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Culture
2021.07.20

七五調のルーツは弥生時代の稲作!?中国由来だけど日本固有の文化へ発展した「和歌」の変貌

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『万葉集』『古今和歌集』の和歌に関して言えば、『万葉集』の和歌は庶民の心を歌ったもので、『古今和歌集』の和歌は平安貴族のためのものというイメージが一般に定着している。

ぼんやり、そんなイメージあるな〜

これは詩集としての『万葉集』『古今和歌集』という限られた視点により得られた見解であって、“木簡”という新たなアプローチによって和歌に関する意外な新事実が浮上。

木簡って、墨書きされた、短冊型の細長い木の札みたいなのだよね。どういうこと?

近年、『万葉集』の研究がすすむにつれ仏典や漢詩の表現から歌句への影響が解明されつつある。(中略)『万葉集』の和歌たちは当時の先進的な思想、文学的教養にもとづいたものであり、「古代の素朴な民衆の歌を集めた」というかつての『万葉集』像は成り立たない。

(犬飼隆『木簡から探る和歌の起源「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代』)

まず、冒頭の内容に心当たりのある方は、その古びた知識を刷新しなければならない。

やばっ(´Д`;)ここからは、そもそも和歌ってなんなの?という話

意外と知らない和歌の歴史

詩集としての『万葉集』『古今和歌集』のみに着目すると、「和歌は『万葉集』の時代に生まれた嗜み」というようなことを考えがちだ。しかしながら、それ以前の時代にも和歌の歴史があったのだ。ここでカギを握るのが『古今和歌集』の仮名序に記された日本最古の和歌である「難波津の歌(なにわづのうた)」。ちなみに、「難波津の歌」が一体どういうものであるのかに関しては、和樂webのこちらの記事に詳しく書かれているので参照していただきたい。

万葉集も古今和歌集も!形を変えて残されてきた和歌

和歌は元々正真正銘の“歌”であった

和歌を文字通りに解釈すると、和(日本の)歌。でも、私たちがイメージする歌と言えば、楽器演奏を伴うもの。一方、多くの人々にとって和歌は俳句の前身というイメージで、楽器演奏は伴わない。

しかしながら、そのルーツを遡ると、元々は正真正銘の和“歌”であった。現代風に言うと、YUIなどのシンガーソングライターが自ら歌詞を生み出し、ギターを抱えながら演奏する形態に近いものであったのかもしれない。もちろん、当時はギターではなく琴であったわけだが。

「feel my soul」懐かしい〜!今はFLOWER FLOWERのボーカリスト兼ギタリスト、yuiとして活動していらっしゃいますね

さて、そんな和歌の起源は古墳時代に遡る。まず、役人が公式的な儀式の場において音楽に合わせて歌を詠み上げたのが始まりとされている。

『古今和歌集』に収められた「難波津の歌(なにわづのうた)」。一般に、その仮名序は紀貫之(きのつらゆき)が作成したものと考えられているが、「なにはづに咲くやこのはな冬ごもり今は春べと咲くやこのはな」の一文から始まる「難波津の歌」の作者は紀貫之ではない。

同仮名序にはこの「歌」の成立事情が次のように書かれている。仁徳天皇が難波津にあって皇太子だったとき、応神天皇の後の即位を弟の皇子と三年ゆずりあわれたので、王仁がこれを詠んでたてまつった。冬を越して花が咲くように今がその時ですと天皇の謙譲の徳を讃えながら即位を促したのである。

(犬飼隆『木簡から探る和歌の起源「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代』)

『古事記』『日本書紀』などにも記されているように、王仁(わに)とは漢の皇祖の血筋をひく学者であり、応神天皇(おうじんてんのう)の時代に百済(くだら)から派遣され、日本に『論語』や『千字文(せんじもん)』をもたらしたとされる人物である。そして、その子孫が朝廷において文筆専門の氏族となり、「難波津の歌」をはじめ、天皇を讃える「歌」を作っていた。簡単に言うと、それが日本における和歌の歴史の始まりである。

歌で即位を促したってなんか素敵!

