戦国時代を語るのに外せないアイテムといえば、甲冑(かっちゅう)ではないでしょうか。読んで字のごとく、甲(鎧:よろい)と冑(兜:かぶと)のことです。「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄や井伊家のよろいは、赤備えといわれた鮮烈な朱色が象徴的で、勝負強さを物語っています。伊達政宗や上杉謙信のかぶとには、月の形や鹿角といったを大きな立物(飾り)をつけ、個性を際立たせていました。現代ではコスプレとして人気の高い甲冑ですが、当時は、もちろん戦いの場で身を守るための道具。そこに込められた思いとはどのようなものだったのでしょう。
戦国時代の甲冑に魅せられ、日本で数少ない甲冑の復元、新作の制作を行っている甲冑師・熱田伸道(あつたしんどう)さん。「甲冑を見れば時代とその人となりがわかる」という熱田さんに甲冑の魅力や見どころ、さらには甲冑から見える有名戦国武将の身長や性格まで、戦国マニアならずとも楽しめるお話を伺いました。これを読むと、あなたもマイ甲冑が欲しくなるかも!?
甲冑の歴史は、戦い方の歴史。戦う者たちの動きによって甲冑は進化していった
―日本で甲冑が作られたのはいつごろからでしょうか。
熱田:甲冑は身を守る道具として、敵が出来れば発生するものですから、弥生、古墳時代からありました。戦うための道具として大陸から伝わり、日本独自のものが生まれたのが平安中期です。この時代のよろいを大鎧(おおよろい)と呼び、重装備のよろいで身体全体を覆うものでした。
―大鎧って、織りや漆、彫金とあでやかで美術工芸品のような作りですよね。国宝に指定された『赤糸威大鎧』(あかいとおどしおおよろい)も有名ですね。
熱田:鎌倉時代に入ると、元寇※1がありましたよね。外国からの侵攻により、戦い方も変わっていきます。それまで日本の戦いは、名乗りを上げ、1対1で戦う「騎射(きしゃ)戦」でしたが、元寇以降、馬から降りて、地上で戦うための「徒立(かちだち)戦」となります。今まで着ていたよろいは、馬上での盾としての役目もあったのですが、地上であれば軽くて動きやすいものが良いと変化していきました。
―現在放送中のNHK大河ドラマ『13人の鎌倉殿』に出てくる甲冑ですね。確かにまだ重そうですね(笑)。
熱田:南北朝時代になると山岳戦が主流になります。山城を築き、掘ったり、丸太を積んで防御したり、そこを登ったり下りたりするのですから、自分の身を支えながら、機能性を重視したよろいが必要になってくるんです。胴、腰回り、大腿、ひざ下など、それぞれの部分を守るための形状と武具のパーツを繋ぎ、動きやすいよろいが作られるようになりました。こういったよろいを当世具足(とうせいぐそく)と呼んでいます。
さらに戦国時代中期に入ると、集団戦で数が多い方が勝つような戦い方になり、武士だけでなく、農民たちも足軽として駆り出され、戦に加わるようになりました。こうなると、安くて早くて丈夫な甲冑がたくさん必要になります。中堅の武士たちは、雇った農民たちに貸し出すための御貸具足と呼ばれたよろいをたくさん持っていたんです。これが1500年代から1600年代ぐらいのこと。大量に作られたため、戦国時代の甲冑は、各地に残っていて、代々受け継がれて家にあるという人も多いんですよ。
―令和5(2023)年のNHK大河ドラマ『どうする家康』はまさに戦国時代が舞台ですから、軽くて動きやすい甲冑を身に付けて出てくるんですね。大河ドラマを見る時にも甲冑の違いなども注目したいと思います!
戦国武将の甲冑はここを見る! 三英傑の甲冑には性格の違いも!
