京都と滋賀の間にそびえ立つ霊山・比叡山。教科書でもおなじみの開祖・最澄が785年に比叡山に独り籠ったことから「延暦寺」の歴史が始まります。当時の名称は「比叡山寺」。806年に朝廷の許可を得て天台宗が開宗、その後823年には嵯峨天皇より「延暦寺」寺号をたまわりました。それから1200年。途方もない長い時間の中、比叡山は京都・滋賀の人々の心の拠り所となってきました。
2021年4月、比叡山に伝わる厳しい修行のひとつ「十二年籠山行」を、戦後7人目渡部光臣住職が満行(達成)。12年間比叡山最澄の廟(びょう)である浄土院にこもり、人にあわず俗世と遮断された中、最澄の側でお世話をするという厳しい修行です。令和に入り初めての満行だと、大きな話題を呼びました。スマートフォンもなく、人と会わない……。私達には想像もつかない修行です。
戦後6人目の達成者である宮本祖豊住職に、実際はどんな生活をされていたのか、詳しくお話を伺いました。
「十二年籠山行」の成り立ち
今でこそ政教分離として宗教と政治は別物ですが、かつて仏教は国の平穏を祈り守る、国家に欠かせないものでした。開創以来、比叡山延暦寺は人々や日本、世界の平和を祈ってきました。最澄が定めた籠山期間の12年とは、元々修行のサイクルのこと。今は12年もこもっていたら世の中は激変していますが、昔の時の流れはずっとゆるやかでした。ただし寿命は今より短い時代ですから、人生を費やす割合としては大きく、覚悟が必要だったようです。
「十二年籠山行」が今の形となって登場した背景には、長い歴史における大きな分岐点を迎えたことがひとつのきっかけ。そう、有名な織田信長の比叡山焼き討ちです。比叡山の施設の多くを焼き尽くされ、比叡山は仏閣の再建を余儀なくされます。その後焼け落ちた建物の再建が進み、同時に「十二年籠山行」の規範も整備されていきました。幕府の後援のもと、約100年後の1699年に現在まで続く「十二年籠山行」が整います。
「侍真職」(じしんしょく)は、最澄の廟がある浄土院に籠もり、毎日最澄の魂にお仕えする役職です。お墓と違う点は、廟は魂が眠っている場所であるということ。肉体がほろんでもまだ魂は生きていると考えるので、毎朝師のためにお食事を作り、清々しく過ごしてもらうために日々掃除をするのだそうです。
厳しい修行ですが、その実、一番お側で仕えることができる、最も幸せな修行でもある、と皆さん仰っていました。
実際に前回の十二年籠山行を終えた宮本祖豊住職に話を聞いてきた
宮本祖豊住職は1989(平成元)年入山。1997(平成9)年より侍真職を務められました。お寺で迎えてくださった宮本住職は、穏やかで、つい心を開いて相談してしまいそうな柔和な方。とても荒行を積まれた方とは思えませんでした。
―「十二年籠山行」に入る前にまず試練があるということでしたか。
宮本祖豊住職(以下、宮本):心を清め最澄さんにお仕えすべく、まず「好相行」という修行を行います。寺院に籠もり、1000仏に計3000回、経を唱えながら五体投地します。両手、両ひざ、額を地面につける、仏教において最高の敬意を示す拝み方です。毎日毎日行って、仏様のお姿が見えるまで行う修行です。
―3000回となると、一日中行わないと……。
宮本:終わりません。スクワットのような動きを15時間ほど行わないといけず、眠ることも許されません。1週間も続けると幻覚をずっと見ていましたし、瞳孔も開きっぱなしでした。
―想像もつかない厳しさです。仏様が見えるとのことですが、見えたフリとかではだめなのでしょうか。
宮本:十二年籠山行は指導する住職がいるのですが、その方も必ず同じ修行をしている方がつきます。仏様のお姿などを説明しなければならないんです。
―適当に言ったら判ってしまうわけですし、きっとそういう人は修行に挑みませんね。とてもハードな修行ですが、やめることはできないのですか?
宮本:「行不退」と言いまして、達成か死か、やめられません。
―倒れる方もいらっしゃるのでは?
