もしあなたが突然、婚約者のいる年下男性に、婚約者の代わりに嫁ぐことになったらどうしますか?
「いやいや、そんなことあり得ないから」と思うかもしれませんが、江戸時代ではあり得ました。大河ドラマ『青天を衝け』で、川栄李奈さん演じる一条美賀君(いちじょうみかぎみ、美賀子)がまさにそのケース。美賀君は草彅剛さん演じる一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に嫁ぎますが、それは病になった婚約者の代役だったのです。しかも嫁いでみると、年下の夫はあろうことか……。いや先を急がず、まずは順を追って紹介しましょう。
江戸城
美賀君の運命を変えた病
天然痘(てんねんとう)という病気をご存じでしょうか。現在では撲滅されていますが、天然痘ウイルスによる感染症で、致死率が非常に高く、日本では疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)などと呼ばれて古来、恐れられてきました。高熱、及び全身に膿疱(のうほう)ができ、治癒してもその痕(あと)が残ってしまいます。痘痕(あばた)と呼ばれるものです。あばたはもちろん、顔にも残りました。一条美賀君の運命を変えたのは、この天然痘だったのです。
一橋慶喜と、公家の一条忠香(ただか)の養女・千代君(ちよぎみ)が婚約したのが、嘉永元年(1848)のこと。慶喜は12歳、千代君はまだ6歳でした。それから5年の年月が経ち、そろそろ輿入(こしい)れという時期に、千代君は疱瘡にかかってしまいます。治りはしたものの顔にあばたが残ってしまったため、養父の忠香は千代君を一橋家に嫁がせることを断念。代わりに急きょ、慶喜に嫁ぐことになったのが、今出川公久(いまでがわきんひさ)の娘で、一条忠香の養女となった美賀君でした(なお正確には、当時の名は省子〈しょうこ〉ですが、本記事では美賀君で通します)。
本来嫁ぐはずだった千代君は、この養父と一橋家の仕打ちに悔しがり、恨みをはらすと自害した、あるいはすぐに病死した、という俗説もありますが、実際はのちに越前(現、福井県)の寺に嫁ぎました。一方、千代君の代役として一橋家に嫁ぐ美賀君は、慶喜よりも2歳年上です。実際に婚儀が行われたのは、それから2年後の安政2年(1855)、慶喜19歳、美賀君21歳のことでした。美賀君にすれば、住み慣れた京都の公家社会から、まったく異なる関東の武家へ代役として嫁ぎ、しかも夫よりも年上と、不安を抱えながらの輿入れだったでしょう。しかし、一橋家で待っていたのは、美賀君の想像を超える異様な事態でした。その話をする前に、まず一橋家とはどんな家なのか、紹介しておきましょう。
疱瘡除けの鍾馗(しょうき)。京都の町家の軒先でよく見られる
御三卿の一橋家とは
東京都千代田区に、一ツ橋という地名があります。現在、共立女子大学や小学館などがある一帯で、かつての江戸城の北にあたりました。江戸城の外堀の一部だった日本橋川に架かる橋に一ツ橋があり、地名はこの橋に由来します。そして橋の南には一ツ橋御門が江戸城の防備を固め、その門内に屋敷を構えていたのが一橋家、正しくは一橋徳川家でした。屋敷は広大で、現在の丸紅本社ビルから移転前の気象庁、大手町合同庁舎付近にまで及んでいたといいます。
現在の一ツ橋(左)と一ツ橋御門跡(右)
さて、その一橋家は「御三卿(ごさんきょう)」の一つでした。御三卿といっても聞き慣れないかもしれませんので、簡単に説明します。
江戸幕府を開いた徳川家康は、将軍となる徳川宗家の血筋が途絶えてしまう事態に備えて、「御三家」を創設したといわれます。すなわち尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家でした。そして宗家に跡継ぎがいない場合は、尾張か紀伊が養子を出して継ぐことにしたのです。やがて、実際に宗家の血筋が途絶えてしまう事態が、幼少の7代将軍家継(いえつぐ)の急死で起こりました。この時は紀伊徳川家の当主が宗家を継いで、8代将軍吉宗(よしむね)となります。ドラマの『暴れん坊将軍』でもおなじみの人物です。
