豊臣秀吉と徳川家康・秀忠・家光に仕えた戦国武将の伊達政宗(だてまさむね)。実は大事な戦に遅刻をしたり、謀反の首謀者として問い詰められたり、その人生には際どいシーンが何度もありました。にもかかわらず、天下人から許され、重用され続けたのはなぜなのでしょう。伊達政宗のしたことや波乱万丈の生涯をわかりやすく解説します。
名家のぼんぼん梵天丸、5歳の名言
伊達政宗は1567(永禄10)年、米沢城主伊達輝宗(てるむね)と正室の義姫(よしひめ)との間に生まれました。伊達家は源頼朝の奥州征伐に従軍し、伊達郡をたまわった歴史のある武家。その17代目となるべく生まれた政宗は、幼名を梵天丸(ぼんてんまる)といいました。ちなみに伊達の読みは、江戸時代までは「いだて」だったそうです。
梵天は神の依代(よりしろ)として古来、祭礼などに用いられてきた御幣(ごへい)の一種。義姫があるとき「『これを育てるように』と僧から梵天を預かる」という夢を見たのちに、子どもを授かったのが名前の由来といわれています。生まれる前から神のご加護があったということかもしれません。
また、5歳のときに寺で不動明王の像を見た梵天丸が「なぜこのように猛々しい顔をしているのか」と尋ね、そばにいた僧が「不動明王は外見は猛々しいけれども慈悲深く、民衆を救おうとなさっているのです」と答えると、梵天丸は納得。「武将が目指すべき姿と同じだ」とつぶやいた……と江戸時代の末頃にまとめられた『名将言行録』にはありますが、最後のこの一言はどうやら脚色。でも、とても利発な子どもだったことは確かなようです。
若き独眼竜が、奥州を席巻
政宗は幼いころに疱瘡(天然痘)にかかり、右目の視力を失っています。そのせいか恥ずかしがりやな一面があり、家臣からは政宗よりも弟の小次郎を跡継ぎに推す声もあったそう。義姫もまた弟をかわいがり、跡継ぎにと望んだといわれています。
けれども父の輝宗は政宗の才能を見抜き、後継者として譲りませんでした。政宗は11歳で元服し、13歳で隣国の田村氏の娘、愛姫(めごひめ)と結婚。1584(天正12)年に18歳で父から家督を譲られ、伊達家の当主となります。
政宗が家督を継いだ1584(天正12)年は、信長亡き後に勢力を広げていた秀吉と、それに対抗する織田信雄(のぶかつ)・家康の連合軍が小牧・長久手で戦った年です。政宗の周囲では、最上氏、南部氏、相馬氏、蘆名(あしな)氏……と様々な勢力が領地争いをしていました。
二十歳そこそこの政宗は、戦に戦を重ねて勢力を拡大。米沢城から会津黒川城へと拠点を移しています。
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のちに畏敬を込めて「独眼竜」という異名で呼ばれることになる政宗。昔は目の不自由な人は、一般の人には見えないものを見通す霊力を持つという考え方がありました。失われた目をも、武将としての力に変えたに違いありません。その目は、関東への進出を見すえていました。
秀吉の小田原攻めに大遅刻、その理由は……
しかしすでに、秀吉が天下統一に王手をかけています。関東の北条氏を倒すために、全国から兵を集めて小田原攻めを行ったのが、1590(天正18)年のこと。秀吉は53歳、政宗は24歳でした。
秀吉から再三、小田原攻めへの協力を求められながらも、政宗はすぐには従っていません。自らの手で戦国の地図を塗り替えたかったのでしょう。けれどもここで秀吉に背けば、次に討たれるのは自分。
政宗は秀吉の傘下に入る覚悟を決めて、小田原へ発つ決心をします。が、そこで思わぬトラブルが発生。
出発の前に義姫のもとへあいさつに行き、そこで食事をふるまわれた後で、激しい腹痛とともに倒れるのです。
解毒剤を飲んで一命をとりとめた政宗。母が息子に毒を盛ったのでしょうか?
