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2021.05.13

えっ?織田信長って意外とネチネチ派?佐久間父子を追放した長すぎる懲戒文書とは

この記事を書いた人

夜中に書いた手紙ほど、興ざめなものはない。
昂る感情をそのままぶつけた軌跡は、エゴの塊。

いや、書くだけなら、まだ許せる範囲だろうか。
実際に、コレを改めて陽光の下で読むとなれば。それはもう、のけぞるほどにおぞましい。読み手泣かせの長文に、修飾語多めの誇張表現。一体、誰が…と言葉を失うも、もちろん書いたのは数時間前の深夜の自分。

それにしても、解せないコトが1つある。
我が身の中で渦巻き、のたうち回っていた感情は、文章化されただけで、一瞬にして陳腐な文字の羅列に。感情が放つあの輝きは、こうもあっさりと消えてしまうものなのか。きっと、夜に書く手紙には、何かしらの呪いがけられていると疑いたくもなる。

夜中に、怒りに身を任せ彼氏に送った長文LINE。自分でも引いたな〜。もう7年前。

さて、今回ご紹介する書状も、ダダ漏れの感情をそのまま押し込んだ感じ。
とにかく長い。そして、クドイという有様。

さらに驚くのは、その書状の差出人。
長い懲戒文書など、全くもって似合わないお方。
だって、生き方も散り方も苛烈過ぎる、そんなイメージを残した戦国武将「織田信長」だからである。

今回は、そんな彼が、家臣である「佐久間信盛・信栄(のぶひで)」父子に書いた懲戒文書を取り上げる。書状が出された経緯より、特に文書の内容をじっくりと見ていきたい。ツッコミどころ満載の信長独特の表現方法も必見。

それでは、早速、ご紹介していこう。

※冒頭の画像は、月岡芳年 「大日本名将鑑」「織田右大臣信長」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)となります

追放された佐久間父子の罪状とは?

まずは、問題の懲戒文書の一部から。
書かれたのは、天正8(1580)年8月。織田信長が自刃する「本能寺の変」の約2年前のこと。家臣である「佐久間信盛、信栄(のぶひで)」父子宛てとされ、信長の自筆なのだとか。

「一、この上は、どこかの敵を制圧して今までの恥をそそぎ、その後に復職するか、または討ち死にするかである。
 一、父子とも髪を剃って高野山に引退し、年を重ねれば、あるいは赦免されることもあろうか」
(太田牛一著『信長公記』より一部抜粋)

家臣に対して、いきなりの突き放し。これには驚くばかりだが。
文中に出てくる「高野山」とは、あの弘法大師空海が開基した紀州(和歌山県)にある真言密教の聖地を指す。たとえ、かの地に引っ込んだとしても、赦免が約束されたのではない。単なるちらつかせ。家臣からすれば、なんとも切ない限りである。

ちなみに、この2ヵ条は最後の方に挙げられていたもの。全体の文書は19ヵ条からなるというから、まあまあのボリューミー。あれやこれやと佐久間父子の至らないポイントが指摘された上での、締めの項目だったようだ。

圧がすごい…!

それにしても、結局のところ、よく分からない。
主君に責められこそすれ、一体、これからどうすりゃいいんだと。青色吐息で嘆く佐久間父子の姿が容易に想像できる。じつは、先ほどの2ヵ条には続きがある。どうやら、信長は文末に具体的な指示をしていたというのだ。それがコチラ。

「かくなる上は、右末尾の二ヵ条を実行せよ。承諾しなければ、二度と赦免されることはないものと思え」
(同上より一部抜粋)

武功を上げる、いや、高野山に退去する。どちらにせよ、辛い道のりがを信長から示されたというワケである。

ここで疑問となるのが、今回の当事者である佐久間父子。
これほど信長に激怒されるとは、一体何をやらかしたのやら。

簡単に、その経歴を説明しておこう。
佐久間信盛は、もともと信長の父である「織田信秀」に仕えていた男。信秀死後は信長に仕え、永禄11(1568)年、信長が上洛した際には、京都の治安維持を担当。

一方で、徳川家康の援軍として参戦した元亀3(1572)年の「三方ヶ原の戦い」では、武田信玄に完敗。手痛い経験をするも、その後は、信長と共に歴戦に参加。尾張(愛知県)出身の彼は、家臣団の中でも重臣の存在に。