しかし吉宗が徳川宗家を継ぐまでには、ライバルである尾張徳川家とのさまざまな暗闘もありました。それだけに吉宗は、宗家を継いだ自分の血筋が今後再び絶えるようなことがあっては、幕府の安泰は保てないと考えます。また御三家も、創設より100年以上の時間が経ち、血筋的に宗家と疎遠になりつつありました。
そこで吉宗は息子たちに田安(たやす)家、一橋家を新たに創らせます。また吉宗の長男で9代将軍の家重(いえしげ)も、息子に新たに清水(しみず)家を立てさせました。そして今後、徳川宗家の血筋が途絶える事態になった際は、田安、一橋、清水のいずれかの家から後継者を出すことにしたのです。これが御三卿でした。
一橋屋敷跡(千代田区)
御三卿は独立した大名ではなかった
従来の御三家と、新たに創設された御三卿の違いは、御三家がいずれも大藩であるのに対し(尾張藩62万石、紀州藩56万石、水戸藩35万石)、御三卿は藩ではありません。徳川将軍の家族という扱いで、石高はいずれも10万石です。家臣を見ても、御三家には藩祖以来、代々仕える重臣たちがいるのに対し、御三卿には代々の家臣はいません。幕臣が役職の一つとしていわば出向(しゅっこう)していたり(正式に家臣になったわけではないので、幕府内の別の役職に異動することもあります)、新たに雇い入れたりしていました。御三卿に大きな石高を与えなかった理由は、幕府の財政状況が厳しく、新規にあてがうことのできる土地もなかったためといわれます。
面白いのは、御三卿は独立した大名ではないため、当主が不在でも許されました。普通の大名は、たとえば当主が急死して跡継ぎがいない場合、お家お取りつぶしとなります。しかし御三卿は、跡継ぎの養子を迎えるまで、長い時には20年以上当主不在でも問題にならず、この状態を「明御屋形(あけおやかた)」と呼んでいました。
そんな御三卿の一つの一橋家ですが、10代将軍家治(いえはる)に世継ぎがいなかったため、一橋家から家斉(いえなり)が養子として入り、やがて11代将軍となります。徳川宗家の断絶を防ぐための御三卿が、きちんと機能したといえるでしょう。家斉は徳川将軍きっての子だくさん(実に53人!)でしたが、長男が早世したため、跡を継いだのは次男の家慶(いえよし)でした。12代将軍となった家慶は、一橋慶喜と深く関わることになります。
葵の紋
12代将軍家慶が一橋慶喜を誕生させた
「前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男、七郎麿(しちろうまろ、七郎麻呂とも。のちの慶喜)に、一橋家を継がせたい」
幕府からそんな打診が御三家の水戸藩にあったのは、弘化4年(1847)のことでした。当時、徳川将軍家も一橋家も、8代将軍吉宗以来の紀伊徳川家の血筋で占められており、そこへ御三家とはいえ、少々縁遠い水戸徳川家に声がかかるのは、異例のことだったようです。その背景には、将軍家慶の意向がありました。幼少ながら七郎麿が聡明であるという評判を聞いた家慶が、当主の座が空いていた一橋家の跡継ぎにと望んだのです。
幕府からの打診に父である斉昭は驚き、困惑しました。というのも七郎麿の器量を買っていた斉昭は、水戸藩主(当時は息子の慶篤〈よしあつ〉)の身に何かあった時に備えて、手元に置いておきたいと考えていたからです。しかし将軍の意向を退けるわけにはいかず、11歳の七郎麿は一橋家に入るため、同年8月、水戸から江戸へと旅立ちました。
10月1日、七郎麿は初めて将軍家慶と対面します。
