玉の輿(たまのこし)とは、女性が結婚によって裕福になることを意味します。
毎年1月20日は「玉の輿の日」とされていますが、その理由とは? そもそも「玉の輿」の語源や意味とは? クイズ形式でご紹介します!
クイズ!「玉の輿」の語源となった女性は誰?
この言葉は、日本で古くから使われてきましたが、実はその由来となった女性がいるのはご存知でしょうか?
さて、さっそくですが問題です! その女性とは誰でしょうか? 3人の中からお選び下さい!
1. 細川ガラシャ
2. 桂昌院(けいしょういん)
3. 豊臣秀吉の妻・寧々(ねね)
答えは……。
2番の桂昌院でした! 桂昌院というと、徳川三代将軍家光の側室で、五代将軍綱吉の母として有名ですね。どうして、この言葉の元となったのでしょうか? 謎が深まります。
桂昌院は、京都の八百屋の娘だった!
桂昌院は、京都・西陣で八百屋を営む仁右衛門(にえもん)の次女として生まれたと伝えられています。織屋の娘だったとか、畳屋の娘だったという説もあり、はっきりとはしません。しかし、庶民出身であったことは確かなようです。
桂昌院が幼いころに実父は亡くなってしまいます。美人で評判だった母は、桂昌院とその姉を連れて、公卿侍の本庄宗利(ほんじょうむねとし)の家に奉公に上がります。その後、母が宗利の後妻となったため、桂昌院は養女になります。父の死という不幸な出来事がきっかけでしたが、身分がレベルアップした訳ですね。
サクセスストーリーの始まりは、江戸行きから!
美人で利発だったという桂昌院の運命は、また大きく動きます。公卿の六条家の娘であった伊勢慶光院の住持(じゅうじ)は、環俗して大奥入りが決まり、お万の方と称します。
この時に、お万の方の縁故で、桂昌院が側仕えの女性に抜擢されたのです。当時、京都から江戸へと出向くのは、かなりの大事でした。この勇気ある選択が、後の桂昌院の人生を切り開いたのでしょう。
家光の側室となり、ついには、将軍の母に!
桂昌院は大奥に入り、部屋子としてお万の方に仕えていました。そこで、大奥を取り仕切っていた春日局の目に留まるのです。家光の乳母の春日局は、家光が若い頃に女性に興味を示さないのを心配していました。そのために、大奥を整備したと言われています。春日局は跡継ぎを生んでもらえるならと、家柄は重要視していませんでした。美貌と才覚のある若い女性を見つけては、スカウトし続けていました。
桂昌院は家光の側室となり、やがて後の将軍となる綱吉を出産するのです。「玉の輿」の語源はこのエピソードからきています。桂昌院は玉と呼ばれていました。玉が輿に乗って江戸へ嫁いだことから、低い身分から裕福な男性に見初められる出来事を、「玉の輿」と呼ぶようになったのです。桂昌院は最初は、お万の方に仕えるために江戸へ行ったので、実際に輿に乗ったのかどうかは定かではありません。
桂昌院は、流れに逆らわない順応性と、美貌と頭の良さを兼ね備えた女性だったのでしょうね。桂昌院は故郷である西陣の興隆に努め、生地の社である今宮神社の再興にも力を尽くしました。今宮神社には桂昌院のレリーフが飾られていて、玉の輿を願う女性が大勢お参りに訪れています。
玉の輿の日の由来は、モルガンお雪?
1月20日が「玉の輿の日」と言われるようになったのは、モルガンお雪という日本人女性と、アメリカの大富豪J.P.モルガンの甥が結婚した日に由来するのだとか。「日本のシンデレラ」とも呼ばれた女性について、詳しくはこちらの記事でご紹介しています。
アメリカの大富豪が惚れた「モルガンお雪」とは?玉の輿にのった波乱の人生
アイキャッチ:メトロポリタン美術館
参考文献:日本大百科全集 小学館