戦国時代の標準語を大調査!え、え、江戸城内では三河弁が使われていたの??

戦国時代の標準語を大調査!え、え、江戸城内では三河弁が使われていたの??

目次

普段の生活で、皆さんはどんな話し言葉を使っているだろうか。東京近郊で暮らしている人ならば、おおむね標準語(共通語)を話しているかもしれない。それ以外の地域では、普段の会話は地元の言葉をまじえたもの、必要に応じて標準語で話すという人も多いだろう。

いまやテレビの普及などで津々浦々まで標準語が浸透し、大半の人とコミュニケーションが取れる。しかし標準語は明治中期頃に生まれた、たかだか100年余りの歴史しかない新しい言語である。では、それまで日本に標準語的な存在はまったくなかったのだろうか。

標準語の元となったのは東京の言葉とされるが、さかのぼれば江戸の言葉になるだろう。江戸幕府を開いたのは徳川家康(とくがわいえやす)だが、彼の家臣には三河(現、愛知県東部)武士が多いことを考えると、江戸城内では三河弁がいわば公用語だったのか。もしそうだとすれば、江戸の言葉のルーツは、三河の言葉ということになるのだろうか。

本稿では、徳川家康の江戸開府とともに流入したと思われる三河弁が、江戸城内の主要言語となり、さらに江戸の言葉に影響を与えたのかというテーマを中心にしつつ、戦国時代から江戸時代にかけての方言事情から、日本人の言葉の変容を探ってみることにしたい。

三河岡崎の徳川家康像

多摩の近藤勇と江戸下町の勝海舟の言葉遣い

「どうすべえ」と「べらぼうめ」

新選組局長近藤勇が、副長の土方歳三とふたりっきりの場所では、
「トシよ」
と呼んだ、という。斬るか斬らぬかの相談ごとも二人きりのときは、
「あの野郎をどうすべえ」
と、つい、うまれ在所の武州多摩の地言葉が出た。

上は司馬遼太郎の小説『燃えよ剣』の冒頭の一節である。幕末に活躍した近藤勇は、武蔵国多摩郡上石原村(現、東京都調布市)の出身だが、時に地元の言葉である「どうすべえ」という表現をしたという。もちろん小説なので、史実と断言はできないが、東京都下で生まれ育った私は、地元で時折そうした言い回しに接しており、さもありなんと感じられる。

近藤勇

一方、同じ幕末に活躍した幕府旗本の勝海舟の言葉遣いは、実際に面会した岡本綺堂(おかもときどう)によると、「なんだ、べらぼうめ」という口調であったという。勝は綺堂を「お前」と呼び、その「お前」も話がはずんで来ると「おめえ」になって、「おめえなんぞのような若けえ奴に、江戸のことが判って堪(たま)るものかよ」などと云う(『綺堂随筆 江戸のことば』)

勝海舟

勝は江戸の本所(現、東京都墨田区)の生まれ。幕府旗本といえば「殿様」と呼ばれる身分だが、それが裏店の職人のような、ぞんざいな言葉を使っていた。今でこそ下町の本所も多摩も同じ東京都であるものの、幕末の頃は勝と近藤の言葉遣いが随分違っていたことがわかる。また、どちらも現代の標準語とも異なる。

しかしそれでいて、二人とも公式な場に出ると、「仰(おお)せの通り、左様でござる」といった、いかにも武士らしい共通の言葉遣いに一変したという。なぜだろうか。この点については、追い追い触れることにしたい。

方言は、実は江戸時代に最も発達していた

江戸時代後期の文化8年(1811)に書かれた式亭三馬『狂言田舎操(きょうげんいなかあやつり)』巻之上によると、江戸と呼ばれる地域から20町(ちょう、約2.1km)も離れると、もう言葉が違ってしまい、1里(り、約4km)も離れたら、まるで江戸とは違う言葉になったという。近藤勇の出身地である上石原村は甲州街道沿いで、四谷大木戸から約20km離れていることを思えば、近藤が多摩の地言葉を使うのも当然であったわけだ。

