江戸時代後期の浮世絵師として知られる葛飾北斎は、90年にもおよぶ生涯の中で美人画、風景画、花鳥画、妖怪絵などさまざまな画題の絵画を制作してきた。そうした中で、少々異色ともいえる分野の作品群を残している。『百人一首』である。1830年代に『百人一首乳母かゑとき』と題したシリーズを、多色摺り木版画である錦絵として出版したのだ。
「百人一首乳母かゑとき」は、「冨嶽三十六景」や「諸国名橋奇覧」などに続いて制作された北斎最後の大判錦絵シリーズで、錦絵27図が出版されました。『百人一首』の歌の意味を大人が子どもに説明する主旨で企画され、「乳母が絵解きをする」の意からこの名称がついています。北斎は、歌や歌人の一般的な伝承やイメージに独自の発想を盛り込み、北斎ならではの世界観を表現しています。(出典=すみだ北斎美術館ウェブサイト)
すみだ北斎美術館(東京・墨田区)で開催されている「北斎かける百人一首」と題した展覧会は、『百人一首乳母かゑとき』全27図のうち同館が所蔵する23図を核に企画されたものである。北斎が『百人一首』をテーマにした錦絵を制作したことが、今の時代にどんな面白みを残したか? この企画展を通じてそれを探るのが、この記事の趣旨である。
平安時代の和歌を江戸時代の話に翻案した北斎
まずは、北斎が手がけた『百人一首乳母かゑとき』のうちの一枚を見てみよう。
平安時代中期の貴族、藤原道信朝臣(ふじわらのみちのぶあそん)の和歌をテーマに描いたこの一作では、どうやら、手前に大きく描かれた駕籠の中に乗っている人物が主人公だと思われる。つまり主人公の姿は見えないのだ。いったい主人公は駕籠の中で何を思いどんな表情をしているのだろうか。主人公が見えないことが、こうして鑑賞者の想像力を呼び覚ます。なかなか機知に富んだ作品である。
一方、画面のはるか遠くに見える森の木々の輪郭のわずかに上の辺りを見ると、ほのかな薄紅色の空が絶妙で微妙なグラデーションで表現されており、夜が明けつつあることがわかる。北斎の構図の妙に加えて、バレンで絵の具を摺る摺師の技術あってこその素晴らしさがここにある。筆者は心底、摺りが成したこの部分の表現に魅入られた。この時代の錦絵は本当に卓越したものだったことがよくわかる。
さて、藤原道信朝臣が詠んだ元々の和歌で歌われているのは、恋人との逢瀬の夜が終わり、朝が来て帰らなければならなくなったことへのうらめしい思いである。実際、北斎が描いた夜明けの情景は、実にもの思わしげに表現されている。駕籠に乗った主人公は黎明の朝焼けを見ながら、一夜の逢瀬を美しい思い出として心の中で蘇らせているに違いないのだ。じぐざぐの道を走る駕籠は、ほかにも同じ嘆きを感じている人物がいたことをにおわせているのか、あるいは、主人公の駕籠の動きを「異時同図法」で重複して表したものだったのか。いずれにしても、時間の経過がもたらす「無常」が画面に満ちている。
駕籠は江戸時代に広く使われた乗り物である。北斎が生きた時代にこの絵を見た人々はもはや平安時代の和歌を表した古典としてではなく、同時代の話として自分たちの経験や心情と照らし合わせながら、画面から伝わる物語を受け止めていたのではなかろうか。
このシリーズでは、ほかにも『百人一首』を代表する柿本人麻呂や小野小町の歌を題材にしたものが残されている。こうした作品を見てわかるのは、北斎が、オリジナルの和歌を翻案でもするかのように、想像力を飛翔させた物語を紡ぎ出していることだ。
天狗姿の崇徳院の横に書かれた恋歌
江戸時代に盛んに出版された錦絵は浮世絵師の100%の創意というわけではなく、むしろ版元(現代の出版社に当たる業者)のプロデュースによる側面が大きい。版元は市場のニーズをにらみながら、錦絵シリーズを企画する。『百人一首乳母かゑとき』シリーズの出版も、版元の意向によるものだったのだろう。
とはいえ、北斎は文学の世界にはかなり近しい絵師だった。『百人一首乳母かゑとき』シリーズよりも30年ほど前に滝沢馬琴の『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』や『新編水滸画伝』などの書籍で手がけた挿絵にも、画才が存分に発揮されている。北斎は、主に庶民向けの書籍や浮世絵の世界で生きていたので、広い市民層をターゲットにした、いわゆる娯楽市場を主な活動の場にしていたことになる。
滝沢馬琴の『椿説弓張月』では、源為朝が仕えた崇徳院が魔王となって天狗の世界に入る話などが綴られている。北斎は何と、鏡に写った崇徳院を天狗姿で描く。まるで映画のワンシーンを見ているかのようではないか。さらにそのページの余白部分には、崇徳院が詠んだ「瀬をはやみ岩にせかるる瀧川の われてもすゑにあはんとぞ思ふ」という和歌が書き込まれている。この和歌も百人一首の中の一首だが、別れ別れになった恋人との再会を願う恋歌である(こうして見ると、百人一首は恋歌だらけである)。それが、天狗姿の崇徳院とどう結びつくのか? おそらく、当時は百人一首が巷で広まっていたゆえ、崇徳院からすぐに連想される和歌を、まるで枕詞のように記したのではないだろうか。
こうした動きは、百人一首が当時の江戸の人々の間で広く、そして結構深く親しまれていたことを物語る。「崇徳院といえばあの一首!」という具合に人物と和歌を結びつけることができたのだから。そして、平安時代に貴族だけが興じていた和歌が、江戸時代には庶民の娯楽の「素材」になったということがまた、とても興味深いと筆者は思うのだ。貴族の趣味から生まれた百人一首を楽しむことで、ワンランク上の生活を夢見るような側面もあったのかもしれない。
考えてみると、江戸の庶民にとって和歌は、数百年前に使われた古語だったはずである。それなりの教養がないと、意味を理解することはできなかっただろう。江戸時代の庶民の教育水準の高さがわかる。
カルタが描かれた帯があった!