七郎麿の生母は斉昭の正室で、京都の宮家出身の吉子女王(よしこじょおう)です。その父親は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)で、吉子女王は将軍家慶の正室の妹にあたりました。つまり家慶にとって七郎麿は、甥っ子です。
初対面の際、家慶は七郎麿に、水戸から江戸までの道中、耕作の様子はどうであったかや、これまでにどんな書物を読んだかなどを訊き、七郎麿は率直に返事をしました。家慶は七郎麿をすっかり気に入り、以後、大変可愛がります。一橋家を相続した七郎麿は12月に元服し、家慶から慶の字を授かって慶喜と名乗りました。一橋慶喜の誕生です。なお、大河ドラマ『青天を衝け』では、慶喜の父・斉昭を竹中直人さん、母・吉子女王を原日出子さん、将軍家慶を吉幾三さんが演じています。
徳川斉昭と七郎麿の像(水戸市)
慶喜の初恋の相手は……
11歳で一橋家に入り、当主となった慶喜でしたが、一橋家には一人の女性が暮らしていました。先々代の当主・慶壽(よしひさ)の正室だった、直子(つねこ)女王です。夫の死後、落飾(らくしょく)して徳信院(とくしんいん)と称していました。系図上では、慶喜の義理の祖母にあたります。しかし夫の慶壽は25歳の若さで疱瘡のため他界し、迎えた養子もわずか2歳で亡くなっていたため、義理の祖母とはいうものの、徳信院はまだ18歳でした。
建前では祖母と孫でも、18歳の徳信院と11歳の慶喜は、姉弟ほどの年齢の開きしかありません。慶喜にすれば、親しく接することのできる相手であったでしょう。しかも徳信院は京都の宮家の出身でした(父親は伏見宮貞敬親王〈ふしみのみやさだよししんのう〉)。慶喜は実母・吉子女王が宮家出身であることに幼少から強い誇りを抱いていたといいますから、徳信院に一層親近感を覚えたことが想像できます。
一方の徳信院にとっても、慶喜はかわいい弟のような存在であったでしょう。未亡人である徳信院の普段の生活といえば、年に一度の墓参り以外は自由な外出も許されず、屋敷の中で看経(かんきん)に明け暮れるばかり。そんなところに弟のような慶喜が現れたわけですから、慶喜に教えるかたちで一緒に茶道や謡(うたい)の稽古をしたり、時には奥女中らもまじえて、百人一首などで遊んだことでしょう。慶喜は徳信院の京なまりに母親に通じるなつかしさを感じ、また優雅な立ち居振る舞いに魅了されたはずです。おそらく慶喜の初恋の相手は、徳信院であったのではないか……そう、いわれています。大河ドラマ『青天を衝け』では、徳信院を美村里江さんが演じています。
ああ悔しい、許せない
慶喜が一橋家に入った翌年、前述したように慶喜は12歳で一条千代君と婚約します。しかし、顔を見たこともない婚約者には何の実感も湧かず、目の前にいる徳信院との楽しい時間を過ごしていたのかもしれません。14歳になると慶喜は屋敷の表住まいとなり、徳信院のいる奥から離れました。もう一人前の男性ということで当主として扱われたわけですが、徳信院との親密な日々が懸念されたともいわれます。が、その後も慶喜はかまわず徳信院の部屋に出入りしていたようで、病のため千代君との婚約が破談となり、代わりに美賀君が嫁ぐことになっても、さほど関心を示した様子はうかがえません。そんな19歳の慶喜のもとに安政2年、21歳の美賀君は輿入れするのです。
(うちが千代君の代役で、年上やからといって、殿のなさりようはあんまりではないか)
美賀君がそんな思いにたびたびかられるようになったのは、一橋家に入ってまだ日の浅い頃でした。慶喜は新妻の美賀君に対してほとんど感情を面に出さず、まともに相手にしてくれません。そのくせ、徳信院の部屋には足しげく通い、楽しげに話し込んでいるようなのです。
(なんなん、あの女は。殿の「おばあさま」やないか。しかも仏門に入った身であるのに、まるで殿を独り占めにしてはる。ああ、悔しい、許せない。それに、あの女のもとへ、いそいそと通う殿も殿じゃ)
