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2021.05.01

ビール片手にタイムスリップ!酒屋が造る明治復刻地ビールと共にビール造りの歴史を追う

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キンキンに冷えたビールを冷蔵庫から取り出し、何も考えずにごくごくと喉に流し込む。
一日の終わりに飲むビールって本当に美味しいですよね。一本のビールはまるで身体を癒す水のように、するすると身体の隅々へと染み渡っていきます。
今や日本人にとってなくてはならない存在のビールですが、人々がビールに出会い、飲むようになっていったのは明治時代から。そしてその味わいはいまと昔では全く異なるものだったのです。

どんなものだったのか、気になる〜!

1本のビールと共にビールの歴史を追う!

ここに「明治復刻地ビールJAPAN BEER」というビールがあります。醸造するのは幕末より酒造りをしている石川酒造。このビールはその名の通り、自身が明治時代に醸造していたビールを復刻させたものです。

HPの説明を見ると、ラベルは当時のものを復刻し、明治時代の主流であったビールを瓶詰めしているとのこと。
「ふむ、明治時代の主流であったビールとはどんなものなのだろう」
そう思いながら口に含むと、まず押し寄せてくるのは芳醇な麦の味わい。そして後を継ぐように現れるのは、しっかりとした苦みと心地よい酸味の波。全体的にどっしりとした印象であり、その味わいは多くの日本人がビールと聞いて想像する「爽快な喉ごし、キレがあるクリアな味わい」とは大きく異なるものです。

明治期にこのようなビールを飲んでいたのだとしたら、どのようにいまのビールの味わいに変わっていったのだろう?そしてそこにどんなきっかけがあったのだろう?

そんなビール史のターニングポイントを探るべく、「明治復刻地ビールJAPAN BEER」片手に過去に妄想タイムトリップし、ビールの歴史を紐解いていきたいと思います。

日本人による初のビール醸造!江戸時代末期

諸説ありますが、日本人とビールとの出会いは江戸時代まで遡ります。江戸時代初期、長崎の出島に入港した積み荷の中にビールがありました。

そして日本人が初めてビールを醸造する契機となったといわれているのが嘉永6年、黒船の来航です。ペリーが幕府に献上し使節団にふるまわれたアルコール、その中のひとつに「土色をしておびただしく泡立つ酒」と呼ばれた酒がありました。そう、これこそがビールです。当時人々は黒船に驚き、怯えていました。それに対し「臆することなかれ!彼らが持参したビールなる酒なんて簡単につくれる」そんなメッセージを示すために川本幸民なる人物が日本ではじめてのビールの醸造に挑戦したといわれています。

川本幸民は自宅の竈(かまど)をつかってビールを醸造するのですが、驚くのは江戸時代において化学を必要とするビール造りが今とほぼ変わらぬ忠実さで行われていたこと!
彼は菌類の一種である「酵母」の存在を認識し、何度でどのように働くかを理解した上でビール造りを行っていたのです。

竈でつくっているというのが時代を感じる


幸民が造ったビールが美味しかったかどうかはわかりませんが、残っている文献を読み解くと彼が造ったビールは「上面発酵のエールビールであった」ということがわかります。エールビールとはフルーティで華やかな香りを持ち、コクある味わいのビールのこと。

ビールは発酵させる際に酵母を使用するのですが、使用する酵母によって発酵に適した温度が異なり、その味わいも大きく変わってきます。わたしたちがよく口にするスーパードライや黒ラベルなどはラガー酵母を使用し、低い温度で発酵させる「下面発酵」ビール。それに対し幸民が造ったであろうビールはエール酵母を使用し、20度程度で発酵させる「上面発酵」ビール。先述したように華やかでコクあるビールです。

現在の日本では「下面発酵」のラガービールが主流ですが、日本におけるビールの歴史は「上面発酵」のエールビールから始まったというのはなんだか不思議な気がしますね。

文明開化象徴のひとつ!エールビールが主流の明治時代初期

川本幸民がビールを造ってから約17年後。「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」頃に日本にブルワリーが生まれはじめます。場所は横浜。明治になり多くの外国人が暮らし始めたこの地がビール文化の発祥地になるのです。

当時横浜の外国人居留地では、ブランデー、ウイスキーなど幅広い品ぞろえのお酒が売られていましたが、ビールの種類はそれほど豊富ではありませんでした。海外から日本へ運ぶための長距離移動によるその振動や高温などがビールを劣化させてしまうためです。またビールが含む炭酸ガスに耐えうる丈夫な瓶も必要であり、輸入量はあまり多くはありませんでした。しかし一度ビールの魅力にハマってしまった人は、どこに住んでいてもビールは飲みたくてたまらなくなるもの。外国人居留地ではビールを求める多くの人々がおり、その声に答えるように明治初期に横浜の居留地内に醸造所が生まれました。明治初期に主流だったのは英国式のエールビール。当時日本では英国式を模範としていた、ということもありますが、冷蔵技術が十分ではなかったこの時代では、低い温度で数か月発酵熟成させることが難しく、常温発酵、常温短期熟成ができる上面発酵のエールが多くつくられていたのです。

こうして始まった日本におけるビール造りは、徐々に日本企業も参入していき徐々にブルワリー数が増えていきます。価格は高く庶民が手を出せるようなものではありませんでしたが、ビールはまさに文明開化の象徴のひとつでした。

酒類税則の大改革!蔵元たちがビールを造り出す時代へ

明治10年代後半から日本酒の蔵元たちがビールをつくりはじめ、明治20年代になると100を超えるブルワリーが国内には存在するようになりました。そのきっかけのひとつとなったのが「造石税」を柱とする酒類税則の大改正。売れる売れないに関わらず、酒を蔵に寝かせている段階から税がかかるという「造石税」に加え、酒税がどんどんとあがっていくことに日本酒の蔵元たちは不安を感じていました。

しかしこの当時ビールには課税がされなかったため、多くの蔵元たちがビール造りに乗り出したのです。冒頭にお話した、石川酒造がビールを造り始めるのもこの時期。

日本酒の蔵元がビールをつくっていたなんて意外!