ちなみに、渡来人が歌を作り披露するという風習は現代の宮内庁にも受け継がれているようにも思われる。

日本と韓国の人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。

(宮内庁ホームページに記載された天皇陛下(現. 上皇陛下)の記者会見でのお言葉より)

雅楽って笙とか曲のイメージが強いけど歌の要素もあるんだね

なぜ日本の和歌が当初「歌」として披露されたのかと言うと、そのルーツに古代中国が関係しているからだ。古代中国では、国の重要な儀式において音楽が披露され、そのなかで楽器を演奏したり、歌ったり、舞ったりすることもあった。

7世紀後半から8世紀前半にかけて、隋(唐)の制度を手本に政治制度を整えるべく、遣隋(唐)使を派遣したというのは歴史教科書でも知る事実だが、隋(唐)から伝わったもののひとつが和歌というわけである。

このように、和歌とは中国発祥の文化であり、当初は唐のスタイルがそのまま受け継がれた。今日の私たちにとっての寺と言えば、仏事を執り行う場というイメージが強いかもしれないが、唐の時代においてそれは仏教の寺院ではなく、役所およびその建物を指した。その役所はいくつか設けられたが、音楽に関わりのある業務に携わっていたのが太常寺(たいじょうじ)である。ちなみに、日本文化のひとつとして定着している雅楽もまた、ルーツを遡るとこの太常寺に辿り着く。

中国の最も上級の役所は、「尚書・中書・門下」の三つの「省」でした。三省が行政の方針を決め、その下で実際の庶務をしたのが九つ「寺」でした。「太常寺・光禄勲寺・衛尉寺・太僕寺・大理寺・鴻臚寺・宗正寺・司農寺・大府寺」です。(中略)大常寺の仕事をしていた役人は、長官が「卿」長官を補佐する「少卿二人、丞二人」、理論の担当者「博士四人、太祝六人」、その下に「奉礼郎二人、協律郎二人」でした。儀式の作法の責任者である「奉礼郎」と音楽の責任者である「協律郎」が二人ずつあるように、音楽は作法と並べて扱われる仕事だったわけです。

(犬飼隆『儀式でうたうやまと歌-木簡に書き琴を奏でる』)

想像以上に音楽が重視されていたんだな〜

そして、百済にも唐の太常寺に相当する役所があった。そして、音楽に携わっていた人たちが百済から日本へ定期的に派遣された。基本的に唐における儀式のやり方に則りつつ歌を披露していたわけだが、その歌の代表が「難波津の歌」だったというわけである。

正式な儀式の場で披露するものであるがゆえに、決して失敗は許されない。全国各地から出土した「難波津の歌」が記された木簡を解析した国語学者の犬飼隆(いぬかいたかし)氏によると、歌を書くための練習用として活用していたであろうものが木簡であった。

奈良から平安へ:和歌はこうして変貌を遂げた

始まりは官人が公的な典礼の場で詠み上げるものであった和歌。平安時代には貴族が私的な感情を託して贈る嗜みへと変貌を遂げる。その間にどのような変化があったのだろうか。犬飼氏は紫香楽宮(しがらきのみや)跡から出土した木簡の表裏に書かれた「安積山の歌(あさかやまのうた)」「難波津の歌」の2歌のうち、「安積山の歌」のみが『万葉集』に掲載され、もう一方が掲載されなかった理由を探るなかで、奈良時代における生活の実態を明らかにした。

「安積山の歌」は『万葉集』巻十六の三八〇七番歌として収録されているが、四千五百余首のなかのとりたてて名歌ともいえない一首である。紫香楽宮木簡にあらわれ、「難波津の歌」と表裏に書かれていることから、今まで考えられていたよりは人の口に多くのぼせられていた可能性が生じたが、それにしても、本書の趣旨から期待されるところに違わず一字一音式の表記形式によっている。この事情を本書で考察したところから説明すれば、世に盛行した「難波津の歌」を収録せず、「安積山の歌」を訓字主体表記に改め漢文の左注を付けて収録した『万葉集』こそが、当時にあって特殊だった。公からも一般の人たちからも離れたところにある高尚なものだったのである。

(犬飼隆『木簡から探る和歌の起源「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代』)

以上を纏めると、「安積山の歌」のみが『万葉集』に掲載され、もう一方の「難波津の歌」が掲載されなかった理由として導き出されたのが、「『万葉集』は当時の一般の人たちから離れたところにあって高尚なものであった」という結論である。ちなみに、「難波津の歌」はあらゆる場所で披露され、人々にとって身近な存在であった。つまり、「難波津の歌」が単に高尚な『万葉集』のスタイルにそぐわなかっただけということになる。

