑)
「優しさ」……んなワケないじゃん。こっちは現実の戦をやってんだよ。そんなの裏があるに決まってんじゃん。人はみな、生まれ落ちた時から腹黒なんだよ。
おっと。
一瞬、気を失ってしまっていたが。
あれ?なんだか字数が増えているような気もするが……。まあ、いいか。
とにかく、清正の許しを得て、関ヶ原の戦いに敗れた兵卒が入城。
これにより、宇土城攻防戦は意外な結末を迎えることに。それがコチラ。
その者が関ヶ原の敗戦のありさまを語ると、この城兵一同落胆し、ついに清正に降参した。
(同上より一部抜粋)
あらま。
清正もこの結果にはビックリだろう。
やっぱり情けをかけると、その分、自分に返ってくるってホントのことだったんだね。
──悪魔ダイソン降臨──
んなワケねーだろよ。
この世に偶然なんか、存在しないんだよ。
狡猾な清正は、裏で高笑いしてるに決まってんじゃん。清正は分かってたんだよ。「関ヶ原の戦い」に西軍が敗れたという知らせがあっても信じたくない輩がいる。でも、実際にその現場にいて、どれほどの負け方だったのかを語るヤツがいれば。城内の者たちは、西軍は終わったんだと腹の底から分かるってさ。んでもって、開城するって読んでたってワケよ。
おっと。またもや、めまいが……。
あとは、皆さま、ご存知の通り。
九州をはじめ全国各地で行われた、東軍と西軍に分かれての戦いは完結。
勝者となった「東軍」の徳川家康は江戸幕府の礎を築き、日本は「徳川一強」の江戸時代に突入。
そして、戦功が認められた清正には、肥後一国(54万石)が与えられたのである。
適材適所を貫きすぎる「武田信玄」
次にご紹介するのは、「甲斐の虎」との異名を持つあのお方。
戦国武将の中では、珍しく病に倒れ、天下人を夢見たまま無念の最期を迎えた「武田信玄」である。
ちょい、前半部分がシリアスで長くなってしまったため。
コチラの信玄の逸話はサクッとコンパクトに、それでいてゆるっと進めようではないか。
信玄といえば。
幼少期には狸と戦い、成人になっても天狗と戯れて。
怪異とはなかなか切っても切れない男である。

「戦国武将爆笑エピ」にも定期的にご参加いただいてるので。
経歴は省略気味で。「信玄」とは出家後の号で、名は晴信(はるのぶ)。父を追放して家督を継ぐなど、振り返ってみれば壮絶な人生の信玄。甲斐(山梨県)や信濃(長野県)を中心に勢力を拡大し、のちの天下人となる徳川家康を敗走させた「三方ヶ原の戦い」は非常に有名だ。
病さえなければ天下人になっていたやもしれぬ、そんな可能性を秘めていた戦国武将のひとりである。
そんな信玄の逸話だが。
いつの頃の話かというと、具体的な年代は定かではない。
ただ、「戸石城(砥石城とも、長野県上田市)」を巡り、信玄が村上義清(むらかみよしきよ)と戦った「戸石の合戦」が出てくるので、恐らく天文19(1550)年辺りだろう。ちなみに、この戦いは、信玄にとって、生涯を通じて最大の負け戦といわれている。
さて、今回の逸話のもうひとりの主人公は。
信玄の家臣「岩間大蔵左衛門」という男である。
この男、非常に臆病者で、戦のたびに目を回すため、未だ血生臭い場面に出会わず。もちろん武功など立てようもなく、信玄の家臣からは扶持(ふち)が勿体ない、早く暇(いとま)を出せなど散々の言われようであったとか。