式亭三馬

江戸の言葉がごく限られた地域でしか使われていなかったというのは、少々意外な気もするが、その理由は江戸時代、人々が土地に固く結びつけられていたことによる。街道の整備とは裏腹に、庶民の大半は移動が制限され、土地から自由に離れることが許されなかった。このため、どの時代よりも各地に特色のある方言が発達することになったという。一方で明治時代に入り、異なる地方の出身者が出会う機会が増えると、意思疎通に不便をきたし、標準語をつくることになる。ということは、江戸時代に共通語的なものは存在しなかったのだろうか。結論を急ぐ前に、まず江戸時代以前の「話し言葉」について見てみよう。

中央の言葉と田舎の言葉

奈良時代の東国はどこを指すか

平城京跡

奈良時代に編まれた『万葉集』に、東日本の人々の言葉を写した東歌(あずまうた)や防人歌(さきもりのうた)が収められている。これらは奈良の平城京の都びとが用いる「中央の言葉」とは異なった、当時の東日本の言葉を反映しており、方言の貴重な資料とされる。東歌、防人歌は、信濃(現、長野県)、遠江(現、静岡県西部)以東、北は陸奥国(現、東北地方)に至るまでの地域から集められており、当時の都の人々は、これら東国では異文化が栄え、言葉にも特色のある場所と考えていたようだ。

ちなみに明治時代の文部省国語調査委員会の、「口語法調査報告書」(1905年)によると、全国の言語区域を東西に分けるとしたら、およそ越中飛騨美濃三河(富山、岐阜、愛知東部)の東に境界線を引くとしており、奈良時代の東国と奇しくも合致している。

雅な京都の言葉、下品な田舎の言葉

平安時代になると、『今昔物語集』に次のような話が載る。牛車(ぎっしゃ)が出て、多くの人が物見高く集まってくる中に、「東烏(あずまがらす、東国の人の蔑称)の鳴き合うような」けたたましく、下品な声のする車があった。「おおかた東国の娘たちが乗っているのであろう」という記述だ。実際は東国の武士たちが乗っていたのだが、おおらかな奈良時代と違って、明らかに東国を見下した内容である。

牛車

王朝文化に彩られた京都の言葉が雅(みやび)で洗練されているのに比べ、田舎の言葉はひどいもの。京都の言葉こそ、範とすべき「中央の言葉」である、と平安京の人々が考えていたことがわかる。

田舎の言葉で話せ

これが、武士が台頭して幕府を開く鎌倉時代に入ると、また人々の意識が変わってくる。僧の日蓮(にちれん)は、京都に滞在する弟子に次のような手紙を送っている。

ことばづかいや話をする声なども京訛(なま)りになったことでしょう。鼠(ねずみ)がコウモリになったように、鳥でもなく鼠でもなく、田舎法師でもなければ京法師ともみえず(中略)。ことばづかいは出身地のことばであるべきです。中途半端は聞き苦しいものです。

日蓮像

日蓮は弟子に、都の言葉を下手にまねるのではなく、使い慣れた田舎の言葉で話せと叱っている。これは政治の実権が京都から鎌倉の武家に移り、地方が中央に対して自信をつけてきていた証(あかし)なのかもしれない。逆にいえば当時、都の言葉はフォーマルなもの、田舎の言葉は卑下されるものという意識が、すでに地方の人々にまで浸透していたことを裏づけるだろう。ところが足利尊氏(あしかがたかうじ)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となった南北朝時代頃、中央の言葉はまた別の様相を見せ始める。

都の言葉を変え始めた地方の言葉

室町幕府と「おれ」の流行

江戸時代の俳人・安原貞室(やすはらていしつ)は、方言や訛り、言い誤りなどについてまとめた『片言(かたこと)』(慶安3年〈1630〉)を著すが、巻三に次のような記述がある。

