新選組幹部メンバーの中で、わずかに幕末を生き残った剣士がいます。そのひとりが永倉新八(ながくらしんぱち)。有名な沖田総司(おきたそうじ)をしのいで、実は新選組最強だったともいわれる人物です。
幕末の京都で、徳川幕府の政治を批判し天皇をもっと尊重すべきだとする尊王攘夷(そんのうじょうい)・討幕派の志士たちを取り締まった新選組。隊長の近藤勇(こんどういさみ)、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)がいざというときに背中を預けた男が、成し遂げたこととは。
8歳で神道無念流に入門
永倉新八は1839(天保10)年生まれの幕末の武士。本来の姓は長倉で、松前(福山)藩に仕え、江戸に定住し幕府との連絡係をつとめる家に生まれました。わんぱくな子どもだったといい、8歳で剣術の名門、神道無念流(しんとうむねんりゅう)に入門すると、メキメキと腕を上げていきます。
19歳で脱藩し、ぶらり剣術修行
松前藩では次男、三男は元服後も修行として剣道の塾に通うことができましたが、跡継ぎにはそれが許されていなかったそう。永倉新八は次男でしたが、兄を早くに亡くしていたため、事実上の跡継ぎという扱いでした。
剣術修行を続けたかった永倉新八は、19歳のときに藩邸を出て道場に住み込んでしまいます。いわゆる脱藩、名字を永倉と変えたのはこのときからです。
近所の道場に寝泊まりをしているだけと大目に見てもらえたのか、とくに松前藩からのお咎めはなかったもよう。
24歳、近藤勇らとともに京都へ
道場から道場へと渡り歩いて剣術修行をしていた永倉新八は、やがて当時の新流派だった天然理心流(てんねんりしんりゅう)の道場、試衛館(しえいかん)で近藤勇らと出会い、意気投合。
1863(文久3)年、25歳のときに将軍徳川家茂(いえもち)が上洛する際の警護役として、幕府が募っていた浪士隊に参加し、仲間とともに中山道をのぼって京都に入ります。
京都には尊王攘夷の志士たちが集まって、不穏な空気を醸し出していました。
そこで京都守護職として治安維持にあたっていた会津藩主、松平容保(まつだいらかたもり)は、浪士隊から新選組を組織して、町のパトロールをまかせます。
永倉新八は創立メンバーとして新選組に参加し、隊長の近藤勇や副長の土方歳三からの信頼厚い副長助勤(補佐)をつとめました。
八月二十一日、従天朝新選組ニ市中取締被仰付、若シ手余リ候節は切捨御免、依テ壬生旅宿江呼出シ、右之段申渡ス。
永倉新八の日記『浪士文久報国記事』より
新選組が松平容保から市中取締りを命じられた日の記録
池田屋事件で大活躍
新選組の名を世にとどろかせた池田屋事件は1864(元治元)年。尊王攘夷派の志士たちが集まってクーデターを企てていた旅籠を新選組が襲撃、制圧するのです。永倉新八も近藤勇や沖田総司とともに刀をふるい、死闘を繰り広げました。
明治維新を数年遅らせたといわれるこの事件で、新選組は松平容保から功績を称える「感状」とともに、特別ボーナスをもらっています。また、新選組の駐屯所が京都の壬生(みぶ)にあったことから、泣く子も黙る「壬生の狼」と呼ばれる存在に。
川端タ三条小橋北側ニテ池田屋ト申旅籠屋アリ、右ノ内ニ長州人居ル趣、表廻リハ厳重ニ固メ、夫レヨリマカリ(マカリの字は、門に内)イル人ハ近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助……
『浪士文久報国記事』より
池田屋事件当日の記録
1865(慶応1)年、新選組は副長助勤が小隊を率いるスタイルに組織を改編します。永倉新八は二番隊組長に。また、一番隊組長の沖田総司、三番隊組長の斎藤一(さいとうはじめ)らとともに、隊士たちの剣術師範もつとめています。
この3人が剣術では新選組のトップ3。沖田総司がナンバーワンという声もありますが、3人の実力は拮抗していたようです。
永倉新八が最強といわれることがあるのは、元新選組メンバーだった阿部十郎(あべじゅうろう)という人物が、のちに「沖田が近藤勇の一番弟子、その次が斎藤。永倉は沖田よりもちと稽古が進んでいた」と語ったことに由来しています。