江戸時代初期頃始まったと言われるカルタの普及もまた、百人一首を庶民の楽しみにする大きな力になったに違いない。この展覧会には、そんな状況を物語る絵画がいくつか展示されている。北斎の弟子だった抱亭五清(ほうていごせい)の肉筆画『美人と花籠図』は、描かれた美人が着た着物の帯に、たくさんのカルタの絵が散りばめられており、『百人一首』や『拾遺和歌集』の歌が確認できるという。実にすごい帯だ。こんな帯を着けた人物を実際に見てみたいと思わせる。そして、こうした絵画の存在自体が、『百人一首』がカルタを通じて親しまれていたことを物語っている。
そして北斎は、カルタの絵も描いているのだ。『風流源氏うたがるた』に描かれている図柄は紫式部の『源氏物語』に由来するものだが、量産を前提とした錦絵技法で摺られており、カルタが普及していたことを裏付ける例と言えそうだ。
『百人一首』のちょうど半分の狂歌集
「五拾人一首」という奇妙な言葉をタイトルに持つ作品『五拾人一首 五十鈴川狂歌車』も紹介しておこう。もちろん、『百人一首』をもじっているのだ。載っているのは50人の狂歌師による狂歌である。『百人一首』のちょうど半分で狂歌集を作るとは、実に洒落ている。『百人一首』がなければおそらくはこのタイトルの絵本は生まれなかっただろう。
『五拾人一首 五十鈴川狂歌車』は、江戸時代の人々が平安以来の伝統を雅に受け止めるばかりでなく、諧謔心や遊び心をもって楽しんでいたことを反映した出版物とも言える。出版されたのは1802年。『百人一首乳母かゑとき』シリーズよりも30年ほど早く、滝沢馬琴の『椿説弓張月』の少し前の時期である。版元は著名な蔦屋重三郎だ。江戸時代中期以降、幕府による粛清や弾圧などはあったものの、人々はとにかく遊びを楽しもうとしていたのだ。北斎らが題材にした『百人一首』からもそんな様子が見えてくるのは、何とも頼もしく思われるのである。
つあおのラクガキ
ラクガキストを名乗る小川敦生こと「つあお」の、記事にちなんだ絵画を紹介するコーナーです。Gyoemonは雅号です。
筆者が通った北九州市の小学校では、6年生のクラスの国語の授業で数か月に1回、百人一首大会が開かれていたので、意味もわからずに百首全部を覚えておりました。しかし、改めて内容を味わいながら読むと感慨深いものがありますね。柿本人麻呂の名前はあまりにも馴染みがありすぎて、ああ、秋っぽくて美味しそうでいいなぁなどと思っていたのに、実はあの和歌は独り寝の寂しさを詠んだ恋歌だったのですね。小学生に理解不能だったのはしかたがなかったと言えましょう。
そこで、改めて人麻呂さんの気持ちになってみたいと思い、この絵を描いてみました。夜中にむっくり起き上がって柿の木の下で和歌をしたためている場面です。
展覧会基本情報
展覧会名:北斎かける百人一首
会場:すみだ北斎美術館(東京・両国)
会期:2022年12月15日(木)~2023年2月26日(日)
前期:2022年12月15日(木)~2023年1月22日(日)
後期:2023年1月24日(火)~2月26日(日)
公式ウェブサイト:https://hokusai-museum.jp/100Poems/