今年は丑年。神社や年賀状、LINEスタンプなど様々なところで牛の絵柄を目にする。ところで、現代における牛といえば、家畜として牧場などで飼育されている姿を思い浮かべる方が多いだろう。牧場に行けば牛に会うことはできるが、酪農家でなければ普段牛を見たり触ったりする機会は少ない。
一方で、江戸時代に遡れば、人間と牛との関わりはもっと多様で、日常の中での触れ合いも多かった。その1つの例として、物資の運搬に牛が使われていたことが挙げられる。
江戸時代には、電車も車も飛行機も存在しなかった。それゆえ、人が担げないものを運ぶためには、牛や馬など体力のある動物に頼ることも必要だったのだ。中でも、江戸時代に塩の輸送手段として最も頻繁に用いられたのが牛だった。
なぜ塩の商人は、輸送手段として牛を選んだのだろうか。詳しく調べてみると、牛が物を運ぶという点で非常に優れた動物であることが分かってきた。民俗学者・宮本常一の著書『塩の道』の内容を中心に、その真相に迫る。
必要不可欠な塩の輸送
現代において、塩は脇役と見做されがちだ。しかし、人には塩が必要不可欠である。今でこそ生産技術が発達して誰でも簡単に塩を手に入れられるが、明治時代以前の日本ではそういうわけにもいかなかった。
日本の製塩は、古代よりほとんどが海岸部で行われてきた。海水を煮詰めて塩を抽出するのが一般的だったのだ。中国大陸では内陸部でも井戸を整備して塩を生産していたようで、日本でも福島県の会津若松周辺で温泉を煮詰めて塩を作ったという記録がある。しかし、日本において、このように内陸部で塩を生産した例は稀だ。室町時代以前、内陸部の人々は山の木を切り薪にして川を下り、海で塩を焼いて持ち帰るなどしていたが、多大な労力が必要な割に個人で作れる塩の量は少なかった。
江戸時代になると生産量が増えて、海岸部で作った塩を内陸部まで持って行き売り歩く商人も増えたので、塩が手に入りやすくなった。その時に大活躍したのが、牛という輸送手段だった。
塩の輸送手段として使われた牛
江戸時代に牛は様々な場面で重宝された。農耕で使うのはもちろん、牛に荷を担がせる事もあった。需要が大きかったので、牛馬市も発達して日本各地で牛の売買取引が行われていた。今の長野県や東北地方をはじめ、とりわけ山深いエリアでは、牛が塩を運んだとされる道が多くある。なぜ塩の輸送のために牛が重宝されたのかについて詳しく見ていこう。
脚が強くて、長距離を歩ける
江戸時代の人々は、長距離の移動に牛を使っていた。牛は脚の力が強く、細くて整備が不十分なガタガタな道でも歩くことができた。そして、重い荷物を山の奥まで運ぶことができたのだ。今の岩手県の三陸エリアでは昔、木の育ちが良かったので塩の生産も盛んだった。それで、塩を牛の背に乗せて大量に運んだ。1人の商人が5~7頭の牛を引き連れ、1頭の牛に2俵ずつ乗せて北上川流域まで山間部を通った。長くて険しい道のりでも物資を運んでくれるのが牛だったのだ。
宿代がかからない
また、牛は道端でゴロンと寝かせるのが普通だった。馬の場合は各地に整備されている馬宿に泊めたが、牛の場合は宿に泊めることが少なかった。今の日本では車も自転車も通るので、5~7頭の牛が道端で寝転ぶなんて想像もできない話だが、昔はそれが当たり前。野獣が襲ってこないように火を焚き、人間は牛の腹に体を擦り付けて寝た。
牛を寝かせる場所は、石を投げてそれが落ちた範囲を山の神様にお願いして貸してもらったという伝承もある。雨の日は宿をとることもあったそうだが、基本的にはお金を払い宿を借りる必要はなかった。
エサ代がかからない
そして、牛は道端の草を食べてくれるので、エサ代がかからなかった。牛の食べ物といえば、道端に生えている茅のような今では雑草とされている草だった。冬は枯れているものの、春から秋までは道端に生い茂っている草があれば十分だったのだ。これはある意味、道の維持管理にも繋がっていたと考えることもできる。
現代の乗り物と牛との違い
これらのエピソードを現代に置き換えてみると、牛はものすごいハイスペックな荷物の輸送手段だ。ガソリン代も駐車代もかからず、難所を通過してくれる。「牛歩」という言葉があるように、速度は現代人の感覚から言えば遅いものの、江戸時代の人々にとっては普通の速さだ。このように輸送という点で考えれば、牛は非常に優秀だった。
しかし、塩を売る商人は、決して牛を単なる輸送手段と見做していたわけではない。そこには牛と人間という動物同士の思い通りにいかないすれ違いや温かい交流があったはずだ。牛にも人間同様に食欲や性欲や睡眠欲などがあり、それは車のメーターのように測れるものでもない。それを踏まえると、牛に塩を運ばせることを不便ととるか、動物虐待と考えるか、むしろ人間と動物の温かいコミュニケーションだと捉えるかは人それぞれだ。
ところで江戸時代、牛の売買に関する取引規制は緩かった。塩の商人は商品を運んだ先で牛も売って、帰り道はお金だけ持ち帰るというかなり身軽な取引を行っていた。人間は牛に対して各地の草を食べさせ栄養をつけてもらう代わりに、塩を運んでもらい最後に売りに出すという、ある種の温かいギブアンドテイクが存在していた。これは現代人が単にレンタカーを乗り捨てるのとは似て非なるもので、そこには自然や動物との対話があった。このようなある種の豊かさが暮らしの中に存在していたと考える事もできるのだ。
参考文献
宮本常一, 『塩の道』, 講談社学術文庫, 1985年
イザベラバード, 『日本奥地紀行』, 平凡社ライブラリー, 2000年