みずからのことををれといふは、(中略)尊氏公の世中(よのなか)を心のままにしたまひつる比(ころ)より別してはやり出侍(いではべ)りて、……

足利尊氏が室町幕府を開くと、地方から多くの武士が京都に集まった。すると都の人々の間で、自分のことを「をれ(おれ)」と言うのがはやり始めたという。おれという一人称は、もともと「おのれ」を略したものとされ、鎌倉時代頃までは下位の者に使う二人称だった。それが地方で一人称に転じ、京都で地方の武士がおれを使ったことで、都の人々までがおれを用いるようになった。つまり、地方の言葉が中央の言葉に影響を及ぼし始めたのである。

足利尊氏像

応仁の乱以来、都の風俗は悪くなった

それがより顕著に表われるのが、戦国時代の始まりといわれる応仁の乱(1467~78)であった。同じ安原貞室の『片言』巻二には、次のような記述がある。

都のこと葉も、昔はよかりしかど、いつの程よりや田舎こと葉のまじりて、あしくなりける

応仁の乱れより都の風俗おほくことあらたまりてあしう成行侍(なりゆきはべり)しとかや

都の言葉も昔はよかったが、いつ頃からか田舎の言葉がまじって悪くなってしまった。応仁の乱よりこの方、都の風俗の多くが変わってしまい、悪くなった、というのである。実際、応仁の乱では、諸国の軍勢が京都で11年間も戦いを続け、都は焼け野原となり、人心もすさんだ。将兵の田舎言葉が飛び交う都では、略奪なども日常的に行われたであろう。言葉も風俗も、かつての雅やかさの多くが失われていったことは、容易に想像できる。

応仁の乱勃発地碑

一方で、都の戦乱を避けて、多くの知識人が地方へ下った。主に公家や学識の高い僧侶らである。彼らが赴いたのは、戦国大名化しつつあった大名や領主の新興商業都市であった。たとえば太田道灌(おおたどうかん)の江戸、北条氏の小田原、今川氏の駿府、朝倉氏の越前(現、福井県)一乗谷、大内氏の山口、大友氏の豊後(現、大分県)府内などである。

大名たちにとって都の知識人は、文化の伝播者として大いに歓迎すべき存在であった。当然ながら知識人たちとの会話から、都の言葉に接することになる。つまり都の言葉に地方の言葉がまじるばかりでなく、地方の言葉に都の言葉が影響を与える機会も生まれていたのである。そうした背景の中から、やがて織田信長(おだのぶなが)ら天下人たちが登場する。

都の言葉にまじった信長、秀吉、家康の方言

信長の上洛後、言葉遣いが変わった

織田信長

前述の『片言』を著した俳人安原貞室の師匠が、松永貞徳(まつながていとく)である。余談ながら彼は、戦国武将松永久秀(ひさひで)の親戚にあたる。その貞徳が記した『徒然草慰草(つれづれぐさなぐさみぐさ)』(慶安5年〈1632〉)に、公家の九条稙通(くじょうたねみち)の言葉として、次のようなものが載る。

信長公の上洛以後、高きもいやしきも都のうちのものいいみなかはりたることおほし

織田信長が15代将軍となる足利義昭(よしあき)を伴い、美濃(現、岐阜県)から上洛したのが永禄11年(1568)のこと。以来、都では身分の高い者も低い者も、言葉遣いの多くが変わった、という。信長が率いた将兵は主に尾張(現、愛知県西部)、美濃の出身なので、彼らが都の言葉に影響を与えたということだろう。具体的にどのような変化だったのかまではわからないが、都の言葉を知る人々にとって、歓迎できるものではなかったようだ。

信長、秀吉の尾張の方言、家康の三河の方言

また、松永貞徳が弟子の木下順庵(きのしたじゅんあん)に語った話を、さらにその弟子の新井白石(あらいはくせき)が『東雅(とうが)』(享保2年〈1717〉)の中に記している。

貞徳がまだ幼い頃までは、京都の人々の言葉遣いは後のようなものではなかった。今の世の人のいうところには、(都の言葉に)多くの尾張の方言がまじっている。これは信長、秀吉(ひでよし)と、2代続けて(尾張の出身者が)天下を治めたことによるものである。また最近は、三河の方言も移ってきている。

