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Culture
2025.04.23

親の紹介?仕組まれた出会い?江戸時代の「婚活」のリアル

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誰にとっても結婚は人生の一大事業だ。そして結婚するなら、誰だって幸せな結婚がしたい。そんな願いはいつの時代も変わらない。むしろ家の思惑と親の思いと乙女心が複雑に絡みあう江戸時代のほうが相手を見つけるのは一苦労だったかもしれない。

関口家の歴代の当主が代々書き残した『関口日記』には、毎日の金銭出納や天候や事件、風聞にいたるまで様々なことが記録されている。そのなかに嫁入り前の娘が登場する。彼女の名前は、関口ちえ。謎につつまれた江戸時代のブライダルストーリーを語ってくれる今回の主役である。ちえの嫁入りをとおして少しだけ江戸時代の結婚をのぞいてみよう。

わたしの幸せな結婚(関口ちえ 結婚編)

生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)に暮らす関口ちえは、結婚を控えていた。

ちえは少女時代に江戸に武家奉公に出たことがある。その後、商家に嫁入りするも離婚。人生の転機が起きたのは三十歳を過ぎてからだ。江戸城大奥に奉公に出たことがきっかけで、六十九歳で亡くなるまで大奥とつながりのある生活を送ることになる。が、いまはまだそんな未来を知らない。

さて、五年間の武家奉公を終えて故郷へ帰って来たちえは十八歳になっていた。さっそく縁談が持ちこまれる。

ちえ、はじめての見合いに挑む

話を持ってきたのは、江戸富沢町の古着商・山田屋惣八。どうやら関口家の隣家の藤屋忠助の紹介で訪ねてきたらしい。とりあえず、見合いをすることが決まった。気になる相手は、江戸日本橋近くに住む油町松坂屋弥助という人物。
見合いは一週間後の十月二日の予定。初めての江戸町人ということだから、父も娘も緊張している。

九月三十日、東京へ向かう。その日は茅場町に宿をとることにした。翌日、親子で山田屋惣八の家を訪ね、泊めてもらう。土産には、地元から持参してきたあいなめ十尾とお饅頭を持って行く。

十月二日、予定通り相方と面会する。場所は、浅草の奥山茶屋の座敷。この頃は、茶屋の座敷を借りて面会するのが町方風とのこと。その日はふたたび惣八の家に泊り、翌日は新川にある佃屋庄蔵の家に邪魔する。父は用事を済ませて五日には生麦村へ帰ってしまうが、ちえはそのまま庄蔵の家に泊った。

さて、見合いを済ませたちえは江戸で数日過ごし、十三日に村へ戻った。そして早くも十七日には、東京でお世話してくれた庄蔵を通して手紙のやり取りをしている。しかし、どうにも進展せず、どうやら見合いはうまく行かなかったらしい。こうしてちえの人生初の見合いは幕を閉じたのであった。

ちえ、ふたたび見合いに挑む

『ねずみの嫁入』(国立国会図書館デジタルコレクション)

翌年のこと。子安村の海保孫右衛門が江戸安針町の名主鷲右衛門とともに関口家を訪ねた。ちえを鷲右衛門の息子の嫁にと、縁談がやってきたのだ。
同じ月、ふたたび山田屋惣八の紹介を受けて江戸両国若松町の川村喜兵衛が関口家に立ち寄り、縁談を置いていった。つまりちえのもとには二つの縁談が持ちこまれたということになる。

結婚相手に選ばれたのは、川村家だった。川村家が選ばれた理由までは分からないが、結婚が決まるとちえの実家はすぐさま行動に移した。早々に縁組を承諾したことを示す書類を書いてしまうと、婚礼のための準備をはじめたのである。

結納品、支度金、花嫁衣裳……結婚は大忙し!