―熱田さんが作られているのは、どの時代の甲冑なんでしょうか。
熱田:室町末期から江戸初期までの甲冑です。この時代の甲冑はシンプルで、戦う防具としての用途をきちんと完成させたものなんです。みなさんが知っている織田信長や豊臣秀吉などの有名武将は、自分の身体にフィットしたよろいを作らせていました。今でいうオーダーメイドです。だから動きやすいし、素早く立ち回れる。雇われて戦に出ていた足軽の人たちは、大と中という2種類のサイズしかなかったので、小さい人には、よろいが大きすぎることもあったようです。
―甲冑は色やデザインにも個性を感じるのですが、単に戦うためのものというより、自分自身を投影したものだったのでしょうか。
熱田:そうです。自分の分身といってもいいかもしれません。戦国時代の武将たちは甲冑で自分を表現していました。信長の甲冑は南蛮胴といって、胴前でしのぎを立てていて、鉄砲玉が当っても跳ねるようになっている。信長がこの頃に交流していたスペインやポルトガルの宣教師たちによろいの絵を描いてもらい、作らせたんでしょう。信長は外国の物でも合理的で良いものは取り入れるという考え方の人でしたし、目立つものが好きだった。
―あの奇抜なよろいは、やはり外国の影響なんですね。秀吉や家康も特徴はありますか。
熱田:実際に南蛮胴をポルトガルやスペインから進呈させたのは秀吉です。キリシタン追放令を出す秀吉に、おもねるため差し出したと伝えられています。また、秀吉は金とか銀を使った派手なものを好み、仙台市博物館にある秀吉の甲冑などは銀箔押しです。当時、金や銀は相当な値がついていましたから、甲冑などにはあまり使用していなかったんです。
三英傑の中で、一番地味なのは家康です。黒色の大黒頭巾(だいこくずきん)のかぶとで、よろいも黒糸威(くろいとおどし)と、黒ずくめでした。でもこのよろいで、関ヶ原を勝ち、大坂城も勝ったので、徳川家はずっとその甲冑を受け継いでいました。現在は久能山東照宮に所蔵されています。
―熱田さんは、前田利家や加藤清正、酒井家次などが、実際に着用していたよろいも復元されているそうですが、よろいからわかることってありますか。
熱田:よろいの胴高から推測して、身長や体型がだいたいわかります。前田利家のよろいからすると、身長は157㎝ぐらい。豊臣秀吉のよろいは仙台市博物館にありますが、これは小さくて150㎝もないんです。徳川家康や伊達政宗は、だいたい160㎝ぐらいと言われています。戦国時代、背が高い人は、ご飯が食べられていた人。秀吉のように貧しくて、ご飯が食べられなかった人は、身体も小さかった。だから、秀吉は身体ではなく、頭で勝負したんです。
―大柄なイメージのあった前田利家や伊達政宗も、今の時代だったら平均身長よりも小さかったんですね。
加藤清正のよろいは、前と後ろで2枚に分かれている2枚胴のよろいが主流だった時代に、わざわざ5枚板の鉄板を蝶番(ちょうづがい)で繋げた古式の形で作ってあるんです。自分は「太閤・秀吉と血縁関係である」という秀吉との関係を周囲に知らしめるために、格式の高いよろいを作らせたのではと思います。
史実を掘り起こして、お宝を発見! 各地に眠る戦国時代の甲冑
―前田利家の甲冑修復はどのような経緯でなされたんですか。
熱田:甲冑を作るには、歴史を学ぶことが重要で、戦国時代の史料などもたくさん読んでいます。その中に、前田利家が生まれた名古屋市中川区にある荒子観音寺に「前田利家がよろいを寄贈」という記録を郷土史家が見つけ、それで荒子観音寺の住職にお願いして、探してもらったんです。出てきた時はボロボロの状態で、甲冑もバラバラで保存されていたんです。それを史料を紐解きながら、1年かけて修復しました。
―以前、荒子観音寺でこの甲冑を見せていただいた時に、美しく、洗練されたデザインに驚きました。
熱田:胴の草摺(くさずり)の最下段の部分に金箔押しで、おしゃれですよね。織田信長に影響を受けている部分もあると思いますが、前田利家もかなりの派手好きでした。
―戦国期と江戸期の甲冑の違いはありますか。
熱田:戦国期は戦うための甲冑、江戸期は観賞用としての甲冑です。一番違いがわかるのが、背中の部分の背溜めという場所で、背骨と後背筋にあわせて山型になっているのが戦国期のものです。「槍働き」といって槍を突いたり、振り回したりする時に使う筋肉の盛り上がり部分ですね。これがあるのが戦国期、江戸前期以降のものは、戦いのない時代に作られた平和の象徴です。だから身体にフィットしていなくても良い。博物館などでは前からしか見られないので、この違いが、なかなか伝わらないんです。
―新しく甲冑を制作される際に、材料なども昔と同様のものを用いるんでしょうか。
熱田:今はインターネットで探せますから、割と簡単に手に入ります。私の修行時代は、全国あちこちに行って、材料を集めていました。昔の甲冑は漆を塗ってありましたが、今は日本で漆がほとんど採れないため、カシューナッツの油に顔料を入れたものを使用しています。外国産の漆は気候などの違いで合わないため、ひび割れが出来たりしてしまうんです。
―かぶとには時代の違いなどあるのでしょうか。
熱田:頭形の眉庇(まびさし)は、触ったり、裏から見ると形状が違うので、桃山の時代だな、江戸前期だなということがわかるんです。前立て※2などは、戦場においては、敵か味方かを見分ける「合い印」だったんです。井伊家では、脇立ての大きな金箔押の天衝(てんつき)※3が御当主で、少し小さめの金箔押の前立てが一門や譜代の家臣、銀箔押が外様の家臣、そうやって見れば一目瞭然ですから。
徳川四天王の一人、酒井家に伝わる甲冑復元。今年は入部400年祭も!