こうして、「難波津の歌」が典礼の席でお馴染みの「歌」の代表であったのに対し、『万葉集』は当時の先端的な思想や文学的教養が詰まった宝庫であり、知識人が自宅で楽しむ文学作品であった。そして、そこには公の場では「難波津の歌」を詠み上げ、自宅では『万葉集』を読むという奈良時代の人たちの生活ぶりが垣間見れる。

てっきり『万葉集』が王道なのかと思ってた。最先端のものだったんだ〜

メトロポリタン美術館

そして、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)や山部赤人(やまべのあかひと)らは漢詩や漢文を学びながら典礼の席で披露する歌を作り上げた。みるみるうちに作歌スキルは上達し、日本語による文学作品の水準に達した結果、平安時代の和歌へと繋がる流れが生み出された。

和歌そのものは古代中国からもたらされたものでも、七五調は日本固有の文化だ!

古代中国からもたらされた和歌が、その後独自に進化を遂げたという点を確認したところで、続いてその構成要素である七五調が誕生した経緯にも目を向けたい。

なお、七五調については中国漢詩もまたその形態をとっており、七五調を含めて中国から伝わったとする学説がある。犬飼氏はその学派のひとりであるわけだが、一方で「たまたま中国漢詩と一致しただけで、七五調は先史時代に人間の営みの中でごく自然な流れで生まれたものである」という学説が音声学者や英文学者、国語学者の間で展開されている。さらに、韻律リズムに着目することで、そもそも日本の和歌や俳句における七五調と、古代中国のそれとは全く別物であるとする中国古典文学者の見解も。

和歌・俳句における五音句・七音句が、漢詩の五言句・七言句の影響だとする指摘は、今日でもなお繰返されているが、詩歌としての生きたリズムを對比的に實證すれば、「日本語の詩歌の五音句・七音句」に對應するものは「漢語詩歌の五言句・七言句」ではまったくない、という事實に氣づかざるをえない。

(松浦友久の論文「リズム論から見た「中國古典詩」と「和歌・俳句」-「拍節リズム」を基準として-」

これらを弁えると、和歌と、その構成要素である七五調とはそれぞれ別個に進化を辿ったと考えるのが自然である。以降、近年主流となりつつある音声学者らの学説に則り、「和歌本体は古代中国由来であるけれども、七五調こそは日本固有の文化である」というスタンスをとるものとする。

それぞれが独自に発展した結果が七五調になっているのだとしたら、黄金比みたいで面白いな〜

日本の和歌や俳句の七五調は日本固有のものである

まず、日本の和歌や俳句に見る七五調が日本固有の文化であることは、日本人と外国人に見る和歌や俳句に対する解釈の違いからも裏付けられ得る。例として、正岡子規のかの有名な俳句「柿食えば~」を見てみよう。

柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺

日本人の場合、「か/き/く/え/ば/ か/ね/が/な/る/な/り/ ほ/う/りゅ/う/じ」といったように、五・七・五の句として解釈される。ところが、他の言語話者にとっては法隆寺の部分が「ほう/りゅう/じ」と音節で区切られる。すなわち五・七・三の句なのだ。

なぜこのような解釈の違いが生じるのかと言うと、そもそも日本語話者とその他の言語話者とでは発声のメカニズムの関係上、意味を成す音声の最小単位が異なるためである。中国語や韓国語を含む、世界の多くの言語では「ほう/りゅう/じ」のパターンであるのに対し、日本語のように 「ほ/う/りゅ/う/じ」となるのはハワイ語やアラビア語くらいで、世界的に見ても稀である。

そんなレアな捉え方だったとは!

このように、日本人の発声メカニズムを加味して生まれた和歌や俳句の七五調は日本語話者だからこそ見出されるものであり、ひとまず日本固有の文化として位置づけることができる。

古代から和歌のリズムに慣れ親しんできた

「和歌や俳句の七五調は日本人の生活の流れの中でごく自然に生まれたものである」という学説を唱えるひとりが、音声学の権威である国立国語研究所の窪薗晴夫(くぼぞのはるお)氏だ。窪薗氏は七五調の構造について、以下の通り説明している。

五七五(七七)は実は八八八(八八)という構造から出てきているのだという説があります。文字列を数えると五七五でも、休止(ポーズ)まで含めると五も七もともに八なのだという説です。たしかに短歌や川柳を詠むときには、ところどころに休止を入れて詠みます。休止部分まで含めると、五七五七七は八八八八八、五七五も八八八という構造をしているというのです。

(窪薗晴夫の寄稿「日本語のリズム」)

「五七五七七」が実は「八八八八八」であるというのは、英文学者の別宮貞徳(べっくさだのり)氏が音楽に喩えて提唱している学説なのだが、その学説をもとに七五調のメカニズムについて纏めたのが以下の図である。

和歌や俳句のリズムはこうして生まれた。
試しに、あしびきの〜山鳥の尾のしだり尾の〜ながながし夜をひとりかも寝む を1,2の二拍子で手をふってみたら確かにそうだった!