『ねずみの嫁入』(国立国会図書館デジタルコレクション)

結納之覚
入金千疋  帯代
入金五百疋 するめ 苧 昆布 樽壱荷   代

日記によれば、関口家は川村家へ結納金として千疋のほか、するめ、苧(からむし)、昆布、酒樽代として五百疋を渡している。

四月六日、ちえの着物類を詰めこんだ長持が東京へと運ばれ、同じ日にちえの姉とその夫が訪ねて来て、祝儀を置いていく。

十四日、ちえは駕籠に乗せられて江戸へ。

十八日、ちえの母親が婚礼衣装の着付けのために娘のもとへ出向き、十九日に挙式。母親は二十日には引き出物をもって江戸から帰ってきている。

五月五日、新郎新婦が実家を訪ねて来た際にひらかれた宴会では親類だけでなく近所の人たちからもお祝いにたくさんの鮮魚をもらい受けた。かくして宴会は大成功に終わり、関口家の娘、ちえは無事に江戸の商家川村家に嫁入りしたのである。めでたし、めでたし。

仲人はお医者さま?

『ねずみの嫁入』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『関口日記』を読んでいると、当時の結婚に至るまでの過程がよくわかる。たとえば、縁談話をもってきた山田屋惣八なる人物の働きぶりは注目に値する。彼は両家のあいだを行き交う仲人のような役割を果たし、見事にちえを結婚させている。

仲人は信用がなくては務まらない。そのため、この時代には、医者が仲人を兼ねることがよくあった。医者はあちこちの家に出入りするし、人の身体を診るのが商売だから婚姻の保証人としては申し分ない。家人からの信用があるし、なにより家の事情も耳に入りやすい。

なかには兼業ではなく、仲人を商売にしている者もいた。江戸時代に仲人がビジネスとして成立していたというのは驚きである。彼らは持参金の十分の一の礼金をいただくことを条件に、人と人とを引きあわせていたらしい。口が上手ければ儲かる仕事かと思いきや、面倒事も多かったようで危険がついてまわることもあった。

『世間仲人気質』に、仲人にまつわるこんな話が紹介されている。

仲人、花嫁を探して京都を走りまわる 『世間仲人気質』より

『ねずみの嫁入』(国立国会図書館デジタルコレクション)

竹谷町通古手商いの佐平次は、京都の銀貨し金子氏の惣領息子の花嫁を血眼で探し回っているところだ。あるとき松原通の傘屋から「十七になる器量良しの娘がいる」と聞き、これは商売のチャンスと勇んで赴く。

すると話の出所の後家祖母は「それは此四五丁西の熊手掻庵様という鍼立どのに頼まれたのさ」と言い、一走りして話をつけることとなった。ところが掻庵は「古道具やの市兵衛に頼まれたのだ」と言う。手紙で古道具屋を呼び出し、やって来た古道具屋が言うには、妻が里で聞いた話だという。そこで妻に事の次第を訊き、妻がさらに里に訊いたところ「里のかごの親方権兵衛の話にちがいない」と言う。
里の権兵衛に会うと「去御醫者様の方より頼まれた縁談だった」とのこと。しかもこの「去御醫者」は、先に登場した鍼立のことで縁談話は振り出しに戻ってしまうのだった。

結局、噂の十七になる器量良しの娘はどこにも見つからず、仲人は手数料目当てで走りまわり、京都の街で縁談話が駆けめぐっただけだった。
(『世間仲人氣質』巻之一「第二 二百九十八番と印の見える傘、身上よしのちらし札冬中に取組を大かたに仕おほせた風呂敷の中はなに」)

茶屋ではじまる仕組まれた恋

『ねずみの嫁入』(国立国会図書館デジタルコレクション)

結婚するならロマンチックなのがいいし、恋をするのなら落ちる恋がいい。というのは、高望みし過ぎだろうか? 

