Culture
2019.11.07

明治の偉人を支えた美人妻!陸奥亮子・伊藤梅子・渋沢兼子など美しく聡明な女性たち

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長い鎖国時代が黒船来航によって終わりを告げ、急速な政治的・文化的変化が起こった幕末から明治にかけての日本。そんな激動の時代に名を刻んだ偉人達の傍らには、献身的に夫を支え続けた妻たちの存在がありました。

今回は、そんな妻たちの中から才色兼備として名高い4名をご紹介。惚れ惚れする美しい容姿とともに、彼女たちの視点から見た歴史の一幕を覗いてみましょう!

カミソリ大臣を支えた社交界の華


まるでハーフのようなハッキリとした目鼻立ちに、しなやかさを感じる凛とした佇まい…。
こちらは、怜悧な政治手腕でカミソリ大臣とも呼ばれた陸奥宗光の妻・陸奥亮子(むつ りょうこ)です。

陸奥宗光は第2次伊藤博文内閣の時に外務大臣に就任し、日英通商航海条約を結んで、欧米諸国との間で結ばれていた不平等条約の撤廃を実現。また、日清戦争後に全権大使として伊藤博文とともに下関条約に調印するなど、列強国入りを目指す明治政府の一端を担いました。

陸奥宗光『近世名士写真. 其2』 /国立国会図書館

そんな宗光と亮子の出会いは、新橋の柏屋。そこで芸者として働いていた亮子は、その美貌で当時新橋花柳界で1,2を争う人気を誇っていたのだとか。そんな彼女は宗光に見初められ、前妻の蓮子亡き後17歳で彼の後妻となります。

政治家の妻としての道を歩み始めた亮子ですが、宗光の政治家人生は波乱万丈。
順調にキャリアを積みながらも、1878(明治11)年には、政府転覆計画に加担したとして禁錮5年の刑に処されて投獄。出所後はヨーロッパ留学を経て政界に復帰し、駐米公使、外務大臣、農商務大臣を歴任するなど、目まぐるしく立場が変化しています。
そんな中でも亮子は母として子育てをしながら家を守り、また政治家の妻として各所で存在感を発揮。持ち前の美貌と聡明さで、社交界では「鹿鳴館の華」、宗光が駐米公使となって共に渡米した際は「ワシントン社交界の華」「駐米日本公使館の華」などと称賛されました。

歴史の教科書にも残る陸奥宗光の偉業の数々は、この美しく聡明な奥様の支えがあってこそ成し得たものなのかもしれません。

こちらは家族写真。左から、亮子、宗光、長男の廣吉(前妻・蓮子の息子)。かなり美形ぞろいの一家です。

初代内閣総理大臣を支えた日本初のファーストレディ


続いてご紹介するのは、日本の初代総理大臣として有名な伊藤博文の妻・伊藤梅子(いとう うめこ)。
現在の山口県にて木田又兵衛の娘として生まれ、その後小梅と名乗って芸妓として働いていたそうです。二人は料亭・林亀で出会い、前妻のすみ子と離婚後、博文と結婚しました。
陸奥宗光の妻・亮子もそうですが、芸者から政治家の妻になるというパターンは、明治時代にはよくあったようです。昔から政治家=料亭のイメージはありますが、美貌だけでなく教養や所作もわきまえている芸者さんは、政治家の目に留まりやすかったのでしょうか…。

伊藤博文『近世名士写真. 其1』 / 国立国会図書館

強力なリーダーシップを発揮して明治史に名を残し、一見厳格そうに見える博文ですが、実はかなりの女好き。当時のジャーナリスト・宮武外骨からは「好色宰相」と呼ばれるほどだったとのこと。それ故に女性絡みのトラブルも多々あり、神戸の茶屋の娘をめぐって、大隈重信との間で諍いが起こり、西郷隆盛が仲裁に入ったという話も残されています。

一方で梅子は克己心の強い女性だったのだそうで、下田歌子(明治に活躍した教育者・歌人)に和歌を学んだり、英語を習得したりして教養を身につけ、身だしなみにも気を払うなど、婦徳の鑑とも称されていたといいます。

そして、1909(明治42)年に博文は暗殺によってこの世を去ります。その際、梅子は涙を見せずに気丈にふるまっていましたが、自室にて「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」という歌を詠み、夫の死を悼んだそうです。

激動の幕末を孤独に過ごした徳川15代将軍の正室

1603(慶長8)年に徳川家康によって始まった江戸幕府。以降250年以上にも渡って日本を統治してきた徳川家の最後の将軍・慶喜の正室となったのが、一条美賀子(いちじょう みかこ)です。
公卿・今出川公久(いまでがわ きんひさ)の長女として生まれたものの、もともと慶喜の婚約者だった一条忠香(いちじょう ただか)の娘・千代君が病死したため、一条家の養女となり代わりに妻として迎えられました。