歌川延一 「佐久間盛政秀吉ヲ襲ウ 」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ) こちらは、佐久間信盛の甥に当たる佐久間盛政。佐久間父子は高野山に追放されたが、盛政は柴田勝家に仕えた

しばしば織田信長の人材登用については、「実力主義」と評されることが多い。というのも、各地を任された方面軍の指揮官には、身分や出身地域に関係なく重用された人物がいたからだ。その最たる例が、中国方面担当の豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)である。

言い換えれば、生え抜きの織田家家臣だとしても、決して安泰ではなかったというコト。主君のみならず、まさに家臣らも下剋上を味わっていたそんな状況で、佐久間信盛は大坂方面軍の指揮官に。さらに、回ってきた大役は、「石山本願寺(大阪府)攻め」の中心的な立場。彼も必ず結果を出さなければならない場面へ、とうとう引き出されたのである。

この石山本願寺(大坂本願寺)。明応5(1496)年に「蓮如(れんにょ)」が建立した浄土真宗の寺で、ちょうど現在の大坂城がある場所にあったとされている。当時の法主は「顕如(けんにょ)」。織田信長が石山本願寺の明け渡しを求め、両者は講和を挟みつつ、かれこれ10年以上も敵対することに。

天正4(1576)年、織田軍は石山本願寺を大軍で包囲。激しい抵抗の末、持久戦へともつれ込むが、次第に本願寺側が劣勢に。毛利水軍からの兵糧も途絶え、最後は孤立状態となる。

そして、天正8(1580)年3月、朝廷が動いたこともあり、本願寺側が講和条件を承諾して降伏。同年4月には鷺森(さぎのもり、和歌山県)へ退去。引き続き本願寺に立て籠った一部の者らも、同年8月には降伏。本願寺に火がかけられて、長期にわたる争いは、ようやく終結したのであった。

終わり良ければ全て良し。
なんだよ、めでたしめでたしの結末じゃん、と終わらないのが織田信長。
彼には到底、見過ごせないコトがあったようだ。それが、石山合戦での「佐久間父子」の職務怠慢。こうして、同年8月に書かれたのが、この懲戒文書となるのである。

思いのほか、恨みがましい信長

織田信長は苛烈な気性。そんでもって、家臣を叱り飛ばすのも感情のまま。だから怒るのも冷めるのも案外あっさりしていそう。そんなイメージを持たれがちだが、本当なのだろうか。そう疑わざるを得ない根拠となるのが、この懲戒文書。佐久間父子の至らない点を、意外にもネチネチと責め立てている。

こんなに長い文を書いてたことが、もう織田信長のイメージと違う!

さて、問題の文書の内容をみていこう。

「一、佐久間信盛・信栄父子、五年間、天王寺に在城したが、その間、格別の功績もなかった。これは世間で不審に思われても仕方がない。信長も同感であり、弁護する余地もない」
(同上より一部抜粋)

まずは石山合戦に関するご指摘から。石山本願寺のそばで指揮を取りながら、功績がないのはどういうことかと。世間からの目、そして主君である信長自身からみても同感。弁護もできないのだから、罰するぞという、プロローグ的な意味合いにも取れる。

加えて、この後に続く項目において、武力行使もしない、調略活動もしない、持久戦のみに固執していたことが列挙されている。佐久間信盛には、わざわざ7ヵ国の与力をつけて、特別な待遇を与えているのだ。にもかかわらず、どうして短期決戦でカタをつけられなかったのか。だからこそ、「分別もなく、未練がましい」という非難まで出てくるのだろう。さらには、こんな内容のご指摘も。

「一、武力による作戦が進展しなければ、利益誘導などの調略活動をし、なお不十分なところがあれば信長に報告し、指図を受けて決着をつけるべきであった。しかるに、五年間一度も具申のなかったことは職務怠慢であり、けしからぬことである」
(同上より一部抜粋)

ズバリ、社会人基礎力の「報連相」ができていないとのお叱りだ。
これは、今も昔も変わらずに、上司から要求される内容だろう。このように、文書の前半に関しては、信長の怒りの矛先が石山合戦に向いている。職務怠慢、不十分な上司と部下のやり取りなど。確かにねと、頷く内容が多いのが特徴だ。