前述の九条稙通の語った「信長公の上洛以後」と同様だが、信長や豊臣秀吉が京都を押さえ、天下を治めたことで、都の言葉に多くの尾張の方言がまじった。さらに最近は三河の言葉もまじってきているというのは、秀吉の死後、京都を掌握した徳川家康を指している。

ようやく、本稿のテーマである徳川家の三河弁にたどりついた。信長や秀吉が京都を押さえたのは、二人合わせて30年に満たない。家康に至っては、秀吉の晩年から数えても、京都に直接影響を与えたのは15年もないだろう。そんな短期間にもかかわらず、尾張や三河の方言が都の言葉にまじったという。それならば家康が新たに本拠とした江戸では、三河の方言が席捲(せっけん)していてもおかしくないだろう。果たして、実際はどうだったのか。

三河なまりは天下一番

宣教師が記録した東国の方言

徳川家康が江戸に入ったのは、天正18年(1590)8月1日(八朔)であった。それまでの所領であった三河・遠江・駿河・信濃・甲斐(現、山梨県)約150万石は秀吉に没収され、代わりに関八州(伊豆・相模・武蔵・下総・上総・上野・下野・常陸の一部)約250万石を与えられてのことである。江戸に幕府を開く13年前のことであった。

東京湾

当時の江戸は寒村が点在する未開の地と語られることが多いが、必ずしもそうではない。太田道灌が築いた江戸城があり、品河湊(品川)には他国の船が寄港して、交易も行われていた。そして、使われていた言葉は関東方言とでも呼ぶべきものであったようだ。

家康が江戸に入った頃の東国の方言の特徴について、イエズス会の宣教師ジョアン・ロドリゲスが『日本大文典』(1608年)で記している。いくつか紹介してみよう。

・直接法の未来には盛んに助辞「べい」を使う。例「参り申すべい」「上ぐべい」「読むべい」「習ふべい」など
・打消には「ぬ」の代わりに動詞「ない」を使う。例「上げない」「読まない」「習はない」「申さない」など
・移動の「へ」の代わりに「さ」を用いる。例「都さ上る」
・「シェ」の音節はささやくように「セ」に発音される。例「シェカイ(世界)→セカイ」「サシェラルル→サセラルル」。この発音をするので、関東の者ははなはだ有名である

前に紹介した近藤勇の多摩の言葉「どうすべい」は、東国の方言に含まれるものであった。また現在、標準語として使っている言葉と共通する部分も見て取れる。

やはり江戸城内では三河弁だった

こうした関東の方言が話されている江戸に入った家康は、江戸城の大改修を行うとともに、新たな巨大都市を作り上げていく。そして関ヶ原合戦を経て、慶長8年(1603)に江戸幕府を開くのだが、その間、江戸城内で使われていた言葉は、徳川家の家臣たちが普段使っている言葉であったろう。それは主に徳川家発祥の地である三河の言葉であり、浜松や駿府周辺の言葉もまじっていたかもしれない。

葵の紋

幕府が開かれてから60年ほど経った頃、当時の武士を揶揄(やゆ)した「寛文年中江戸武家名尽ノ逸物」に次のような一節がある。

先年頃の かたがたは 立身せんと 朝公儀 三河言葉を にせ廻り 空いんぎんの きつとばる (大田南畝『一話一言』)

立身出世しようとする幕臣たちは、三河弁をまねて話し、かたちだけいかめしくした、というもので、まねしなければならないほど、幕臣たちに三河弁のネイティブスピーカーが減っていること、しかし三河弁を話すと、上司の覚えがめでたいらしいことを窺わせる。

また「三河なまりは天下一番」(『芭蕉追善之俳諧』)といった言葉もあることから、家康の江戸入りから江戸時代初めにかけて、江戸城内で三河弁が主に話されていたことは間違いないだろう。しかし三河弁が江戸を席捲し、江戸の言葉そのものになったかといえば、それはなかった。むしろ時を経るにつれ、存在感を失っていくのである。なぜなのだろうか。

