最近の私の相棒はというと。
ちょうど鼻の上に乗っかっている、このメガネ。ブルーライトを40%カットできる優れモノなのだとか。
じつは、ずっと欲しかったのだが、なかなか購入に至らず。昨年の暮れに、運よく私の元へ。早速、使い始めて、数か月後には、もう手放せないほどの仲になってしまったというワケである。
最初は抵抗があった薄茶色のレンズも。思いのほか、そこまで気にならないことに驚いた。ただ、部屋の中では感じないにしても、外に出ればやはり違う。同じ景色でも、色付きのレンズから見た自然の風景は、どこか人工的だ。
本来の意味とは違うが、これぞまさしく、色メガネ。
さて、今回、ご紹介する戦国武将、石田三成(いしだみつなり)も、そんな色メガネで見られることの多い人物だといえるだろう。
それも、全ては。
天下分け目の戦いといわれた「関ヶ原の戦い」で、徳川家康に敗れたゆえのコト。
このたった1つの事実が、これまでの彼の人生を大きく遡っていく。特に、江戸時代中期以降、神君家康と崇める歴史観の元では、敗将の石田三成は「奸臣」やら「愚将」やら、挙句の果てには「戦下手」との評価も。こうした不名誉なレッテルが、ずっと付いて回ることに。
なかでも、三成の「戦下手」の例として挙がるのが、「忍城(おしじょう、埼玉県行田市)の水攻め」。一般的な内容としては、石田三成が「水攻め」にこだわったせいで、結果的に大損害を出してなお、忍城を落とせなかったというもの。
そこで、今回は、石田三成の直筆の書状をもとに、彼の本音を探っていく。果たして、忍城攻めの失敗の原因は、どこにあるのか。早速、ご紹介していこう。
じつは反対だった?石田三成の本音
天正18(1590)年。豊臣秀吉が、「天下人」への総仕上げとして行ったのが、かの有名な「小田原攻め」である。「小田原攻め」とは、小田原城(神奈川県小田原市)を本拠とする北条氏政・氏直の父子らを攻略するための戦いだ。
天正13(1585)年、秀吉は関白となり、天正15(1587)年には九州も平定。そんな強大な権力を持つ秀吉の上洛要求に応じなかったのが、この北条氏である。これまでの歴史にしがみつき、最新の勢力図を分析しなかった。そんな判断が情勢を見誤ったとも。
こうして、秀吉は北条氏の本拠地「小田原攻め」を命じることに。既に臣従していた多くの諸大名らを動員して、大軍での小田原包囲網を展開したのである。もちろん、あの徳川家康らも小田原征伐の一員として参陣。結果的に、秀吉は総勢20万もの軍勢を動員し、その圧倒的な兵力を世に知らしめたのである(諸説あり)。
さて、今回の記事で取り上げる「忍城(おしじょう)」は、北条方の支城の1つ。じつは、秀吉は小田原城を包囲するのと並行して、関東に点在する数多くの支城を落とす作戦に出たのである。
多くの戦国武将らが、別動隊として名を連ねた。当然、石田三成もその中に含まれている。当時の三成は、家臣の中で頭角を現してはいるものの、未だ筆頭格の家臣とはいえず。武功というよりは、兵站など裏方面での能力を発揮、九州平定後の博多の復興など官僚的な側面が際立っていた。
そんな三成が初の指揮官として抜擢されたのが、この「忍城」の攻略であった。
じつは、「忍城」は思いのほか堅城である。
もともと、城の周囲は湿地帯。忍城は利根川と荒川に挟まれており、地形的にも平坦な土地柄。三成の軍配いかんにかかわらず、客観的にみても、なかなか攻め落とすには難しい城であったようだ。
忍城攻めが行われたのが、天正18(1590)年6月。
その方法はというと。
「水攻め」
城の近くには既に堤もあり、そこに新たな堤を築いて、城の周りをぐるりと取り囲む。そして、川の水を引き込んで、城の水没を目論んだのである。
ただ、実際はというと。
残念ながら堤が決壊するなどして、この「水攻め」は失敗。蓋を開ければ、忍城を落とすことができずに、タイムアップ。というのも、本城となる「小田原城」にて北条氏直が降伏したからだ。これを受けて、忍城も開城されることになったのである。
「忍城は落城ならず」。
この不名誉な結末は、一体、誰のせいなのか。
この「水攻め」を指揮していた石田三成の軍配能力のせいとも。
ただ、当時の三成の直筆の書状には、こんな文面が見られる。
「先可押詰候哉」
(大谷荘太郎編『その漢、石田三成の真実』より一部抜粋)
水攻めではなく、「城方へ先に攻め寄せるべき」との文言。
まさかの相反する事実。
この書状から考えると。じつに、三成は、「水攻め」に積極的ではなかったようなのだ。
「水攻め」が好きなのは…誰?
