悲劇のヒロインの東西両横綱といえば、東の細川ガラシャ、西のマリー・アントワネットではないだろうか。実はこの2人の女性、生きた時代も国も異なるけれど、不思議な共通点、そして結びつきがある。
どちらも政略結婚で嫁がされ、時代の大激変に巻き込まれて、くしくも同じ37歳で非業の最期を遂げた。ガラシャの悲劇は遠くヨーロッパにまで伝えられ、マリー・アントワネットの実家であるハプスブルク家では、ガラシャを主人公にしたオペラも上演された。同家の娘たちの間でガラシャは女性の手本とされていたという。
マリー・アントワネットはフランス革命でギロチンにかけられる際も、落ち着いた態度だったといわれる。そのとき彼女が思い浮かべていたのは、同じように政変に巻き込まれながらも潔く死を受け入れたガラシャのことだったのだろうか。
「謀反人の娘」の汚名とキリスト教への帰依
細川ガラシャの波乱万丈の生涯を特徴付けるのは、父・明智光秀の謀反、キリシタンとしての後半生、そして関ヶ原の戦い直前の悲劇的な最期だ。
ガラシャというのは洗礼名で、本名は玉(珠とも)。戦国武将・明智光秀の三女として1563(永禄6)年に生まれた彼女は、16歳の時、光秀の主君・織田信長のあっせんにより、同じ信長配下の細川藤孝の長男・忠興に嫁ぎ、子宝にも恵まれた。だが、幸せな新婚生活は長くは続かなかった。1582(天正10)年、父・光秀が本能寺の変を起こすと、ガラシャは謀反人の娘として夫から離縁され、丹後の山奥の味土野(現在の京都府京丹後市)に幽閉されてしまう。
2年後、ガラシャは夫と復縁し、細川家の大坂屋敷に移り住む。復縁を許したのは、山崎の合戦で光秀を討ち取った羽柴秀吉。ほかならぬ父の敵から温情をかけられたわけだ。だが、大坂でも彼女を待っていたのは相変わらず監視下に置かれた不自由な生活。そんな中で彼女はキリスト教を知り、興味を抱くようになる。夫が秀吉の九州征伐に従軍し不在となった間に屋敷を抜け出し、大坂のキリスト教会を訪れた彼女は、その後受洗し、ガラシャの洗礼名を授けられた。
1598(慶長3)年に秀吉が没した後、家臣たちは徳川家康を擁する東軍と反徳川派の西軍に分裂。決起した西軍は1600(慶長5)年7月17日、徳川方についた細川忠興の大坂屋敷を包囲し、ガラシャを人質にしようとしたが、彼女はこれを拒み、自ら死を選んだ。キリスト教では自殺が禁じられているため、家臣の小笠原少斎に介錯させたともいわれる。関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わる2ヵ月前のことだった。
ガラシャの悲劇をDV虐待死として描いたイエズス会オペラ
このガラシャの最期は、日本で布教活動を行っていたイエズス会の宣教師によってヨーロッパに伝えられ、印刷物などを通じて広く知れ渡ることとなった。そして、1698年には、ウィーンのハプスブルク家で、イエズス会のオペラ『気丈な貴婦人-グラーチア 丹後王国の女王』が上演されている。
もっともその内容は、殉教物語であることを強調するあまり、史実とはかけ離れたものになっている。夫の忠興は、妻がキリスト教に入信したことを知って激怒し、虐待して棄教を迫るDV夫として描かれている。そしてガラシャは夫の暴力に力付きて昇天。夫は妻への残虐非道な行いを悔い改める-という筋書きだ。
このオペラの台本は、初演から約300年を経て、ウィーン国立図書館に所蔵されているのが見つかった。ガラシャ生誕450年を迎えた2013年には、上智大学創立100周年記念事業として、日本でも復活上演されている。
マリー・アントワネットが死の直前に見せた母親らしさ
のちにフランス王妃となりマリー・アントワネットと呼ばれることになるマリア・アントニアは、1755年、ウィーンのハプスブルク家で神聖ローマ皇帝フランツ1世とオーストリア女帝マリア・テレジアの11女として生まれた。細川ガラシャを主人公にしたオペラ『気丈な貴婦人』が同家で初演されてから57年後のことだ。
末娘らしく自由奔放に育ったが、幼い頃からバレエやオペラが大好きで、劇中の人物を演じてみせることもあったという。そんな彼女は14歳で、フランスのブルボン王家に嫁ぐ。当時ハプスブルク家は新興国プロシアに対抗してフランスとの同盟関係を強化しようとしており、そのための政略結婚だった。夫のルイ・オーギュストが1774年に国王ルイ16世として即位すると、マリー・アントワネットは王妃となり、その後、4人の子どもにも恵まれた。
だが、1789年にフランス革命が勃発。国王夫妻は1791年に亡命を企てるが失敗し、ルイ16世は1793年1月に処刑された。マリー・アントワネットも革命裁判所で「国家財産を浪費した罪」などで死刑を宣告され、同年10月16日、ギロチンにかけられた。
処刑の数時間前、マリー・アントワネットは獄中で、夫の妹エリザベートに宛てた最後の手紙をしたためている。涙でインクがにじんだその手紙で、彼女は「かわいそうな子供たちを残していくのが、ずいぶん残念です」「永久に彼らと別れるなんて、胸が引き裂かれそう」と、残していく子供たちへの思いを切々とつづり、彼らの今後のことを心配している。フランス王妃が死の直前に見せたのは、一人の母親としての顔だった。
「マリー・アントワネットはガラシャに憧れていた」説を検証する
オペラ『気丈な貴婦人』で描かれた細川ガラシャは、キリスト教の殉教者という脚色されたものだった。だが、彼女が死を前にして自分の信念を曲げなかったことだけは間違いなく、それがハプスブルク家の女性たちの共感を呼んだのかもしれない。
細川ガラシャとマリー・アントワネットのつながりについては、もっと踏み込んだ説も一部で唱えられている。マリー・アントワネット自身がガラシャへの憧れを表明していたというのだ。
「マリー・アントワネットが断頭台に行く前、義理の妹に宛てた手紙に、『私はガラシャのように潔く最期を迎えたい』と書いていたそうです」と、ある人が語っていた。情報の出所をたどると、どうやら、ガラシャの子孫でもある細川家の関係者から出てきた話のようだ。この説に基づいた劇を近く上演する計画もあるという。
ただ、この説には疑問もある。史実として、ガラシャを主人公にしたイエズス会のオペラ『気丈な貴婦人』が1698年にハプスブルク家で上演されたことは間違いないが、それはマリー・アントワネットが生まれる半世紀上前のことだ。その後再演されたことを示す史料はなく、彼女がこのオペラを直接鑑賞したかどうかは定かではない。
マリー・アントワネットの手紙にも、ガラシャに直接言及した記述を見つけることはできなかった。処刑の数時間前に義妹に宛てて書いた最後の手紙には、「兄さん(夫のルイ16世)と同じように私も無罪なのですから、彼が最後の瞬間に見せたのと同じ毅然さを見せて死んでいきたい」とつづられている。つまり、ここで彼女が模範としているのは、9ヵ月前に処刑された夫・ルイ16世の毅然とした態度のことだったのだ。
果たして、マリー・アントワネットは細川ガラシャのことをどこまで知っていたのか、その生き方に本当に憧れていたのか、謎は残ったままだ。それでも、時代の激変にほんろうされながら、死の間際まで決然とした態度を貫いた2人の生き様には、時空を超えた運命的なつながりがあるように思えてならない。
▼和樂webおすすめ書籍
細川ガラシャ夫人(上) (新潮文庫)