鳥羽・伏見で決死の切り込み
1867(慶応3)年に徳川慶喜(よしのぶ)が政権を朝廷に返還(大政奉還)、薩長討幕派が王政復古の大号令で新政府の成立を宣言。1868(慶応4/明治元)年に新政府軍と旧幕府軍との戊辰戦争が始まります。
新選組も旧幕府軍として戊辰戦争に参加。鳥羽・伏見の戦いでは指揮をとっていた土方歳三に頼まれて、永倉新八率いる決死隊が新政府軍に切り込んだという記録があります。
土方申ニハ砲戦ニテハ勝負不決、依テ永倉右土屏を乗越シ切込呉ろと申ニ附、速ニ組共ニ屏を越…
『浪士文久報国記事』より
伏見奉行所での新政府軍との戦いの記録
旧幕府軍は追い込まれながら各地を転戦し、やがて新選組もバラバラになっていきます。永倉新八は近藤勇と別れ、仲間と靖共隊(せいきょうたい)を結成して会津で戦おうとしますが、まもなく会津若松城が落城。農民に変装して江戸に戻り、潜伏します。新選組の結成から5年、永倉新八30歳の苦境でした。
この年に、近藤勇が新政府軍に捕らえられて板橋で斬首。土方歳三は翌1869(明治2)年まで戦い、函館の五稜郭で戦死を遂げます。
新選組を弔い、穏やかな日々を過ごす
数少ない新選組の生き残りとなった永倉新八は、1871(明治4)年に松前(福山)へ身を移し、藩医の杉村松柏(すぎむらしょうはく)の婿養子となっています。杉村義衛(よしえ)と改名し、その後北海道の小樽に移住して、剣道の師範などをつとめました。
旧幕府軍戦没者の慰霊が許されたのは、1874(明治7)年。
永倉新八は近藤勇が亡くなった板橋に墓碑をつくる許可を得るために、水面下で奔走しています。新選組殉難者慰霊墓として完成したのが1876(明治9)年。正面に近藤勇、土方歳三の墓と大きく刻まれ、側面には亡くなった隊士たちの名前も刻まれていました。
晩年は子どもや孫に囲まれて穏やかな日々を過ごし、1915(大正4年)に77歳の生涯を閉じます。
『新選組顛末記』と消えた戦場日記
永倉新八が70代になってから、小樽新聞の取材を受けて新選組の思い出を語った連載記事があります。それを1冊にまとめた本が『新選組顛末記』。
「昔は近藤勇のともだち、今は小樽に楽隠居」という永倉新八の紹介から始まり、仲間との出会い、新選組の誕生、戦いのシーンなどが生き生きとまとめられた、貴重な記録です。
40年以上も昔の記憶を詳細に辿ることができたのには、理由がありました。慰霊墓をつくろうとしていた時期に、新選組の行動を振り返って整理し、時系列の日記にまとめていたのです。それが『浪士文久報国記事』。
しかし、あるとき日記を人に貸したところ、そのまま行方知れずになってしまったそう。
幻となっていた『浪士文久報国記事』の写しが見つかったのは、1998(平成10)年のこと。
幕末の歴史を補う、世紀の発見といわれました。
幕府のため、国のためと信じて幕末を駆け抜けた新選組。しかし明治維新のあとしばらくは、旧幕府軍で戦って生き残った隊士たちは謹慎となり、亡くなった隊士たちの慰霊も許されませんでした。
政変でオセロのようにひっくり返った世の中。勝者が歴史を塗り替えることは、いつの時代もあることです。
それでも永倉新八は生き残った身として、書かずにはいられなかったのでしょう。
日記を読むと、自身を「永倉」と三人称で書いていることから、第三者が読むことを想定して、新選組の歴史を後世に残すために書かれたものであることが伺えます。
埋もれてしまいかねなかった貴重な歴史のピースは、流れ星のようなきらめき。それを伝えてくれる記録に感謝。
▼『新選組顛末記』はこちら
新撰組顛末記 (角川新書)
参考書籍:
新選組永倉新八のすべて(新人物往来社)
新撰組顛末記(KADOKAWA)
新選組日記(PHP研究所)
浪士文久報国記事(中経出版)
日本大百科全書(小学館)
世界大百科事典(平凡社)
国史大辞典(吉川弘文館)
日本人名大辞典(講談社)
*記事中の永倉新八の年齢は、生まれた年を1歳とする数え年で記載しています。
*『浪士文久報国記事』からの引用部分は、一部漢字をカタカナに置き換えています。