なぜ三河弁は、江戸の共通語にならなかったのか

ワンノブゼムだった三河弁

歌川広重「東都大伝馬町繁栄之図」(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)
江戸は京都と違って、もともと土着の人口の少なかった新興の大都市である。家康の江戸入りと町づくりが進むと、そこへ東海・甲信の徳川の家臣はもとより、諸国から続々と商人たちが移り住んできた。伊勢屋の屋号で知られる伊勢商人をはじめ、三河、駿河の商人、大坂佃(つくだ)の漁民、さらには関八州からも商人が集まった。つまり江戸の町は、移住者によって成立したのである。さらに幕府が開かれて、江戸が日本の首府となると、人口流入に拍車がかかった。当然、言葉は雑多な方言が用いられていたはずで、江戸城内で話されていた三河弁も、江戸で用いられている言葉のワンノブゼムに過ぎなかったといえる。

上方の言葉を共通語的に使った将軍と大名

千代田之御表正月元日諸侯登城御玄関前之図
また、幕府が開かれると、全国の諸大名は江戸に参府し、江戸城に伺候(しこう)することが義務づけられた。実は大名たちにとってそれは初めての経験ではなく、豊臣秀吉の時代にも、大坂城や伏見城に伺候していたのである。大坂城や伏見城で、大名たちはおおむね、中央の言葉である都の言葉を共通語的に用いていたようだ。その慣習は江戸城にも引き続き持ち込まれていたらしく、2代将軍徳川秀忠(ひでただ)は、「おじゃる」という表現をしていたという。江戸時代の初め、将軍や大名たちが江戸城内で上方の言葉を共通語的に用いていたのであれば、三河弁は所詮、徳川家家臣の間でしか使われないものであったろう。

武士の言葉となる「武家共通語」の誕生

千代田之御表上野御成(部分)

そしてもう一つ、江戸時代に入ってから、上方の言葉とは別に「武家共通語」と呼ぶべきものが発達したとされる。諸国の大名は参勤交代で江戸に来る際、多くの家臣を従えていた。また彼らが江戸で滞在するのは江戸屋敷であり、屋敷には大名の奥方や、常駐する家臣たちもいる。彼らは必要に応じて幕府や他家とやりとりをしなければならないが、御国言葉では通じないし、江戸時代初めに大名が共通語的に用いていた上方の言葉も、秀吉の時代が遠ざかるにつれて、使える者が減っていっただろう。そこで発達したのが、方言を使わずにコミュニケーションできる「武家共通語」であった。

そのベースとなったのは、武士が教養としてたしなんでいた狂言や謡曲の中の言い回し、あるいは手紙などに用いる文語体であった。「ござる」「余儀なし」「よしなに」などをはじめ、現代の私たちがいわゆる武士の言葉としてイメージするものが多い。冒頭で紹介した近藤勇や勝海舟が、公式の場に出ると口調が一変して、「仰せの通り、左様でござる」といった言葉遣いになるのは、この「武家共通語」を用いていたからなのである。

話し言葉から歴史に切り込む

古代から江戸時代までの話し言葉の流れ

話がやや錯綜するので、ここで本稿を簡単に整理しておこう。
日本人が使う話し言葉は、奈良時代頃から都の中央のことばと、地方の言葉があった。人々の移動とともに、地方の言葉が中央に影響を与え、またその逆も起きたが、織田信長や豊臣秀吉の時代まで、おおむね都の言葉、上方の言葉がフォーマルなものであり、大名たちも共通語的に用いていた。

やがて徳川家康が江戸に幕府を開き、首府が関東に移ると、それまで関東の方言が話されていた江戸に諸国から人々が集まり、雑多な方言が飛び交うことになる。その方言の一つが、江戸城内で使われていた三河弁だった。しかし三河弁を使うのは徳川家の家臣のみであり、諸国から江戸に来る大名は、秀吉時代と同様の上方の言葉を共通語的に使い、時を経るにつれ、「武家共通語」を用いるようになった。そうした中で江戸独自の言葉も発達してくるが、人々の移動が制限された江戸時代は、江戸言葉が他地域に広がることはなく、各地で独自の方言が発達したのである。なお補足すると、「武家共通語」もあくまで武士にとっての便宜的な共通語であり、庶民が使う共通語は、古代から江戸時代に至るまで存在しなかった。