関口ちえは浅草の茶屋で見合いをしたが、江戸時代の見合いは当人同士が顔を合わせ、結婚相手として見定める機会でもあった。そのための場所は、寺の境内や参道に建つ茶屋が選ばれることが多かったようだ。今でいうところの喫茶店のようなものだろう。

見合いといっても現代のような堅苦しいものではなく、男性が腰をかけてお茶をしている傍らを女性が供の者を連れて通り過ぎる程度のものだったらしい。とはいえ目を合わせるのも会話することもできないので「あの方のようですよ」「あなたがお気に入りみたい」なんてことを囁きながら、相手を盗み見したのである。

見初め見初められ、一目ぼれまでいけばラッキーだが、裏をかえせば茶屋での出会いは仕組まれた恋だったともいえる。
何はともあれ、茶屋が出会いの場として若者たちに開かれていたのは確かだし、広い街を舞台に男女が「偶然」出会ってしまったという演出はそれがたとえ作りものでも女の子たちを(時には男の子をも)、ロマンチックな気持にさせたにちがいない。恋のきっかけとしては充分だ。

江戸時代の結婚

江戸時代にだって胸を焦がす恋愛はあっただろうが、結婚話がいつも「めでたい」わけではなかった。
娘が嫁ぐということは、家のなかの労働力が移ることでもある。婚姻関係によって、ひとつの家がべつの家と繋がりをもち、労働の助け合いとなるような協力関係が生まれる。それが縁組の意味するところでもあったからだ。

『関口日記』を読んでいくと、ちえもまた子を産む者として、働き手として、家にとって重要な存在だったことが分かる。日記には、ちえの胸の内までは書かれていないから彼女が夫・松五郎にどんな思いを抱いていたのかは分からない。それでも両家は互いに交流もおおかったようで、ちえの姉と母が江戸に遊びに来るようなこともあったらしい。和気あいあいとした雰囲気が伝わってくるから、きっと仲のよい家族だったのだろう。

わたしの幸せな結婚(関口ちえ 出産編)

『ねずみの嫁入』(国立国会図書館デジタルコレクション)

ところで、先に紹介した関口ちえの結婚生活はその後どうなったのだろうか。

日記によれば、文政二年の八月にちえはめでたく男の子を出産している。安産だったらしい。八日の昼過ぎには、夫の松五郎も生麦村へ子どもの顔を見に来た。

ところでこの二人、わざわざちえの安定期に合わせて出産前に江の島・鎌倉へ安産祈願に出かけている。どうやらちえは幸せな結婚生活を送っていたらしい。ちえと松五郎の馴れ初めを知っているせいで(日記をつぶさに読んだ私はちえの過去の見合い相手のことまで詳しいのである)、二人で生まれてくる子どもの話をしながら歩いたのだろうな、なんて余計なことまで想像してしまい、読んでいるこちらが恥ずかしくなってくる。

それはさておき、十三日には子どもの生後七日目を祝う会が開かれた。

十六日、夫・松五郎宛てに手紙を出したところ、行き違いで両国から手紙が届いた。日記には「松五郎病気の知らせあり、子どもには竹次郎と命名すること」と記されている。

十月二日、ちえと竹次郎は両国へ向かった。二カ月ぶりに見た夫は衰弱していた。

十一日、両国の川村家で松五郎の葬儀が行われている。
出産の喜びもつかの間、ちえが松五郎と竹次郎と家族三人で過ごした日はわずか八日間だけだった。

【参考文献】
森下みさ子『江戸の花嫁 婿えらびとブライダル』中央公論新社、1992年
『関口日記』横浜市教育委員会、1972年
大口勇次郎『江戸城をめざす村の娘 生麦村 関口千恵の生涯』山川出版社、2016年
『帝国文学 気質全集』博文館、1895年

書いた人

文筆家。12歳で海外へ単身バレエ留学。University of Otagoで哲学を学び、帰国。筑波大学人文学類卒。在学中からライターをはじめ、アートや本についてのコラムを執筆する。舞踊や演劇などすべての視覚的表現を愛し、古今東西の枯れた「物語」を集める古書蒐集家でもある。古本を漁り、劇場へ行き、その間に原稿を書く。古いものばかり追いかけているせいでいつも世間から取り残されている。