紅葉のたよりが聞こえる時期になりました。美しく色づいた紅葉は、秋を代表する風景です。
楓(かえで)のように葉が赤に変わることを「紅葉(こうよう)」、イチョウのように黄色や黄褐色に変わることを「黄葉(こうよう)」と言います。もしかしたら、色で区別をせず、秋になって木の葉が色づくことを「紅葉(もみじ、こうよう)」と言うことが多いかもしれません。
ところで、秋の紅葉の季節に、野山に出かけて鑑賞する行事や風習のことを「紅葉狩り(もみじがり)」と言いますが、なぜ「紅葉狩り」と言うのかご存じでしょうか? 「紅葉を見に行くのに、なぜ、狩り?」「何かを捕まえていたの?」と気になったので、調べてみました。
なぜ「紅葉狩り」って言うの?
「紅葉狩り」とは、秋に山や野に紅葉を尋ねて遊覧すること。お土産として落ちた紅葉を拾ったり、紅葉を枝から取って集めたりすることもあるかもしれませんが、目的は美しく色づいた紅葉を鑑賞することであり、眺めて愛でることです。
『日本国語大辞典』(小学館)で「かり(狩・猟)」を調べてみると、次のような意味があることがわかりました。
(1) 山野で、鳥や獣を追い立ててとらえること。とくに、鹿狩り、鷹狩りをいう場合が多い。狩猟。
(2) 魚や貝などを、とらえること。
(3) 山野に分け入って薬草、きのこなどを採ること。
(4) 山野に行って、花などの美しさを観賞すること。
(4)の例として、「桜狩り」「紅葉狩り」をあげています。
また、『全文全訳古語辞典』(小学館)の「かる(狩る)」の項目には、次のような説明がありました。
(1) (鳥・獣などを)追い求めてつかまえる。狩りをする。
(2) 花や紅葉を捜し求めて楽しむ。
このように、季節の花や草木を探し求めることを、狩猟になぞらえて「〇〇狩り」という言い方が古くからあることがわかりました。
なお、平安時代の貴族には「“歩く”という行為は品がない」という考え方があったため、野山に出かけてこと紅葉を鑑賞することを「狩り」に見立てて,「紅葉を狩りに行く(=紅葉狩り)」と言い換えたという説もあるようです。
『萬葉集』では紅葉ではなくて黄葉だった?
『萬葉集』にも「もみじ」を詠んだ歌が100首以上収録されていますが、実は、「紅葉」を使っている歌は、次の一首だけなのです!
妹(いも)がりと 馬に鞍(くら)置きて 生駒山 打ち越え来れば 紅葉散りつつ(2201)
(妻のもとへと 馬に鞍を置いて 生駒山を 越えて来ると 紅葉が盛んに散っている)出典:『日本古典文学全集 8 萬葉集3』 小学館
『萬葉集』に収録されている他の歌では、「もみじ」に「黄、黄変、黄葉」という漢字をあてています。例えば、柿本人麻呂が詠んだ次の歌でも「黄葉」を使っています。
秋山の 黄葉(もみぢ)を繁み 惑ひぬる 妹を求めむ 山道(やまぢ)知らずも(208)
(秋山の 黄葉がいっぱいなので 迷い込んでしまった 妻を捜しに行く その山道も分からない)出典:『日本古典文学全集 6 萬葉集1』 小学館
当時は死者の亡骸を山の土の中に埋葬していました。古代中国で生まれた五行思想(ごぎょうしそう)は自然哲学の思想で、「万物は木・火・土・金・水の5種類の元素から成る」という考えで、「黄」は「土」を示します。「山中に葬ってきた妻を捜しに行きたいが、その山道もわからない」と詠んだこの歌では、黄葉の「黄」は「黄泉(よみ)」を連想させ、さらに「よみ」という音から「(亡骸が)甦(よみがえ)る」という含みを持つという解釈もあるようです。
平安時代になると、中国・唐の文学者・白居易(はくきょい)の詩文集『白氏文集(はくしもんじゅう)』の表記の影響などもあり、「紅葉」と書くようになります。紅葉は、秋の代表的な風物となり、『古今和歌集』の「巻第五 秋歌下」は、ほとんどが紅葉を詠んだ歌で占められているのだとか。
「紅葉狩り」が庶民の娯楽になったのは江戸時代
「紅葉狩り」は、奈良時代から平安時代の貴族の間で始まったと言われています。紅葉狩りは、宮廷や貴族の優雅な遊びとされ、紅葉の時期に山野に出かけ、紅葉を見ながら宴を開き、和歌を詠んだりしました。
鎌倉時代前期の鴨長明の随筆『方丈記』にも、紅葉にふれた箇所がありました。
かへるさには、折につけつつ、桜を狩り、紅葉(もみぢ)をもとめ、わらびを折り、木(こ)の実を拾ひて、かつは仏にたてまつり、かつは家づとにす。
出典:『日本古典文学全集 44 方丈記』 小学館
「帰り道には、折々の季節によって桜や紅葉を鑑賞したり、ワラビを採ったり、木の実を拾ったり、そうして仏前に備えたり、土産にしたりする」とあり、季節ごとの風物を楽しんでいた様子がわかります。
「紅葉狩り」が庶民の間にも広がったのは、江戸時代になってから。江戸の人々は、ゴミゴミした江戸の街から少し離れた郊外の紅葉スポットに出かけて、紅葉を鑑賞して楽しんでいました。
江戸の紅葉スポットはどこ?