標準語の元は江戸の山の手言葉

さて、江戸の言葉は大きく、山の手言葉と下町言葉に分けられる。山の手とは江戸城周辺とその西側の高台の山の手台地を指し、幕臣をはじめとする武家の屋敷が多かった。一方の下町は低湿地を埋め立てた低地で、職人や商人が多く暮らした。つまり山の手言葉は武家の言葉として発達したもの、下町言葉は庶民のそれと大別できる。

江戸っ子の言葉といえば、勝海舟の「べらぼうめ」口調のような威勢の良い下町言葉のイメージが強い。が、それが現在、イコール東京の言葉というわけではなく、江戸時代においても下町限定の言葉であった。一方の山の手言葉は、いわゆる御屋敷言葉で、やわらかく上品とされる。山の手の女性の言葉遣いを『女重宝記』(1692年)から少し紹介してみよう。

子ども:おさなひ、 子どもたち:お子たち、泣く:おむつかる、ねる:おしづまる、髪を洗う:おぐしすます、みやげ:おみや、足:おみあし、魚:とと、発熱:おぬる、昼飯:ひるぐご、奉公:宮つかへ、進上物:一折、花一本:一もと、一升:一ます、二つ:一かさね

千代田の大奥お庭の夜桜(部分)

現代でも使われている言葉が少なくない。武士や知識人が使ったこれら山の手言葉は、明治時代にも「東京語」として生き続け、やがて標準語のベースとして採用されたのである。

三河弁は東京の言葉から全く消えてしまったのか

ところで、私ごとで恐縮だが、父は関西、母は九州の出身ながら、私が育った東京都下の家では方言はほとんど使われず、私は関西弁も九州弁も話せない。話せるのは多摩弁まじりの標準語(?)である。話し言葉は意図的に伝えない限り、育った土地に拠るのだろう。江戸城内の三河弁も、江戸育ちの息子や孫の代になるとはなはだ覚束なくなり、出世のために三河弁を「まねて話す」ような事態になったのではと想像できる。

伊良湖岬

事情は江戸に住まう諸国の武士や庶民も同じだったろう。初代は御国言葉を話していても、江戸育ちの息子や孫の代には、すっかり江戸の言葉に変わっていたのではないか。勝海舟のように下町で育てば、武士であっても町人同様の下町言葉で話すのだから。

では、三河弁は現在の東京の言葉にまったく痕跡を残していないのだろうか。これについては、わからないという他ない。三河弁の特徴的な語尾として「じゃん・だら・りん」が知られる。「~じゃん」(~じゃないか)、「~だら」(~だよね)、「~りん」(~しなさい)という意味で、このうち「~じゃん」は今でも東京や神奈川などでよく耳にする。しかし、それが三河弁由来であるのかは、調べがつかなかった。

もう一つの可能性として、アクセントがある。関東西部から中部地方東部にかけて、「中輪(ちゅうりん)東京式アクセント」が分布しており、それが徳川武士団の西三河から江戸への移動によるものとする研究があるのだ。三河弁と東京の言葉のアクセントがわかる方は、ぜひ比較してみていただきたい。

いずれにせよ、話し言葉は書き言葉と違い、記録に残りにくい。今でこそICレコーダーやスマホで会話が簡単に録音できるが、明治時代以前の話し言葉は史料が少なく、わからない部分が多いのが実情である。しかし今後、研究が進み、話し言葉がより鮮明になれば、その時代を生きた人々の息遣いもリアルに感じられるようになるだろう。容易ではないと思うが、ぜひ、話し言葉から歴史に切り込む研究が進むことを期待したい。

参考文献:徳川宗賢『日本語の世界8 言葉・西と東』、野村剛史『話し言葉の日本史』、鈴木丹士郎『江戸の声』、杉本つとむ『東京語の歴史』 他

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