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2020.02.04

使われなかった東京調布の深大寺城。お城の歩き方・楽しみ方と扇谷上杉氏の歴史も紹介

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東京都調布にある深大寺は天台宗の別格本山で、国宝の「銅造釈迦如来倚像」や重要文化財の梵鐘などを持つ古刹です。また、日本三大だるま市のひとつである「深大寺だるま市」や「深大寺そば」でも有名なため、人気の観光スポットとなっています。実は先日この近くにお城があると聞いて初詣がてら出かけたのです。でもそれらしいものがない……。いったい深大寺城ってどこにあるのでしょうか?

え、あの枯れた林がお城?

深大寺付近の地図を見ると、周りに大きな緑地が広がっていることがわかります。深大寺に隣接する「東京都立神代植物公園」は、かつてお寺の領地だった場所。都内唯一の植物公園として、時折イベントなども開催されます。植物公園は有料区域と無料区域に分かれ、無料区域に属する一つが「水生植物園」です。ここは、植物園から深大寺を挟んで南東の国分寺崖線(がいせん)の直下に位置したところにあり、湧水のある谷戸地形を利用して回遊式の水生植物庭園としたものです。国分寺崖線は立川市から大田区までの約30キロメートルにもおよぶ「がけ地」です。ここを天井としてすり鉢状になっている部分を「谷戸地形」と呼びます。深大寺のある地域は、国分寺崖線をはさむ武蔵野段丘と立川段丘にあり、崖下の湧水が水路となって多摩川の支流である野川に合流しています。そのため、現在でもゆたかな自然環境と景観が維持されています。

水生植物園にたどりつくと、台地の上に、うっそうとした林のような場所がありました。お気づきでしょうか、これこそが深大寺城のいまの姿なのです。

深大寺城は築城者や正式な築城年代は不明ですが、15世紀にはすでに築かれていたようです。

16世紀に入って北条氏(小田原北条氏)が相模に進出した際、扇谷(おうぎがやつ)上杉氏(室町時代に関東地方に割拠した上杉氏の諸家のひとつ)が南武蔵の防衛拠点としてここを活用したことがわかっています。1524年1月に江戸城(上杉家の家来だった大田道灌が築城)を北条氏綱に攻略されたため、扇谷上杉朝興(ともおき)は巻き返しを図り、朝興は居城の川越城からしばしば南武蔵に出撃しました。朝興は深大寺城に、北条氏康は多摩川対岸の小沢城(現在の川崎市麻生区)にそれぞれ陣を敷き、小沢原(現在の川崎市多摩区)で合戦に。こうした中で、扇谷上杉方は北条勢を多摩川で食い止めようと考え、朝興の跡を継いだ上杉朝定(ともさだ)が難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築することにしました。13歳前後と幼かった朝定と、彼を支えた家臣たちの大英断だったといえるでしょう。

しかし、なんと氏綱は深大寺城を迂回! 川越城を直接攻めてきたのです。そのため朝定は松山城に敗走してしまい、深大寺城は軍事拠点としての価値がなくなってしまったのです。せっかくつくったのに。せっかくつくったのにスルーされるなんて……。

深大寺城をめぐる北条市と扇谷上杉氏の動き

北条氏は扇谷上杉勢を北に追いやったので多摩川左岸の深大寺城は小田原城の防衛には不要になったのか、史料にも深大寺城は出てきません。そのまま廃城となったようです。もったいない。ただし城が手付かずで残ったことで、貴重な遺構になっています。深大寺城は1998年に東京都指定史跡、2007年に国の史跡に指定されました。使われなかった城も、これで浮かばれるかもしれません。

ところで「扇谷上杉氏」って?