義姫は隣国出羽の最上氏の娘で、親戚関係ながらも最上氏と伊達氏は一触即発の状態でした。義姫が弟を跡継ぎに押したのも、母の愛情うんぬんではなく、内から伊達家を崩そうとする最上家の考えという説が有力です。
もしかしたら義姫は実家から、政宗の小田原行きを足止めするようにと命じられていたのかもしれません。
義姫が毒を持ったという事実はないという説もあり、真実はわかりません。
このとき、政宗は母ではなく、弟を殺してから小田原へと発っています。
死を覚悟して、利休の稽古をリクエスト
遅れて小田原に到着した政宗を詰問したのは、秀吉の家臣団です。秀吉に直接会って弁明をする機会は、すぐには与えられませんでした。
しかしその状況で政宗は「(小田原攻めに従軍している)千利休に、茶の湯の稽古をつけてほしい」とリクエスト。その報告を受けた秀吉は「田舎者にしては面白いやつだ」と政宗を気にいったようです。
そして秀吉との面会の日、政宗は死装束に身をつつんで遅参を謝罪。秀吉は政宗の首を杖でつついて「もう少し遅ければ、ここが危なかった」と許したといいます。
その後、秀吉は「奥州仕置」といわれる領地の再編成を実施。小田原攻めに協力しなかった武家は改易(取り潰し)や、減封(領地の一部取り上げ)となりました。政宗も当時拠点にしていた会津を没収されて、米沢城に戻っています。
戦国時代の日本の中央は、京都を中心とする畿内です。関東は田舎、東北はもっと田舎。政宗は田舎者というコンプレックスをばねにして茶の湯や和歌の腕を磨き、天下人となった秀吉や家康をはじめ、戦国大名らと交流を深めていきます。
ところが、政宗が九死に一生を得たのは、小田原攻めに大遅刻をしたこの一件だけではありませんでした。
お仕置の翌年、一揆の首謀者となる
1591(天正19)年、奥州仕置で領主が変わったばかりの大崎・葛西(岩手県南部)で一揆が起こりました。政宗は一揆を平定しようとしますが、同時に政宗こそが一揆の首謀者だという噂が流れます。その証拠となる政宗の直筆の手紙が、秀吉のもとに届けられていました。
政宗は再び死装束をまとい、金箔を施した磔(はりつけ)柱を行列の先頭に立てて、秀吉のもとへ向かいます。そして「花押の鶺鴒(せきれい)の目に針で開けた穴がないから、この手紙は偽物です」と弁明をするのです。花押というのはサインのようなもので、鶺鴒というのは鳥の一種。政宗は直筆の手紙には、鶺鴒の目に針で穴を開けていたというのですが……。
この言い訳は苦しいものでしたが、秀吉はその堂々とした態度を評価して政宗を許し、一揆の平定を命じて奥州へ帰しました。
ただし、秀吉も警戒は怠りませんでした。政宗を米沢から一揆で荒れた大崎・葛西へ転封(領地替え)にしたのです。先祖代々の土地から切り離すことで、力を削ごうとしたのでしょう。
ド派手な衣装で朝鮮出兵へ
関東から奥州まで支配を広げて、天下を統一した秀吉が次に行ったのが朝鮮出兵です。1592(文禄1)年から始まった文禄・慶長の役に出陣するために、政宗も兵を率いて上洛しました。そのときに足軽までもが黒塗りに金で星を描いた具足をつけて、刀の鞘は銀や朱、頭には金のとがり笠。馬上の侍たちはさらに豪華な鎧を身につけ、馬にも豹や虎の毛皮で作った馬鎧を着せていたことが大きな話題に。
伊達勢のきらびやかさに京の人々が驚いて、「伊達」という言葉を「格好をつけた」「派手な」という意味で使うようになったという説があります。
実際には、格好をつけることを「だて」ということは、この出来事の以前からありました。また、当時は伊達を「いだて」と呼んでいたので、俗説と考えられます。
豊臣秀次失脚の巻き添えで、転封の危機
1595(文禄4)年、秀吉は跡継ぎとしていた甥の豊臣秀次(ひでつぐ)を、謀反の疑いで処分しています。秀次と親しくしていた政宗も関与を疑われ、罰として今度は伊予国(愛媛県)への転封を命じられました。
『名将言行録』によると、政宗はなんとか秀吉にとりなしてもらえないかと、家康に相談をしています。
秀吉の使者が「早く伊予国へ引っ越せ」と政宗のもとへ催促に行くと、家臣たちは弓や鉄砲、槍や長刀で武装をして、今にも打ち出でんばかり。
そこに丸腰の政宗が現れて「自分としては、伊予国に移ることで秀吉の怒りがとけるならそうしたい。けれども家臣たちがこの通り、どうしても納得してくれないのです」とはらはらと涙を流しました。
これが作戦。家康は「このまま転封を断行すれば、奥州の家臣たちが反乱を起こしかねない。ご赦免を考えては」と秀吉にとりなしたといいます。