年下の夫が自分を差し置いて、年上の女性と親密であることは、美賀君のプライドをひどく傷つけました。美賀君は慶喜に何度か、徳信院のもとに通うことへの愚痴を伝えたようですが、慶喜はまったくとりあいません。もともと慶喜は性格的に、女性の機嫌を取るようなタイプではなかったようですが、美賀君はそうは受け取りませんでした。やがて、疑念が頭をもたげてきます。
(こら只事とちがう。考えとうもないが、殿はあの女と、実は深い仲なのではないか。そうやとしたら、いろいろと合点もゆく。いや、そうにちがいない。ああ口惜しい、あの二人が憎い……)
美賀君の想像がふくらみ、怒りが増幅されていたある日のこと。美賀君のいる前で、徳信院が楽しげに慶喜に謡を教えたことがありました。二人の仲を見せつけられた美賀君は、たまらず「その坐(ざ)にて直ちに御声を発し、刑部(ぎょうぶ)卿様(慶喜)をおこづき(小突き)、御立腹あらせられし」と記録されています。人前で当主である夫を正室が声を上げて小突くなど、常識的にはあり得えないことでしょうが、そんなに取り乱すほど美賀君は逆上し、また精神的に追い詰められていたのでしょう。
そして、騒動が持ち上がります。
自殺未遂と密通の噂
美賀君が一橋家に嫁いでからおよそ半年後の、安政3年(1856)6月。表の政治の舞台では12代将軍家慶が黒船来航の直後に他界し、跡を継いだ13代将軍家定(いえさだ)は病弱で政務がとれず、子どももいないため、「将軍継嗣を一橋慶喜に」という声がささやかれ始めた頃、一橋家中で騒動が起こりました。美賀君の自殺未遂です。
一橋慶喜を次期将軍に推す薩摩(さつま)藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)は、同志である越前藩主・松平慶永(まつだいらよしなが、春嶽〈しゅんがく〉)に、次のような内容の手紙を送っています。
「6月16日に慶喜の簾中(れんちゅう、奥方のこと)美賀子が自害なされようとしたところ、なんとか取り留めることができたということです」
慶喜の正室・美賀君が自殺を図ったことは、衝撃とともに周囲に伝えられました。松平慶永の生母である青松院(せいしょういん)は、美賀君について「御嫉妬ふかき御気性」としたうえで、「(慶喜と徳信院の)御密通などということはあったのでしょうか……。よもやそんなことはないとは思いますが、しかし(徳信院と美賀君の)御年もあまり違いませんから……」と、慶喜と徳信院の密通の可能性を記しています。つまり慶喜と徳信院の関係を疑うのは、決して美賀君一人の思い込みではなかったのです。
ちなみに松平慶永は、徳信院の亡き夫・一橋慶壽の弟ですから、徳信院は兄嫁にあたりました。兄嫁と、自分が次期将軍にと推す一橋慶喜とのスキャンダラスな噂を、彼はどう受け止めていたのでしょうか。なお松平慶永は、同じく次期将軍に一橋慶喜を推す伊予(現、愛媛県)宇和島藩主の伊達宗城(だてむねなり)にもこの一件を伝え、宗城から次のような返書を受け取っています。
「慶喜公の奥方が、先頃自刃なされようとしたことについて、あなた(慶永)は兄嫁(徳信院)と慶喜公との関係より起こったとお考えのようですね。兄嫁のご容姿は、慶喜公の奥方とは天地ほどの差がありますから、あなたも亡き兄上様のため、何かとご心痛でありましょう」
つまり伊達宗城は、「美賀君よりも徳信院の方がはるかに美しいので、こうした間違いも起きるのでしょう」と、慶喜と徳信院の密通をなかば確信するとともに、美賀君にすれば大変失礼な内容を伝えてきたのでした。
美賀君の自殺未遂は、「狂言」ではなかったか、という見方も存在します。美賀君には最初から死ぬ気などはなく、騒ぎを起こすことで夫に一矢報いようとした、というものです。いずれにせよ、当時の慶喜と徳信院の親密な関係が、美賀君を苦しめていたことは間違いありません。