上の図にある通り、1音に八分音符1個を当て、それが8個集まったのが「八」である。和歌を詠み上げる時、無意識的に休止(ポーズ)を入れたり、音を伸ばしたりすることもあるが、これらも独立したひとつの音として認めた結果が「八」に表れている。ちなみに、字足らずや字余りといったケースにおいて違和感を覚えることがないのは、和歌自体が「八八八八八」のリズムに則っているからだとか。

そして「八」の構造を詳細に見ると、「2音で1つの纏まりを作る→さらにもう1つの纏まりと合体して、4つずつで纏まりをなす」で二拍子のリズムを作るという途中段階があり、全体で四拍子を成すようになっている。これが七五調のメカニズムである。ちなみに窪薗氏によると、和歌や俳句と結びついている二拍子や四拍子のリズムは稲作農耕文化と関係があるのだとか。

二拍子や四拍子という音楽のリズムが日本人の稲作農耕と密接に関係しているという説もあります。馬に乗ることによって生計を立てる騎馬民族はメリハリのきいたリズム-たとえばワルツのような三拍子を好むのに対し、田植えや稲刈りにおいて左右左右と単調なリズムで足を動かす日本人は、強弱の少ない単調なリズムを好むという仮説です。

(窪薗晴夫の寄稿「日本語のリズム」)

シェイクスピアに代表される英詩が強弱格を基調としているのに対し、日本の和歌は五七をリズムの単位としており、それによって単調かつなめらかな音調が紡ぎ出される。なぜ日英間でこのような差が生じるのかと言うと、それぞれの生活様式が密接に関係していることが分かる。

写真AC

縄文時代から稲作が行われていたという説もあるが、石包丁の導入をもって弥生時代に稲作が本格化したというのが定説である。稲作農耕が日本人の生活に正式に組み込まれた弥生時代に、日本人に合った二拍子や四拍子のリズムがごく自然に受け入れられ、その生活の流れの中で和歌の基本をなす七五調が醸成されたと考えるのが妥当である。

そもそも日本文化そのものが二(四)拍子のリズムで成り立っている

和歌が二拍子や四拍子のリズムから成ることはすでに指摘したが、実は日本文化そのものが二拍子や四拍子のリズムで成り立っている。その分かりやすい一例が歌謡曲だ。

この四拍子の構造は、実は日本語の歌謡の基本的なリズムでもあります。子供の童謡でも大人の歌謡曲でも、四拍子は日本語の歌で一番よく使われているリズムです。たとえば日本童謡協会編の『日本の童謡200選』(音楽之友社、1985)を調べてみると、全200曲のうち約60%(117曲)が四拍子の歌で、次に多いのが二拍子の歌(30%、60曲)となっています。この中の四拍子の代表例が「犬のおまわりさん」(さとうよしみ作詞、大中恩作曲」や「めだかの学校」(茶木滋作詞、中田喜直作曲)、二拍子の例が「おつかいありさん」(関根栄一作詞、團伊玖磨作曲)です。四拍子と二拍子が全体の90%を占めているのに対し、三拍子の曲はわずかに10%弱(19曲)という結果です。

(同上)

もちろん、歌謡曲だけではない。ここで例として、曜日の数え方を見てみよう。

月、火、水、木、金、土、日

一般に、「げつ、か、すい、もく、きん、ど、にち」とは読まない。ほとんどの人にとって、その読みは「げつ、かー、すい、もく、きん、どー、にち」ではないだろうか。1音である「か」「ど」に対しては、それぞれ「かー」「どー」と伸ばして発音する。つまり、「2音で拍子をとる」という和歌のリズムがそこに存在する。

続いて、「ポケモン」を例に挙げるとしよう。これは「ポケット+モンスター」のそれぞれの頭2文字をとって生まれた言葉であるが、ここにも「まず2音で1つの纏まりを作り、さらに4つずつで纏まりをなす」という上で見た和歌のルールが観察され得る。実はこれは和歌に限らず、日本語の口語表現に極めて顕著な特徴であるのだが、以下、そのルールに則って形成された言葉をリストアップしておく。