一恵斎芳幾筆「太平記英勇伝」「壱」「小田上総介信長」東京都立中央図書館特別文庫室所蔵 出典:東京都立図書館デジタルアーカイブ(TOKYOアーカイブ)

ただ、後半に差し掛かってからは、少し、その内容が変化する。
じつに、面白いように、信長の冷静さが失われていくのである。
どうやら、人は怒ることで、さらなる「怒り」を生むのかもしれない。確かに、感情が収まったところで、再度怒りの根源となる出来事を話すと、またもや怒りがぶり返す。そんな兆候が、この文書には見られるのである。

そして、信長の場合はというと。
石山合戦に対する怒りが、今度は佐久間父子らのこれまでの行い、人格にまで及ぶことに。

「一、先年、朝倉義景が敗走のおり、戦機の見通しが悪いと叱ったところ、恐縮もせず、揚げ句に自慢をいって、その場の雰囲気をぶちこわした。あの時、信長は立場がなかった。あれほどの広言をしておきながら、長々と統治に滞陣しており、卑怯な行為は前代未聞である」
(同上より一部抜粋)

「…しかるにけちくさい蓄財ばかりを心掛けていたから、今になって天下に面目を失い、その悪評は唐土・高麗・南蛮にまで知れ渡った」
(同上より一部抜粋)

言葉がさらなる言葉を煽り、そのスケールは次第に大きくなっていく。なんでも、佐久間父子の悪評は、日本列島を超え、とうとう朝鮮半島にまで及ぶことに。さすがに、これに限っては、信長も盛り過ぎだろう。

一方、単なる悪口でも、信長にはユーモアのセンスがある。

「一、与力や直属の侍までもが信盛父子を敬遠しているのは、ほかでもない。分別顔をして誇り、慈愛深げな振りをして、綿の中に針を隠し立てた上から触らせるような、芯の冷たい扱いをするから、このようになったのである」
(同上より一部抜粋)

なかなか面白い言い回しが、ちらほらと見受けられるのも特徴だ。例えば、コチラの表現。冷たい態度を表すのに「綿の中に針を隠し立てた上から触らせる」なんて。その独特の感性には舌を巻く。

こんな調子で、信長はエッジの効いた言葉を重ねていく。
冷ましきれない憤怒の言霊を、己自身の外へと出すしかないと考えたのか。手当たり次第、佐久間父子のこれまでの所業を書き連ねたのち、ご紹介した文末の2ヵ条へと繋がるのである。

なお、気になるのは、この懲戒文書の宛先である佐久間父子。
彼らのその後は、どうなったのか。

もちろん、すぐに高野山へ退去したのはいうまでもない。取るものも取りあえずという様子だったとか。しかし、信長より高野山にも留まることを許さない旨の命令が出たため、真言密教の聖地からも出ることに。

そして、佐久間信盛に関しては。
逃亡するも、一説には熊野の奥地に入って寂しい最期となったようだ(十津川などの諸説もある)。一方で、子の信栄は赦免されたとも。どちらにせよ、信長の怒りを一身に受けて、無事では済まなかったといえる。

最後に。
織田信長の怒りのパワーには、心底、驚かされる。
内容もさることながら、これほどの長いを文書を「自筆」でとは、相当のエネルギーが必要であっただろう。

ただ、文書には時折、信長の「心」が垣間見える。
どうして、どうして、どうしてと。
自分の思惑とは違った佐久間父子の結末。
その無念さ、失意の表れが、文章を長くしたのだろうか。

「赦免されることもあろうか」など、自分に問いかける文末も多い。
荒れ狂う胸の内を、文字化することで整理したのかも。

逆をいえば、無防備に、そして感情の赴くままに。
心ゆくまで、思いの丈を書いたに違いない。

信長のボルテージは最高潮に達していたはず。
それは、きっと。
手紙の魔が潜む「深夜」のなせる業なのかもしれない。

参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『虚像の織田信長』 渡邊大門編 柏書房 2020年2月
『信長の親衛隊』 谷口克広著 中央公論新社 2008年8月
『お寺で読み解く日本史の謎』 河合敦著 株式会社PHP研究所 2017年2月