懐剣
慶喜の謹慎
しかしこの騒ぎは安政5年(1858)、思わぬかたちで終息することになります。慶喜が謹慎を命じられたため、屋敷の表の一室に閉じこもり、美賀君や徳信院と会うことができなくなったからでした。謹慎の理由は……。
同年、幕府大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)は、朝廷の許しを得ぬまま日米修好通商条約調印に踏み切るとともに、もめていた13代将軍家定の後継者を、有力候補の一橋慶喜ではなく、その対抗馬とされた紀州藩の徳川家茂(いえもち)に決定します。
慶喜は6月に江戸城に登城し、条約調印の際、朝廷を軽んじたことについて井伊を詰問(きつもん)しました。が、巧みにはぐらかされたあげく、翌月に登城停止、さらに隠居・謹慎の処分を受けてしまいます。井伊にすれば、慶喜を処罰することで、将軍の後継者問題にけりをつけたのでしょう。ちなみに慶喜を次期将軍に推していた松平慶永や伊達宗城らも、隠居・謹慎を命じられました。
実はこの年の7月、慶喜が登城停止を命じられた直後に、美賀君は女児を出産しています。慶喜の子どもが生まれたことで、夫婦仲が修復に向かうことが期待されましたが、誕生からわずか20日で女児はこの世を去ってしまいました。美賀君にすれば、不運というしかありません。
慶喜の謹慎生活はそれからおよそ2年も続き、ようやく解かれたのは井伊大老が桜田門外で討たれてから半年後の、万延元年(1860)9月のことでした。しかし依然、親族その他との面会や文通は許されず、当然、屋敷にいながら美賀君も会うことはできなかったでしょう。それが解除されたのは、さらに2年後の文久2年(1862)4月のこと。しかし、美賀君が慶喜と顔を合わせることができたのもつかの間でした。慶喜は同年末、将軍家茂に先発して、動乱の京都に向かってしまうのです。
大奥に入らなかった将軍御台所
以後、慶応4年(1868)までの6年間、慶喜は大半の期間を京都で過ごしました。つまり慶喜が井伊大老によって登城禁止の処分を受けた安政5年から、美賀君が慶喜とゆっくり過ごす機会はほとんどなかったといってよいでしょう。
一橋屋敷の留守をあずかる美賀君がどんな心境でいたのかは、伝わっていません。ふさぎ込みがちであった、ともいいます。ただ想像するに、同じ屋敷に起居する徳信院との仲は、修復されていったのかもしれません。もともと美賀君が慶喜との仲を疑ったのであって、徳信院は美賀君に、特に悪い感情は抱いていなかったようです。激しい時代の流れを、慶喜のいない屋敷内から見守ることしかできない美賀君と徳信院。冷静になった美賀君が、自分と徳信院がよく似た境遇であると気づいた時、共感に近いものを覚えても不思議ではないでしょう。
慶応2年(1866)7月、14代将軍家茂が大坂城において病没。幕府による長州征伐を指揮している最中のことでした。これを受けて幕府の老中(ろうじゅう)らは、当時、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)という役職につき、京都において存在感を示していた一橋慶喜こそ次期将軍にふさわしいと推します。慶喜は同年12月に京都で、15代将軍に就任。つまり美賀君は、将軍家の御台所(みだいどころ)となったのです。
将軍家御台所といえば、本来であれば江戸城大奥に入り、大奥の中心的存在となるはずです。当時の大奥は13代将軍家定の未亡人・天璋院(てんしょういん、篤君〈あつぎみ〉)が取り仕切り、14代将軍家茂の未亡人・静寛院宮(せいかんいんのみや、和宮〈かずのみや〉)もいました。しかし慶喜は江戸城を留守にしたままで、肝心の将軍が不在では美賀君も大奥には入れません。