ではこの時代、一体どのようにビール造りを行っていたのか。石川酒造に残っている文献や帳簿をもとに具体的にみていきましょう!

石川酒造による「JAPANBEER」誕生

文久3年から酒造りを行っていた石川酒造がビールを造りに乗り出したのは明治20年。35坪の室や水車場、麦漬用の桶や仕込桶、ビール釜などかなり高額な初期費用をかけ、設備を準備します。そして多額の年俸を払って「麦酒杜氏」を雇用し、下面発酵であるラガービールを醸造し始めました。

明治10年代半ばまでは日本在住の英国人向けのエールビールが主流でしたが、日本人がビールに慣れ初めたことにより、日本人好みの軽快な喉ごしのラガービールへと需要が移行。政治や法学などがドイツに傾倒していった明治20年代にはビールもドイツ式のラガーが主流になっていったのです。

そんな流れの中で石川酒造もラガーを醸造することに決めますが、ラガーは当時の製法で2か月程度という長期の低温熟成が必要。それを実現するためには莫大な費用を払って、冷蔵設備を海外から入れる必要がありました。そこで石川酒造は冬季限定、日本酒でいういわば「寒造り」でビールを醸造することにしたのです。

さて様々な工夫により無事ビールはできましたが、次に問題になってくるのがビールを入れる瓶問題。当時瓶を作っている業者はなかったため、できたビールは海外ビールの空き瓶を購入し、そこに詰めていました。しかしこの空き瓶がなかなかのくせ者。ビール造りが盛んになっていた当時、空き瓶は高価な上になかなか手に入りづらい代物だったのです。石川酒造は東京にある酒蔵ですが、大阪からも多額の運送料を支払い空き瓶を仕入れなければならない状況でした。

初期投資に高額な「麦酒杜氏」の給料。そしてかさむ空き瓶代…費用はかかるものの当時のビール需要はそれほど多くなく、業績不振によって石川酒造のビール造りは1年でその幕を一度閉じることとなってしまいました。

高額のビール導入!中小醸造所の根絶

石川酒造のように多くのブルワリーが悪戦苦闘しながらビール造りや販売を行っていた時代。この時代は政府の政策によって終わりを迎えていきます。

ターニングポイントは明治34年の高額のビール税導入。いままでは国産ビールを育成し、ビール輸入を減らすためにビールは無税だったのですが、日露戦争の軍事費用を工面するために課税対象となりました。それもビールも先の日本酒などと同様の「造石税」。しかもビールは年に何回も仕込むことができるという理由で、高い稼働率で計算をされ、その結果高額な税金を課されたブルワリーはバタバタと潰れていきました。

そして明治41年にビールの最低製造量が決められたことにより、中小の醸造所はさらに淘汰されていきました。そしてこのような状況の中、明治末から戦後にかけビール会社の統合や再編が行われ、大手の寡占状況へと入っていくのです。

そういう背景があったんだ...!

酒税法改正!再び立ち上がった石川酒造のクラフトビール

そしてぐぐっと時は流れ平成6年。長期に渡る大手の寡占状況に大きな転換点が起こります。酒税法改正により最低製造量が引き下げられ、大手でなくともビールを造ることができる時代がやってきたのです。これによって起こったのが第一次クラフトビールブーム。日本各地で「地ビール」と呼ばれるビールがたくさん造られるようになりました。

そしてそんな中、明治に一度ビール造りを挫折した石川酒造もビール造りへの想いを再び高まらせていきます。「いつの日か再びビール造りを!」第一次クラフトビールブームの前からそんな熱き想いを抱いていた18代目当主の石川彌八郎さんが、酒税法改正を機に準備を進め、ついに平成9年にビール造りを再開したのです。

明治に醸造をしてから百余年。こうして石川酒造の「明治復刻地ビールJAPAN BEER」はこの世に生み出されたのです。

石川酒造、ビール航海への新たな船出

明治に石川酒造で造られていたビールはラガーでしたが、今の「明治復刻地ビールJAPAN BEER」にはエールビールが詰められています。そしてラベルには波をかきわけぐんぐんと進む帆船。明治期にこのラベルがどのような思いで作られたかはわかりませんが、日本のビール文化という荒波を突き進む象徴のように見えます。そしてそのラベルをいま使用するのは、明治期にビールを造っていた「証」のようなもの。一世紀という時を超え、石川酒造のビールは再び新たな船出を迎えたのです。

エールビールからラガービールへ。そして多様化したビールの時代へ。

時代の流れとともに変化してきたビール文化は、この先どんな姿をみせてくれるのか。いまから楽しみで仕方ありません!

参考文献:ぷはっとうまい 日本のビール面白ヒストリー 端田晶(著)小学館
石川酒造HP

書いた人

お酒をこよなく愛する、さすらいのクラフトビールライター(ただの転勤族)。アルコールはきっちり毎日摂取します。 お酒全般大好物ですが、特に好きなのはクラフトビール。ビール愛が強すぎて、飲み終わったビールラベルを剥がしてアクセサリーを作ったり、その日飲む銘柄を筆文字でメニュー表にしています。 居酒屋の店長、知的財産関係の経歴あり。お酒関係の記事のほか、小説も書いています。

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‪‪銀行に10年務めたあと和樂webのスタッフに。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』聞き手担当。頭も体も硬いので、今一番欲しいのは柔軟性。

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