文政10年(1827)に刊行された『江戸名所花暦』は、江戸のレジャーガイドブックです。著者は、江戸時代後期の戯作者(げさくしゃ)・岡山鳥(おかさんちょう)で、長谷川雪旦(はせがわせったん)が挿絵を描いています。この本では、四季折々の花鳥風月を計43項目に分類し、それぞれの名所の解説、由来などがあるほか、道順をわかりやすく案内しています。
「秋之部」では、当時のおすすめ紅葉スポットが紹介されています。
真間山弘法寺
「紅葉」の項のトップで紹介されているのが、江戸の街から約3里(=約12㎞)離れた、下総国葛飾郡(しもうさのくにかつしかぐん)にある真間山弘法寺(ままさんぐほうじ)です。「本堂の前にある楓が名木である」と案内しています。
弘法寺は千葉県市川市真間にある日蓮宗の寺院で、天平9(737)年に行基(ぎょうき)が里の娘・手児奈 (てこな)の霊を慰めるために開創したと伝えられています。
手児奈は、古代伝説上の美少女で、貧しく、いつも粗末な衣服をまとって立ち働いていましたが、あまりにも美しかったことから多くの男性から求婚されて悩み苦しんだ末に、海に身を投げて命を絶ったと言われています。『萬葉集』でも、山部赤人(やまべのあかひと)や高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)などが手児奈のことを歌に詠んでいます。
葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思ほゆ(433)
(葛飾の 真間の入江で 波に揺れる 玉藻を刈ったという 手児奈のことが思われる)出典:『日本古典文学全集 6 萬葉集1』 小学館
滝野川
滝野川は東京都北区南部の地名です。石神井(しゃくじい)川がこの付近で蛇行し、流れも急なことから、滝のような川、滝野川と呼ばれるようになりました。
江戸時代の滝野川は森林が多く、紅葉の名所として有名でした。
補陀落山海晏寺
補陀落山海晏寺(ふだらくさんかいあんじ)は東京都品川区南品川にある曹洞宗の寺院で、建長3(1251)年に北条時頼の創建、大覚禅師の開山と伝えられています。
海晏寺は高台にあったため、青く澄んだ海を背景にして紅葉を楽しむことができました。紅葉スポットには山間の名所が多い中、珍しい風景を楽しめる海晏寺は大人気。秋には、多くの人が紅葉狩りに訪れました。
泰叡山瀧泉寺
「目黒不動」として有名な泰叡山瀧泉寺(たいえいざんりゅうせんじ)は、1年を通じて大勢の参拝者が訪れます。境内には楓の木が多く、秋は紅葉を楽しむことができたのです!
このほか、向島の秋葉大権現、北品川の東海寺、下谷の正燈寺などが江戸の紅葉スポットとして人気がありましたが、その多くが神社仏閣でした。紅葉狩りは、幅広い年代に人気のレジャーだったのです!
季節を楽しむ江戸の人々を真似したい
江戸には紅葉の名所がいくつもあってどこもにぎわいました。現代の私たちと同じく、江戸の人々も色彩豊かな秋景色を求めて、郊外へと紅葉狩りに出かけました。時には、朝もまだ暗いうちから出発し、ようやくたどりついた紅葉スポットで秋色に染まった草木を眺め、色とりどりの葉がはらはらと舞うさまを楽しんだのだとか。
山野の紅葉も素敵ですが、公園や街路樹など、身近で紅葉を楽しむこともできます。
例えば、東京の都心部の紅葉スポットと言えば、青山外苑のイチョウ並木をイメージする方も多いのではないでしょうか? また、浜離宮恩賜庭園、六義園(りくぎえん)、新宿御苑、清澄庭園などの大名庭園(=大名屋敷の周りなどに作った庭園)も紅葉スポットとして有名です。
京都や奈良の神社仏閣にも、紅葉スポットが多いですね。
「紅葉を楽しみたいけれど、人込みは苦手……。わざわざ出かけるのも面倒だし……。」という方は、朝の散歩がてら、あるいは通勤途中に紅葉を楽しむのはいかがでしょうか? いつもの見慣れた光景が、色づいた木々の葉の効果で、違って見えるかもしれませんよ。
主な参考文献
- ・『日本大百科全書』 小学館 「紅葉」「紅葉狩」の項目など
- ・『江戸名所花暦(江戸名勝図会 第4)』 有朋堂書店 1927年
- ・放送現場の疑問・視聴者の疑問 なぜ紅葉「狩り」?(NHK放送文化研究所)
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