そして翌慶応3年(1867)10月、慶喜は京都で、政権を朝廷に返す大政奉還(たいせいほうかん)を行います。これによって江戸幕府は消滅し、慶喜も将軍ではなくなりました。つまり慶喜は将軍として一度も江戸城に入らず、また美賀君は一度も大奥に入らなかった御台所となったのです。
『千代田の大奥 お召かへ』(国立国会図書館デジタルコレクション)
ようやく実現した慶喜との生活
慶応4年(1868)1月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた慶喜は、「朝敵」とされて江戸に戻ってきました。慶喜が討伐対象となり、新政府軍が江戸へ下ってくる混乱の中、美賀君が慶喜と会えたかは定かではありません。たとえ会うことができたとしても、わずかな時間ではなかったでしょうか。
2月に慶喜は江戸城を出て、上野の寛永寺(かんえいじ)に入り、謹慎生活を始めます。そして江戸城が無血開城となった4月14日、慶喜は水戸に向かい、少年時代を過ごした水戸で謹慎。さらに7月には、徳川宗家の移転先となった静岡に移り、徳川家ゆかりの宝台院(ほうだいいん)で謹慎を続けました。この間、美賀君は江戸城内の一橋屋敷から出て、徳信院や慶喜の母・貞芳院(ていほういん、吉子女王)らとともに、江戸小石川の水戸藩邸などで過ごしていたようです。
明治2年(1869)9月末、慶喜の謹慎はようやく解除され、宝台院から静岡の元代官屋敷へと移りました。そしてこの時、貞芳院や徳信院のとりなしもあって、美賀君は静岡に赴き、慶喜とともに暮らすことになります。美賀君がゆっくりと慶喜の側近くで暮らすのは、実に11年ぶりのことでした。美賀君は35歳。江戸時代の大奥などでは、30歳を過ぎると原則的に「御褥御免(おしとねごめん)」、つまり夜の相手の対象外となります。体があまり強くないこともあって、美賀君がその後、子どもを授かることはありませんでした。
一方の慶喜は、二人の旗本の娘を側室にして、次から次へと子どもを作ります。その数、10男11女。しかし慶喜は、あくまで正室は美賀君であり、生まれた子どもたちの母は美賀君であるとしました。こうした序列を慶喜が守り、正室を立てたことで、美賀君が苦しむことはなかったようです。
その後、慶喜の母・貞芳院や、徳信院が静岡に遊びにくることがありましたが、その都度、慶喜夫婦は心のこもった接待をしました。徳信院が来た際には、慶喜夫婦は子どもらも連れて、久能山や浅間(せんげん)神社に案内し、楽しんだといいます。かつて徳信院の存在を憎んだことも、美賀君の中ではすでに若い頃の思い出に変わっていたのかもしれません。この静岡での日々が、美賀君の生涯において平穏で、最も幸せを感じられるものだったのではないでしょうか。
徳川美賀子胸像(明治7年4月撮影、茨城県立歴史館蔵)
明治27年(1894)、乳がんを発症した美賀君は東京に赴き、手術を受けますが、ほどなく千駄ヶ谷の徳川家達(いえさと)邸で亡くなります。享年60。静岡で見送る慶喜に送った和歌が、辞世の句となりました。
「かくはかり うたて別をするか路に つきぬ名残は ふちのしらゆき」
美賀君はいま、谷中(やなか)墓地で、慶喜と並んで静かな眠りについています。
幕末動乱の時代に、台風の目ともいえる存在だった一橋慶喜。その慶喜に嫁いだ正室・美賀君の生涯はいかがだったでしょうか。大河ドラマ『青天を衝け』で、川栄李奈さんがどう美賀君を演じるのか、注目したいですね。
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参考文献:家近良樹『人物叢書 徳川慶喜』(吉川弘文館)、比屋根かをる「徳川慶喜をめぐる女性たち」(小西四郎編『徳川慶喜のすべて』〈新人物往来社〉所収)、桐野作人『孤高の将軍 徳川慶喜』(集英社)、黒田涼『江戸の大名屋敷を歩く』(祥伝社新書) 他