先ほどご紹介した石田三成の書状の日付は、天正18(1590)年6月13日。宛先は、「浅弾様」。当時の三成の上司的な立場にあった「浅野長吉(のちの浅野長政)」に対して書かれたものである。
じつは、この「忍城攻め」は、石田三成が始めたわけではない。これまで、「戦下手」の三成は、単に秀吉の真似をして、水攻めにこだわったとの見方がなされていたのだが。そもそも、忍城攻めの先発として任されていたのが、この「浅野長吉(のちの長政)」だ。加えて、既にこの時点で、忍城の「水攻め」は決まっていたというのである。
ただ、忍城攻めを引き継いだ三成が、現地を確認して導き出した方法は、「NO水攻め」。やはり、地形的にも厳しいと感じたのだろうか。このどうにもならない状況に、苛立ちを隠せずに書いたのが、先ほどの書状なのだ。一部を抜粋しよう。
「然処諸勢水攻之用意候て、押寄儀も無之」
(同上より一部抜粋)
「城攻めの諸将は、水攻めと決めており、城方の方へ攻め寄る気もない」。三成の悲痛な叫びが聞こえてきそうである。書状では、こんな状況に辟易している様子がうかがえる。さらには、こんな言葉も。
「遅々たるへく候哉」
(同上より一部抜粋)
「こんなやり方では遅い」と、焦る一言も。
そのため「水攻めではなく、城方にまずは攻め寄せるべき」だと、先ほどご紹介した主張へと繋がるのである。書状の最後には「ご指示お待ちしております」との言葉が。言い換えれば、安易に、現場で城攻めの方法を変えることもできなかったとも取れるのである。
それでは、一体、忍城の水攻めにこだわったのは誰だったのか?
もちろん、「水攻め」といえば…。
忘れてはならないのが、コチラの方。三成の主君である「秀吉公」である。
秀吉の「水攻め」といえば、城主の清水宗治が切腹した「備中高松城(岡山県岡山市)」を挙げる人が多いだろう。
天正10(1582)年6月。織田信長から中国地方を任されていた秀吉が、備中高松城を「水攻め」にして、中国大返しをやってのけた。これは、あまりにも有名な成功例だ。そういう意味では、秀吉は誰よりも水攻めで城を落とすことに自信があったのかもしれない。
だからなのか。
一説には、忍城を水攻めにすることを徹底し、力攻めをした者に対して叱責するほどだったとか。なんだか、ここまでエスカレートすると、逆に不思議である。そこまで、秀吉が水攻めにこだわる理由は何だったのか。単に、水攻めを成功させた経験があったからとは、考えにくい。
そもそも論として。
今回の忍城は、備中高松城と比較して水没させる範囲も桁違い。立地的に見ても、水攻めは向かないといえる城なのだ。それでも、水攻めを徹底したことには、疑問が残る。
いや、視野を広げれば。
あの豊臣秀吉のこと。もっと別の考えがあったようにも考えられる。
秀吉にとっての「小田原攻め」。
その位置づけがカギになる。
確かに、「小田原攻め」は、北条父子を討つための戦いだ。一向に上洛に応じなかった北条氏を臣従させる。ただ、それだけではないだろう。実際に、伊達政宗のように、未だ秀吉に対して明確な臣従を見せていなかった武将もいる。加えて、臣従していた者の中にも、徳川家康のように力のある者たちもいる。
いうなれば、小田原攻めは、北条父子以外の集まった諸将らにも、秀吉の圧倒的な兵力を見せつけるためのパフォーマンスだったというコト。城攻めの方法の中でも、特に「水攻め」は、堤を造る土木工事が必要となる。カネ、ヒトがなければ、成り立たない方法だろう。
だからこそ、秀吉は「水攻め」にこだわったのかもしれない。
「城を落とす」コトが目的ではなく、苦労せずとも、余裕で「水攻め」ができる。そんな兵力を見せつける目的だったとすれば、秀吉が指示した内容も全く不思議ではない。
つまり、石田三成は。
単に、秀吉のパフォーマンスに巻き込まれただけ。そんな見方もできるのではないだろうか。
最後に。
石田三成は、生前、こんな言葉を残している。
「三成、常に曰く、奉公人は、主人より賜はる物を遣ひ、合はせて残すべからず、残すは盗人なり、又遣ひ過ぐして借銭するは愚人なりと」
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
ちなみに、勘違いしそうだが。
ここでいう「奉公人」とは、領国を任されたもの。つまり、三成のような領主を指す。もちろん、「主人」は主君である秀吉のコト。
さて、意味を確認したところで、再度、三成の言葉を吟味すると。
秀吉から与えられた地で得るものは、そのまま使い切って残さない。逆に余って財を成せば、それは領民から不必要に徴収しているはず。つまりは、「盗人」だというのである。
そんな言葉を常々口にしていたからだろうか。一説には、関ヶ原の戦いで、三成の佐和山城に足を踏み入れた東軍の武将らは、財宝を持って帰ろうにもめぼしいモノがなくて驚いたとも。
志を高く持ち、善政を貫いた石田三成。
1つ1つ。ほんの少しでもいい。
時代と共に、膨らんでしまった言われなき功罪。
いつしか三成の評価が、さらに変わることを期待したい。
<参考文献>
『その漢、石田三成の真実』 大谷荘太郎編 朝日新聞出版 2019年6月
『秀吉の虚像と実像』 堀新ら著 笠間書院 2016年7月
『名将言行録』 岡谷繁実著 岩波書店 1944年