個性豊かな神々が描かれた話がよく取り上げられ、天の岩戸の話をご存じの方も多いかもしれません。
今回の連載では一味違った切り口で神々を取り上げます。知ると意外、もっと知りたくなる日本神話の世界へ!
第一回 日本の神はボッチ説!?
2021年ももう年末、まもなく新年がやって来る。
忙しなくも華やかなこの時期、いつにもまして寒風骨身に泌みるのが独身者というものだ。
それでなくても世間の目は独り者に厳しいというのに、クリスマスやお正月ともなると「主役はカップルとファミリーだ! シングルはそこらへんの草でも食っておけ!」と言わんばかりの光景が広がる。
つらい。
だが、独り者は本当に周縁に追いやられるべきマイノリティなのだろうか。
否。
我が日本国は独り身こそ正しいあり方であり、誇り高き神の道であった。
私はそう主張する。いや、絶対そうだ。そうに決まっている。
むろん、根拠はある。
日本人の心のふるさと、日本神話だ。
たとえば『古事記』と『日本書紀』はこんな風に始まる。
天地初めて発けし時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。この三柱の神は、みな独神(ひとりがみ)と成りまして、身を隠し給いき。
(中略)宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。次に天之常立神(あめのとこたちのかみ)。この二柱の神もまた、独神と成りまして、身を隠したまいき。上の件の五柱の神は別天神(ことあまつがみ)。
(古事記)
古に天地いまだわかれず、陰陽分かれざりしとき、(中略)天地の中に一物生れり。かたち葦牙(あしかび *植物のアシの芽)のごとし。すなわち神となる。国常立命(くにのとこたちのかみ)と号す。次に国狭槌尊(くにのさづちのかみ)。次に豊斟渟尊(とよくもののかみ)。すべて三柱の神います。乾の道(あめのみち)、独り化す。
(日本書紀)
あえて原文読み下しで引用してみた。
この一節、記紀双方で神名や数に食い違いはあるものの、一点だけ揺るぎなく一致する点がある。
それは、始原の神々は独り神、つまりシングル神だったとする点だ。さらにさらに『古事記』では「神々はそのまま引きこもった」とまで言うではないか。
ボッチの引きこもり。
これこそ、我が国の始祖たる神々が選んだ在り方だったのだ。とするならば、敷島の大和心を正しく継承しているのは我々独り者ということになるではないか。
日の本の道とはボッチ道と見つけたり!
……で、終わらそうと思ったのだが、神話資料を読みすすめるうちに、どうにも不穏な記述を見つけてしまった。なんと、これらの神々にはある疑惑がつきまとっている、というのだ。しかもその疑惑は、「日の本の道とはボッチ道」と喝破した私の論拠を崩してしまいかねない、重大な問題をはらんでいた。
これは大変だ。真相を探らねばならない。私は急遽調査団を組織した。団員はもちろん私一人である。
そもそも名前が違う謎
さて、本題に入る前に『古事記』と『日本書紀』の成り立ちを確認しておこう。
教科書なんかだと『古事記』は和銅5年(712)、『日本書紀』は養老4年(720)に成立した史書で、うち『日本書紀』は正式な歴史書、いわゆる「正史」と説明される。近頃は成立年や成立背景に色々と異論があるようだが、ひとまずそれは置いといて、現存する最も古い記録は『古事記』、成立はちょっと遅れたけど公的記録として権威を与えられたのは『日本書紀』という一般的な認識を前提に話を進めたい。
さて、この二書は先ほど引用した通りの文章で始まるが、ここで最初の疑問が生じる。
同じ国の神話なのに、なぜ登場する神の名が違うの、と。普通に考えれば同じ神話なら同じじゃないとおかしい。もしかして『古事記』の天之御中主神は『日本書紀』の国常立命と同じ? と思いきや、そうでもない。国常立命は、『古事記』では6番目に登場するからだ。
ならば、『日本書紀』の編者が最初の五柱の神々を知らなかっただけなのかというと、それもまた違う。「一書に曰く」つまり「別資料によると」と前置きした上で、天之御中主神&高御産巣日神&神産巣日神が最初に生まれた神ですよ、と紹介しているのだ。
どっちやねん! である。
それにしても『古事記』で「造化の首(ぞうかのはじめ)」、つまり万物生成の根元神とまで謳われている神々を「*諸説あります」扱いする『日本書紀』って一体……。記紀双方の編者の仲が悪かったのだろうか?
ちなみに『古事記』は別天神五柱にプラスして、国之常立神(くにのとこたちのかみ)と豊雲野神(とよくものかみ)までが独り神だった、とする一方で、『日本書紀』の国狭槌尊に相当するらしき神格は「独り化す=一人で勝手に湧いて出た」神々の中には入っていない。もうちょっと後に出てくる。
なんだかなあ。もうちょっと矛盾がないよう、お互い話を突き合わすことはできなかったのかしら? という気もするが、実はできなかったようなのだ。
『日本書紀』には「一書に曰く」が頻繁に出てくるが、それはつまり、編纂段階で「切り捨てるわけにはいかなかった諸説」がたくさんあったことを意味する。 八世紀頃の「日本神話」は、内容の統一が取れておらず、とっ散らかっていたのだ。
となると、最初の神々もボッチではなかった、なんてことが書いてある資料もあるのでは……。
戦々恐々としながら『日本書紀』の「一書曰く」を追っていくと、表記や読み方が微妙に違う神々が並ぶものの、ボッチ説を否定する記述はない。『日本書紀』ではスタートから三代まで、『古事記』に至っては七代までの神々が独身者だったのは間違いないようだ。
よかった。やっぱりボッチの国なんじゃん。
と、安心したのも束の間、浮かび上がってきたのがさきほど少し触れた「疑惑」だった。なんと別天神五柱の神々には「新しく創作した神」がいる、という説を見つけてしまったのである。
一体どういうことなのか。もし創作神だとしたら、私の「日本は独身の国」説が根っから覆されてしまう。これは大変。調査団はさらに調べを尽くすべく、ジャングルの奥地に入ることにした。
(つづく)
▼シリーズはこちら!