血気盛んで、戦いの際には皆殺しをも厭わなかった武将・伊達政宗(だて まさむね)。荒々しいエピソードが数多く残っていますが、政略結婚だった妻を生涯愛し通した男でもありました。
その妻は、愛姫(めごひめ)と呼ばれた容姿端麗な女性。愛姫は生涯豊臣秀吉・徳川家康の人質として暮らしましたが、政宗との愛は年老いても消えることはありませんでした。
しかし、政宗は臨終の際、愛姫に会うことを拒みます。なぜ、愛し合った2人は最期の時をともにできなかったのでしょうか。
伊達政宗・愛姫の政略結婚
生涯恋心を抱き合っていた政宗と愛姫。2人の出会いは政略結婚でした。結婚当時、政宗13歳、愛姫12歳。容姿端麗でおしとやか、さらに立ち居振る舞いも上品で、書道や和歌にも秀でていたと言われる年の近い妻に、政宗は心惹かれます。荒っぽい印象の政宗ですが、彼もまた詩歌を愛するなど、繊細な心をもち合わせていたのです。
愛姫は、三春城(福島県田村郡三春町)城主・田村氏のたった一人の子どもで、本来は婿をとって跡を継ぐべき立場でした。しかし、周囲を敵に囲まれた田村氏は、伊達氏と組む以外に活路はありません。そこで、2人の間に次男が生まれたら、その子を養子としてもらうことを条件に結婚させたのです。
秀吉の人質として、領国を知らずに生きる
政宗は、関白・豊臣秀吉に私戦を禁じられても、そんなことは気にもせず領地拡大の戦を続けました。これを警戒した豊臣秀吉は「都で貴人と交流し、大国の夫人として教養を積んだらいかがですか」と言って愛姫を京都に誘います。天下人からの優しい言葉に聞こえますが、これは愛姫を人質にとるための口実。愛姫は聚楽第に賜った伊達屋敷に住み、夫の領国を知らずに暮らしました。
結婚から15年 待望の懐妊
秀吉から睨み続けられていた政宗。愛姫はそんな夫を手紙で激励するなど、夫婦仲は非常に良いものでした。ただひとつ、愛姫の悩みは、なかなか子どもに恵まれないこと。政宗は国許に複数の側室がおり、その1人が男の子を生んだことも愛姫に影を落とします。
子どもができない体なのでは、と諦めていた頃、結婚から15年目にして待望の子どもを授かります。その子は女の子でしたが、「五郎八(いろは)姫」と男のような名前をつけられました。これは「次は男の子を」との願いを込めて、政宗が縁起を担いだものと言われています。
その5年後には、待望の男の子・忠宗を授かります。さらに2人の男の子を出産したものの、残念ながら夭折してしまいました。
臨終に愛姫を拒絶した理由とは
秀吉の人質として過ごした愛姫。天下が徳川家康の手に移っても、場所が江戸に変わっただけで、その後も人質生活が続きました。愛姫は夫の領地に足を踏み入れることはなかったものの、政宗から正妻として重んじられました。愛姫もまた、側室たちに嫉妬することなく、正妻としての威厳を保ち続けたのです。
時が経ち、血気盛んな政宗にも老いが忍び寄り、愛姫も住む江戸屋敷で死の床につきます。しかし政宗は、別棟に住む愛姫を寄せ付けませんでした。その理由は「愛する人に、病でやつれた姿を見せたくなかったから」。
「直接お目にかかりたい」
愛姫はそう懇願します。しかし一方で、伊達男だった夫の真意をも心得ており、納得した上で生涯の別れを迎えました。
「愛する妻の心にいる自分は、在りし日のたくましい男であってほしい」
政宗はそう願い、2人は最期まで“恋人”でいたのかもしれません。
アイキャッチ画像:月岡芳年画 シカゴ美術館蔵 ※画像はイメージです
参考:『女たちの戦国』楠戸義昭 『日本人名大辞典』『世界大百科事典』
▼愛姫を含めた伊達家の女性5人を描いた作品
伊達女