徳川慶喜

代役として将軍の妻になった美賀子は、慶喜との仲はあまり芳しくなかったのだそう。
慶喜との間に女児を授かるも、幼くして死亡。以降子宝には恵まれなかったそうです。その後、夫は文久の改革の一環で将軍後見職となって14代将軍・徳川家茂とともに上洛。将軍の職に就いてからも江戸には戻らなかったため、美賀子も大奥に入ることなく長い間夫婦別居生活を送っていたようです。

一方、慶喜には新村信(しんむら のぶ)や中根幸(なかね さち)といった側室を寵愛しており、二人との間に21人の子供を授かっていました。
明治維新後、静岡に移り住んで慶喜と美賀子はようやく同居を始めますが、その後も二人の妾の子供たちは美賀子が育てたそうです。

一夫多妻制が当然の時代だったとはいえ、正室でありながら夫からの愛情が薄く、孤独なさまが窺える美賀子。当時ではよくある夫婦像だったのかもしれませんが、現代の女性の感覚からすると、とても切なく感じます…。

日本の資本主義の父を支えた美しき賢婦


新一万円紙幣の肖像にもなることで話題の渋沢栄一の美人妻が、こちら渋沢兼子(しぶさわ かねこ)です。
豪商・伊藤八兵衛の娘で、もともと渋沢の妾となったのち、先妻・千代の死後、後妻として1883(明治16)年に結婚しました。

渋沢栄一『近世名士写真 其2』国立国会図書館

渋沢は、尊王攘夷の思想の影響を受け、一橋(徳川)慶喜に仕えた後、慶喜の実弟で水戸藩主の徳川昭武に随行してパリの万国博覧会を見学するなど、欧米の先進諸国の知見を直に学びます。その後、大蔵省を経て第一国立銀行の頭取を務めながら、多くの民間企業などの創設や育成に尽力しました。

兼子は、夫婦で渡米してルーズベルト大統領と会見したり、渋沢が団長となって国内6都市の商工会議所を中心とした50名を率いてアメリカを訪問した「渡米実業団」の一員として同行したりと、夫を積極的にサポート。また、鹿鳴館ではバザーなどの慈善活動にも協力したそうです。

近代日本の経済発展の礎を築いた渋沢栄一。日本社会に新たな価値観を取り入れ、変革をもたらした背景には、共に第一線で活躍した兼子の支えが大きかったのではないでしょうか。

【番外編】あの偉人の娘も美人だった!鹿鳴館を沸かせた明眸皓歯の令嬢たち

ここからは番外編として、同時期に活躍した偉人の美しき令嬢たちをご紹介します!

鍋島榮子(なべしま ながこ)


佐賀(肥前)藩藩主として佐賀藩大砲製造所を建設するなど軍備の近代化に務めた鍋島直正の義娘。藤原家の流れをくむ名家・広橋家の娘で、1881(明治14)年に当時イタリア公使の任に就いていた侯爵・鍋島直大とローマで結婚します。
その美貌で社交界では、陸奥亮子や後に紹介する戸田極子とともに「鹿鳴館の華」と称されました。
日本赤十字篤志会の会長に就任し、そののちも東洋婦人会会長や大正婦人会などで要職を務めあげ、社会事業活動に貢献しました。

戸田極子(とだ きわこ)


維新の十傑の一人として王政復古に尽力した岩倉具視の娘。明治4(1871)年に美濃国大垣藩知事・戸田氏共(うじたか)と結婚しますが、当時氏共は17歳、そして極子は14歳でした。幼くして結婚した極子ですが、もともと英語とダンスが得意で、外国人とも物おじせず接することができたのだそう。本当に才色兼備なご令嬢でしたが、それ故に好色宰相である伊藤博文に言い寄られて、当時スキャンダルになったこともあるのだとか。

その後、氏共がオーストリア=ハンガリー全権公使に任命されると、一家でウィーンに移り住み、あの有名作曲家ブラームスに琴の演奏を披露したとも言われています。

明治の美人妻たちは賢く、そしてたくましかった!

見目麗しい美人妻たちは、それぞれの夫婦の形を育みながら、その美貌だけでなく時代を牽引する偉人の妻として、一流の品格と夫への献身的な愛情でたくましく時代を彩りました。この時代だけでなく、女性が表舞台に立つことが少なかった過去の歴史においても、影で支え続けた女性は多かったことでしょう。あなたもそんな美しく凛々しい古き良き女性たちに想いを馳せ、歴史の新たな側面を覗いてみてはいかがでしょうか?

書いた人

広島出身。ライター&IT企業会社員&カジュアル着物愛好家。その他歌舞伎や浮世絵にも関心がアリ。大学卒業後、DTMで作曲をしながらふらふらした後、着物ムック本の編集、呉服屋の店長を経て、現在に至る。実は10年以上チロルチョコの包み紙を収集し続けるチロラーでもある。