―『どうする家康』に登場する徳川家臣団の一人、酒井忠次の嫡男で、二代目酒井家当主であった家次の甲冑も修復されたんですよね。
熱田:山形県鶴岡にある酒井家に遺る史料や文化財を保存する致道博物館に、甲冑の見学及び調査に行った時に、バラバラになった甲冑を見せていただいたんです。それで「これは二代目酒井家次さんの甲冑ですよ」とお伝えしたら、みな驚いて。そんな貴重なものならと、有志がお金を出しあって、修復を依頼されました。愛知県の三河出身の酒井家ですから、名古屋在住の私もご縁を感じたんです。
さらに、帰路で山形空港へ向かう途中、『加藤清正公、ここに眠る』と書かれた天澤寺(てんたくじ)という寺があり、そこにも甲冑があると知って、見せてもらったんです。それが縁で、天澤寺に伝えられる甲冑残欠と資料を基に推定復元することにもなりました。愛知県の武将は各地で大名となって活躍しましたが、こういう形で巡り合えるのも不思議な縁だと思います。
―歴史の教科書に出てくること以上の史実が、甲冑を通して、見えてくるんですね。
熱田:加藤清正は、名古屋に生まれて、秀吉に引き立てられ、家臣となって活躍しました。最後は、熊本城54万石の大名となりましたが、慶長15(1610)年に病で亡くなります。この時、息子の加藤忠廣(ただひろ)は10歳だったため、後に派閥争いが起きて、それが江戸幕府に知られ、寛永9(1632)年に加藤家は改易されてしまうんです。そして、忠廣を預かった酒井家が庄内(山形県)の丸岡城に居館を作り、移った際に加藤清正の骨と甲冑を熊本から持ってきたと伝えられているんです。清正公のお墓もあります。
―この秋、熱田さんご指導のもと、地元の方々による甲冑パレードも行われるんですよね。
熱田:令和4(2022)年は、『酒井家庄内入部400年』にあたり、記念事業が開催されます。それで鶴ヶ岡城本丸址に創建された荘内神社の宝物殿を使って、甲冑展をやります。入部400年祭を記念して荘内大祭の中で三代忠勝公の甲冑武者行列、2kmのパレ―ドも行います。この式典には、徳川家の宗家と四天王の宗家が来ますよ。
―リアル版『どうする家康』みたいでワクワクしますね。
熱田:鶴岡では、「荘内藩甲冑研究会」を立ち上げ、甲冑作り教室をやっています。その中から甲冑師も二人出ました。甲冑づくりは、ものづくりが好きで歴史が好きな人たちが、祖先の貴重な財産を未来にいかにつなげていくかを考え、真剣に取り組んでいます。たくさんの人に知ってもらうため、実際に甲冑を着用してもらう体験イベントなどもやっています。
―最後に熱田さんにとって甲冑とは何でしょうか。
熱田:甲冑を見れば、その人となりがよくわかる。だから私にとって甲冑は武将の生きた証です。
<取材を終えて>
熱田さんの甲冑愛に引き込まれ、2時間、甲冑と武将話に花が咲きました。現在も甲冑を自分で作りたい、甲冑師を目指したいという人がいるそうですが、仕事として結びつかない現状もあるそうです。熱田さんは、「これで飯が食えるようになろう!」と甲冑師の作品を展示する甲冑展を各地で開くなど、精力的な活動もしています。また、戦国武将の甲冑をプラモデル感覚で作ることができる甲冑キット「さむらいアルモデルキット」を販売。精巧なパーツを手順に沿って組み立てるだけで、本物そっくりの甲冑が作れます。プラモデル好き、戦国好きの方は、ぜひチャレンジしてみてはいかがでしょうか。マイ甲冑ブームも来年あたり来るかもしれません!