そんな忠告を聞いた信玄はひと言。
「考えがある」と言ったという。
──天使ダイソン降臨──
ぶるぶるぶるぶる。
どうしてかしら。なんだか寒気がするのだけれど。
どうか、この「岩間大蔵左衛門」という人にイヤなコトが起きませんように……。
おっと。めまいが。
話を先に進めよう。
考えがあると言った信玄だが。
一体、この「岩間大蔵左衛門」に何をしたのか。
衝撃の行動がコチラ。
戸石の合戦のとき、勝れた逸物(いちもつ)の馬に、大蔵左衛門を鞍ごとくくりつけ、血気の若者が大勢寄って、いっせいに馬の尻をたたき敵中に追い込んだところが……
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
もうね。いつもながら、ツッコミどころ満載なのだが。
まずは、なくね?
馬にくくりつけて、敵中に追い込むって。信玄よ、極悪非道にもほどがある。
それも馬の尻を叩きまくりだから、かなりの勢いで突進するはず。
あああ。ただでさえ彼は臆病なのに。岩間大蔵左衛門への仕打ちがむごい、むご過ぎるよ。
ダイソン、もう、涙で前が見えない……。
でもね。
神様は、可哀そうな人間を、そう簡単には見捨てないもの。
さらなる衝撃の展開が、コチラ。
馬は乗る人の心をよく知るものだから、大蔵左衛門の生まれついての臆病心にひかされて、途中で方向を変え、味方の陣に引き返してきた。
(同上より一部抜粋)
ええええええ。
そのまま戻ってくるんかーい。
それにしても、馬って優秀だな。乗り手の気持ちをそこまで理解するなんて。というか、単に臆病心に引きずられただけか。
こうして、結果だけみれば、彼の気質は変わらず。
岩間大蔵左衛門は、臆病者のままであったとか。
──天使ダイソン降臨──
それでいいのです。
人はみな、尊いのです。
そして、誰ひとりとして、必要とされない人間などいないのです……。
え?
これで、終わり?
いや、まさかまさか。
あの信玄だぜい。このまま放置するワケがないではないか。

信玄は、この岩間大蔵左衛門について真剣に考えてみた。
考えて、考えて、考え抜いた。
そこで閃いた。
ああ、そうかと。
そして、岩間大蔵左衛門が輝ける場所を、ちゃんと用意したのである。
信玄の秘策。それが何かというと……。
「隠し目付」という役割だ。
家中のあれやこれやを聞いて、こそっと色んな人を見張って。家中での悪事を見つけ出す。そんな役割だ。
もちろん、この抜擢人事を発表して終わり……ではない。
だって、職務を与えるだけなら誰でもできるではないか。全くもって信玄っぽくない。
やはり「狡猾」さが滲み出てこそ、サイコーの武田信玄になるワケで。
こうして、岩間大蔵左衛門に隠し目付を申し付けるところで。
信玄は、重要な最後の一手となる「脅し文句」を準備する。
さてさて、信玄は、一体、何を言ったのか?
「すべて家中の悪事を内偵し、遠慮なくわしに報告せよ。もし隠しておき、それが露顕したときにはお前を死罪に処するぞ」
(同上より一部抜粋)
いや、ホントね。
武田信玄という人は、どこまで鬼なんだと思う。
「遠慮なく」って、前半部分はいい感じだったのに。
最後に「死罪」で脅すなんて、鬼畜すぎて滅。
でも、さすが信玄の見立てた通り。
これを喜んでいいいものかどうかは、微妙だが。とうとう岩間大蔵左衛門は、家中で輝きだしたのである。
というのも、生来の臆病者であるため、死罪を恐れて、見聞きしたものすべてを信玄の耳に入れたとか。
これはこれで、信玄も大助かり。
その後も、岩間大蔵左衛門は非常に役に立ったという。
最後に
本記事の締めとして。
最初にご登場した加藤清正の逸話の補足をしよう。
「関ヶ原の戦い」で敗走した兵卒を入城させた清正。
のちに、小西行景は宇土城を自ら開城。
行景を除いて、残った兵士らは助命されたという。
『名将言行録』には、このような一文で締められている。
清正は約束通り、籠城の士に食禄を与えたので、士はみな恩に感じ、先鋒となることを願いでた。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
──悪魔ダイソン降臨──
なるほど。ラストはそう来たか(笑)
それにしてもさ、あんた、誰かを思い出さないかい?
敵側がみな遺恨を残さず、忠誠を誓うっていうラスト。これに見覚えあんだよ。
この緩急を極めた巧みな人心掌握術……ほら、あのお方。
加藤清正がラブすぎる武将、秀吉のとっつあんだよ。
全くもって、呆れるよ。
記事に登場せずとも一瞬で話題をかっさらって。タチが悪いったらありゃしない。
あんたさ、よくよく覚えておいた方がいいよ。
ホントの「狡猾」ってのは、こういう男をいうのさ。
参考文献
『関ヶ原合戦』 笠谷和比己著 株式会社講談社 2008年1月
『名将言行録』 岡谷繁実著 講談社 2019年8月