使われなかった城「深大寺城」をつくった扇谷上杉氏とはどんな一族だったのでしょうか。
扇谷上杉氏の祖先は、室町幕府を開いた足利尊氏の母方の叔父にあたる上杉重顕です。南北朝時代に重顕の養孫にあたる上杉顕定が関東に下向し、鎌倉公方(室町幕府が東国に置いた出先機関)に仕えて、鎌倉の扇谷に居住したことから扇谷上杉氏と呼ばれるようになりました。

扇谷家は他の上杉諸家と同じく関東管領を継承する権利を有していましたが、事実上の宗家である山内上杉家が関東管領をほとんど独占したため、室町時代の前半にはさほど大きな勢力を持った家でなかったのです。しかし、室町時代の内乱である「上杉禅秀の乱」と「永享の乱」においてそれぞれ勝利した側についたことから、地位を向上することができました。

扇谷上杉管領屋敷跡(鎌倉市)

戦国時代に突入すると、扇谷上杉氏は相模を中心とする戦国大名として成長しました。扇谷上杉氏は川越城、江戸城、岩槻城を築城させて武蔵の分国化の足がかりをつくり、川越に拠点を移すことに。1477年の「長尾景春の乱」という戦いは扇谷家の領国武蔵において展開されています。このとき和平に力を入れたのが扇谷家の家宰であった太田道灌でした。長尾景春の乱は山内家の当主と家宰との対立によって起こったものでしたが、同じことが扇谷家でも起こり、上杉定正に大田道灌は暗殺されました。

その後は関東の領有をめぐり山内家との対立が顕在化、1493年には定正と連携した伊勢宗瑞(後の北条早雲)が堀越公方・足利茶々丸を攻撃しています。伊勢宗瑞(北条早雲)は伊豆において自立し、相模の領地は宗瑞とその子孫(小田原北条氏)に切り取られて支配権を失ってゆきました。宗瑞は平定した領土を、自分の領土にしていたのです。また、扇谷上杉氏と山内上杉氏が内紛状態となり永正の乱が発生すると、相模は後北条氏に浸食されてしまい、扇谷家の重鎮・三浦道寸は滅亡、後北条氏は武蔵への侵攻を開始。ここで一大拠点として活躍すると思われたのが深大寺城だったのですが、その運命は前述のとおり。その後、朝興の子上杉朝定は山内家と和解して後北条氏との戦いに臨んだものの、1546年の川越夜戦で戦死して扇谷上杉氏は滅亡してしまいました。

上杉氏には系統不明な一族も多いことがわかっていますが、関東管領だった山内上杉憲政は、越後の戦国大名長尾景虎に上杉家の名跡と関東管領職を譲り、景虎は上杉政虎と名乗るようになりました。これがのちの上杉謙信で、上杉の名前は近世以降も残ることができたのです。

お城の歩き方

深大寺城をはじめ、東京には100を超える城跡が存在しています。立派な天守閣や石垣を持つ城だけが城ではなく、中世の「山城」のようなものがたくさんあるのです。その多くは公園の片隅にあったり、謎の丘としてたたずんでいたり。立ち入り禁止区域は危険ですし、もちろん立ち入ってはいけませんが、整備されているところにはぜひ足を踏み入れてみてください。

深大寺植物公園内 水生植物園の案内図

近くにある資料館や図書館で縄張り図を見ることができたら、それを手に散策してみるのもよいでしょう。いわばお城の図面ですので、これを見ることでお城の全体像を知ることができます。なお、縄張り図は個人の方が作成されたものが多く流通しています。

著者が作成した縄張り図が集められている『首都圏発 戦国の城縄張り図集 西股総生個人縄張り図集vol.2』(西股総生著)

また、近くの地形もよく観察すると面白いでしょう。たとえば深大寺城は植物園の「水生植物園」の部分にあることから、天然の堀に恵まれた場所であったことがわかります。また、国分寺崖線そのものも古代の多摩川が南へと流れを変えていく過程で武蔵野台地を削り取ってできた河岸段丘の連なりで、ここには湧水が多く、野鳥や小動物の生活空間として貴重な自然地となっていることもポイント。

深大寺城はお城としては残念な使われかた(使われていない…)で終わりましたが、城のつくられかたの教科書として、わたしたちにさまざまなことを教えてくるもの。おそばを食べながら、築城に懸けた少年城主の思いやお城のあり方について考えてみてはいかがでしょう。あ、甘酒もよいかも~。

国指定史跡 深大寺城跡

入園料:無料
開園時間:午前9時30分~午後4時30分
休園日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月1日)
https://csa.gr.jp/contents/2154

書いた人

岡山市出身、歴史学の博士号をもつ大の歴史好き。レトロという言葉だけでは語れない、戦前の日本文化を伝えたいと思っている。趣味は読書と街歩きと宝塚観劇と漫才で笑うこと。紺野ともという名で詩人もしている。