宮本:はい、私も二度ドクターストップがかかりました。3ヶ月療養してから再開したのですが、またもや中断。療養後に再開して……足かけ3年、585日かけて好相行を終えました。
―修行に入るまでに3年。さらにそれから12年、「浄土院」に籠もられていた。毎日どのように過ごされていたのでしょうか。
宮本:朝は3時半起床。4時からお勤めとして最澄さんのご飯をご用意し、「献膳」(廟に食事を供える)します。5時に自分も朝食です。3年間籠山修行する方が食事を作ってくださいますし、食料も届きます。生臭物(肉や魚)やネギ、ニンニクなどは食べないので、おかゆですとかお漬物、その程度です。
―3時半は夜中な気がいたしますが……。日の出頃にもうお勤めをされているんですね。
宮本:それからまた護国、国の平穏をお祈りしたり、大般若という経典を読んだりして、10時に再び献膳。自分もいただき、あとは断食です。昼からはひたすら掃除ですね。境内、御廟、阿弥陀堂、塵ひとつないように磨きます。
―10時以降は何も食べないとは衝撃です。「掃除地獄」と呼ばれるほど掃除に厳しい修行だと聞きましたが。
宮本:はい、ずっと掃除をしています。庭では落ち葉1枚許されないので、秋はもう大変でした。雪も積もれば、すべての場所を雪かきしなければなりません。
―比叡山という緑豊かな山の中で落ち葉1枚許されないとは、本当に厳しいですね。夜は何時に眠られますか。
宮本:日が沈んだら、写経や坐禅など、自分の勉強をし、21時から22時には就寝します。慣れてくると一日が短く感じます。
―ひとつの境地を極められていたように感じますね。達成した人はどれくらいいるのでしょうか。
宮本:私で116人目でしたが、達成者はもっと少ないです。7~8割はギブアップというか、亡くなられていたり、中には姿が見えなくなったりという方もいらしたようです。修行中の食事は1000キロカロリー程度ですし、栄養不足になってしまうことも。ただ、体が順応して、それで生きていけるようになります。舌が敏感になって、野菜のおいしさ、米のうまみといった自然の味わいを感じるようになることも驚きました。
―確か、成人女性で1日に1800キロカロリーは必要だったと記憶しています。俗世の人間には計り知れません。宮本住職は見事達成されましたが、下山の時はどんな感覚でしたか。
宮本:侍真職は、次の人と交代しないといけない修行のため、私も渡部住職がいらしたから、2009(平成21)年に下山しました。BS放送がない時代から、いきなり4Kの世界になり、携帯電話はスマートフォンとなっていた。また、徒歩以外で移動したことが12年ありませんから、車のスピードに慣れず、目が回りました。
―タイムスリップのようですね。
宮本:人と会話もしないので、コミュニケーションも取れなくて……。籠山行中は、浄土院の本堂で、御廟に訪れる方の会話を漏れ聞く程度です。自分の思うことを言葉にすることが難しかったですね。そうそう、トイレの使い方がわかりませんでした(笑)
―12年経てば凄まじい進化をしますものね。他に驚かれたことはありますか?
宮本:どこもニンニクくさく感じましたね。匂いがきつい。テレビもラジオもネットも週刊誌もないので、情報の多さに驚きました。東京でのオリンピック開催が決まっていたことも知りませんでしたよ。
―本当にタイムスリップ……!十二年籠山行を通じて、強く感じられたことを教えてください。
宮本:生かされている、という実感ですね。毎日淡々と過ごしていますが、ずっと自分を見つめています。そして、死が身近なぶん、生きているという感覚も、現代社会とは思えないほど強かった。生き生きと楽しんでいたと、振り返ってみれば思います。
―新型コロナウイルスの影響で、死が身近になった感覚は私達にも起こりました。先のことが不安になる人も多いと思うのですが、宮本住職は12年という長い期間に不安でたまらなくなることはなかったですか?
宮本:もちろん、指導僧の顔を潰すのではないか、本当にできるのか、プレッシャーや不安はつきまといました。大切なのは、今、ここだけを生きることです。時には嫌になることもありました。でも、1回くらいやってみよう、もう1回だけやってみよう、と重たい腰を無理やりあげていると、3日もやれば慣れて、まだできるようになる。先のことを考えるより、まず、やってみましょう。疲れたら休んでも大丈夫ですから。
どこか楽しそうに修行の日々を語られる宮本住職。1200年続く最澄の教えは、今も比叡山延暦寺、そして何より住職たちの中に息づいているのだと感じました。
想像を絶する修行と、俗世で人が生きること
昼まで寝て、好きな時に好きなものを食べて、スマホを見ながらゴロゴロ、そんな休日とは全く違う、想像もできない厳しさの「十二年籠山行」。しかしその日々にも楽しみと喜びがあり、私達と同じく毎日の積み重ねで成し遂げられるものでした。真似は難しいですが、今、ここを生きることの大切さ、実感しながら生きていきたいものですね。