関ケ原の戦いで裏切り? 百万石が水の泡
1598(慶長3)年に秀吉が亡くなり、家康の天下取りの戦となった関ケ原の合戦が1600(慶長5)年。家康は政宗に宛てて、協力すれば現在の58万石に加え新たに約50万石の領地を約束するという、いわゆる「百万石のお墨付き」を出しています。
政宗は関ケ原での合戦には参加していませんが、東軍として上杉景勝と戦いました。けれどもその最中に、奥州で勃発した和賀一揆を支援。政宗は関ケ原の戦いがもっと長引くと考えて、どさくさのうちに勢力拡大を狙っていたようです。
それを家康にとがめられて、百万石の約束は取り消しに。
政宗のこの、飽くなき野心。
もうお気づきの人もいるでしょう。政宗は小田原攻めに遅刻をしたから「遅れてきた武将」なのではありません。もう少し早く生まれていたら歴史を大きく変えていたかもしれない「戦国時代に遅れて登場した武将」なのです。
仙台62万石の大名となり、安泰と思いきや
百万石は実現しませんでしたが、関ケ原の戦いの後で政宗はかねて希望していた仙台城へ拠点を移し、江戸時代には62万石の大名、陸奥守(むつのかみ)としてその地位を確かなものにします。ところが、ひやりとする事件がまた発覚。それが1613(慶長18)年に発覚した大久保長安(おおくぼながやす)事件です。
大久保長安は江戸時代の初期に代官として石見、佐渡などの鉱山開発を手掛け、徳川幕府の財政を支えた人物。亡くなってから、隠し財産とともに幕府への謀反を計画する書状が見つかったのです。
その計画の中で新しい君主として名前が挙がっていたのが、家康の六男だった松平忠輝(まつだいらただてる)。政宗は長女の五郎八姫(いろはひめ)を忠輝に嫁がせていました。
この事件で長安の子息は処刑され、忠輝は流罪になっています。が、政宗はお咎めなし。五郎八姫を離縁させて取り戻しています。
家康が病に倒れたのは、この事件がまだ世間を騒がせている最中です。亡くなる前に枕元に政宗を呼んで「後を頼む」と遺言したというから、驚きませんか。ちなみに2代将軍の秀忠も、亡くなる前に政宗を呼んで後事を託し、3代将軍の家光にいたっては、幼いころから政宗を慕っていたといいます。
政宗が天下人から信頼されたのは、なぜなのでしょう。
また、野心はいつか、ついえたのでしょうか。
思わずにやりとするエピソードがたくさん
『名将言行録』には、晩年の政宗と家光とのこんなエピソードが記されています。
江戸城では腰の大小2本の刀のうち、大きな刀は外すのがルールでした。政宗は大ぶりの脇差(小刀)を好んでいたため、将軍の側に上がるときにはそれもわざわざ外していたといいます。
政宗が必ず脇差を置いてくる姿を見て、家光は「政宗であれば何も心配はない。老体なのだし、わざわざ脇差を置いてこなくてもよい」と帯刀を許します。
その言葉に感動した政宗は、酔っぱらって将軍の前で大いびき。その隙に家光の近習がそっと刀を調べたところ、中身は木刀に変えてあったというもの。
他にも、政宗が将軍家の鷹狩り場に忍び込んで家康と鉢合わせをしたという話や、江戸城でたまたま行き会った20歳も年下の譜代大名、酒井忠勝に「相撲を一番」とふざけて組み付いたという話など、笑ってしまうようなエピソードも紹介されています。
『名将言行録』は幕末の舘林藩士、岡谷繁実がまとめた戦国武将の逸話集です。一部脚色がされていたり、現在では信憑性が薄いとわかっている伝聞も収録されているものの、きっと政宗にはこんな風に人が思わず気をゆるめ、心を許したくなるような一面があったのではないだろうかと思わせてくれます。
政宗が亡くなったのは1636(寛永13)年、70歳のとき。床についてからも、家光や諸大名らが見舞いを差し向けるたびに起き上がって裃(かみしも)を付けて迎えたので、体調が回復する暇がありませんでした。
辞世の句は、「曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」。
闇夜に金色の光をさして、かっこよく去っていく背中が目に浮かぶようではありませんか。
参考書籍:
名将言行録(岩波書店)
人物叢書 伊達政宗(吉川弘文館)
秀吉、家康を手玉にとった男「東北の独眼竜」伊達政宗(マガジンハウス)
伊達政宗の手紙(新潮選書)
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典
国史大辞典