ハリーポタ(ハリー+ポッター→ハリポタ)、冬ソナ(ふゆの+ソナタ→冬ソナ)、天六(天神橋筋+六丁目→天六)、モー娘(モーニング+むすめ→モーむす)、関空(関西+空港→関空)、エムステ(ミュージック+ステーション→Music+ステーション→エムステ)、加ト吉(加藤+吉次郎→加ト吉)、京セラ(京都+セラミック→京セラ)、ジャガイモ(ジャガタラ+芋→ジャガイモ)、マザコン(マザー+コンプレックス→マザコン)、夏目漱石(漱流+枕石→漱石)、ピアニカ(ピアノ+ハーモニカ→ピアニカ)、八百長(八百屋の+長兵衛→八百長)、ジーパン(ジーンズ+パンツ→ジーパン)、キムタク(木村拓哉→キムタク)

これらはいずれも2音で1つの纏まりを作り、もう1つの纏まりとくっついて4音となり、二拍子のリズムを生む事例である。ここで、「ハリーポッター」の略称がそれぞれの頭文字をとった「ハポッ」ではなく「ハリポタ」であるのは、そこに二拍子のルールが存在するためである。以上はほんの一例だが、辞書を眺めても二拍子をベースとした日本語は全体の半数近くを占めている。これらの言葉のように、和歌のリズムもごく自然な流れで生み出されたというのが窪薗氏らがとる仮説だ。

このように、日本文化は先史時代から二拍子のリズムとの親和性が高く、日本人にとって二拍子は心地よいリズムであるから、二拍子をベースとした言葉が多く生み出されている。そして、そんな二拍子や四拍子をベースとした七五調はまさに、日本人の性(さが)に即した日本固有の文化なのだ。

流行らせたいものの名前をつける時の参考になりそう!

まとめ

和歌の変遷の歴史について纏めると、以下の通りである。


話は変わるが、同じく中国由来とされるラーメンや漢字。そもそも中国で提供されるラーメンと、日本のラーメンとでは何だか違う。漢字についても同様だ。

ルーツが古代中国であろうが、七五調という日本独自の要素が加わることによって、日本人に馴染みやすい形に変容したのが日本の和歌である。アクセントとして“日本的なもの”が加わり、それによって独自に進化した日本のラーメンや漢字のように。

そして日本のラーメンで言えば、その“日本的なもの”とは醤油や味噌といった調味料であろう。日本のラーメンにおける醤油や味噌に相当するのが、和歌では七五調であり、和歌のテイストの引き立て役となっている。

そんなラーメン論は置いといて、とにかく「他国の文化をベースに独自に調合・アレンジする」、それこそが日本文化の本質なのかもしれない。

(主要参考文献)
『木簡から探る和歌の起源「難波津の歌」がうたわれ書かれた時代』犬飼隆 笠間書院 2008年
『儀式でうたうやまと歌 木簡に書き琴を奏でる』犬飼隆 埴書房 2017年
『ネーミングの言語学-ハリー・ポッターからドラゴンボールまで-』窪薗晴夫 開拓社 2008年
「日本語のリズム」窪薗晴夫『AJALT(40)』国際日本語普及協会 2017年
『日本語のリズム-四拍子文化論』別宮貞徳 ちくま学芸文庫 2005年
「リズム論から見た「中國古典詩」と「和歌・俳句」-「拍節リズム」を基準として-」松浦友久『中國詩文論叢(4)』1985年
『英語の構造からみる英詩のすがた-文法・リズム・押韻』岡崎正男 開拓社 2014年

書いた人

1983年生まれ。愛媛県出身。ライター・翻訳者。大学在籍時には英米の文学や言語を通じて日本の文化を嗜み、大学院では言語学を専攻し、文学修士号を取得。実務翻訳や技術翻訳分野で経験を積むことうん十年。経済誌、法人向け雑誌などでAIやスマートシティ、宇宙について寄稿中。翻訳と言葉について考えるのが生業。お笑いファン。

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編集長から「先入観に支配された女」というリングネームをもらうくらい頭がかっちかち。頭だけじゃなく体も硬く、一番欲しいのは柔軟性。音声コンテンツ『日本文化はロックだぜ!ベイベ』『藝大アートプラザラヂオ』担当。ポテチと噛みごたえのあるグミが好きです。