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Culture
2022.02.02

桃山時代は現代にも通じる?信長・秀吉・家康の育んだ豪華絢爛な文化の裏側に迫る

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江戸時代、京都・伏見城址に植えられた夥(おびただ)しい桃の木は開花のころになると洛中洛外から「桃見」を楽しむ善男善女を集めた。いつしか人々は香(かぐわ)しい桃園を抱く伏見山を「桃山」と呼ぶようになったという。

伏見城を築いた豊臣秀吉の政権時代とその前後(範囲については諸説あり)が「桃山時代」と呼ばれるようになった所以(ゆえん)である。この時代に栄えた華やかな文化が桃山文化と呼ばれ、今も定着しているのは、絢爛と咲き匂った文化の花が派手やかな桃の印象と重なるからであろう。

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芸術学の第一人者で神戸大学名誉教授、倉澤行洋氏は著書『桃山の美とこころ』(非売品)で戦国時代の武士が合戦ばかりでなく、芸術面にも深く関わっていたことの意味合いを説いている。同書の一部を倉澤氏の許諾を得て再構成した。

倉澤行洋氏

2022年3月には同書を下敷きとする特別展『桃山の美とこころ「信長、秀吉、家康の遺したもの」』が名古屋で開かれる。

相反する極の趣が並存していた桃山時代

――倉澤先生にとって「桃山時代」とは。

倉澤(以下省略):桃山時代という呼び名は秀吉が築いた伏見城の雅称「桃山城」に由来します。そう呼ばれるようになったのは江戸時代以降です。当然のことながら、豊臣時代に伏見城はあっても桃山城はなかったわけですね。時代の捉え方としては、織田信長の活躍したいわゆる安土時代から江戸時代初期の寛永ごろまでを桃山時代と考えています。

――桃山文化というと、条件反射的に絢爛豪華という言葉を思い浮かべがちですが。

伏見城の建物の屋根には金箔瓦が多用されていました。日光や月光を浴びて輝くと建物全体が金色に縁どられて見える。黄金色に輝く城が付近の川や池に影を落とし、水波に照り映える有様はさぞかし壮観だったと思います。

主な建物の内部の壁や襖(ふすま)には金地に極彩色の豪華な絵がいたるところに描かれていました。調度にも贅を凝らした豪華なものが多かった。あたかも全山満開の桃山の春を思わせるような華麗・豪奢な趣に満ちていたわけです。

一方、この城には華麗や豪奢とは反対の趣もありました。「花爛漫の春」に対する「雪間の草の春」、「花紅葉」に対する「浦のとまや」の趣です。例えば、山里や学問所などと呼ばれた郭(くるわ)には樹木がうっそうと生い茂り、点在する建物もたいていは田舎家風の素朴で簡素な数寄屋でした。

――反対の趣が並存するのは桃山時代特有ですか。

いずれの時代にも多かれ少なかれ見られることです。しかし、桃山時代は際立って顕著でした。それは、この時代が中世から近世へという大きな転換期であったことと非常に関係が深いと思います。

一般的に、文化はその中に含まれる反対の極の種類が多ければ多いほど、彩り豊かで活気に富んだものになります。従って、反対の極の種類が他のどの時代より多い桃山時代は、どの時代にも増して彩り豊かで活気に満ちていたといえるのです。

――『桃山の美とこころ』では「反対の極」が13種紹介されていますね。

桃山文化の中で、特に芸術に関して見られるものを選んで章立てしました。
「公家と武家」「南蛮物と和物」「花と雪間の草」「豪壮と優婉(優艶)」「閑寂と変化」「懐古と求新」「キリシタンと禅」「天下人と民衆(沈静と躍動)」「御殿と草庵」「金碧と水墨」「花紅葉と冷え枯るる」「遠心と求心」「秀吉のわびと利休のわび」の13種です。

いずれも、この時代を特徴づける鍵言葉ですが、スペースの関係でそのすべてを詳しく論ずることができないので、いくつかピックアップしてみましょう。

桃山時代は、反対の極の種類が他のどの時代より多かった! そんな視点から考えてみると、今までとまったく異なったものが見えてくるような気がします。

【花と雪間の草】

桃山時代を四季に例えるなら最も相応しいのは春。中世の鎌倉・室町時代は晩秋から冬です。桃山時代に流行した金地濃彩『金碧障壁画』は信長にも秀吉にも愛されました。利休の美意識は中世の基調である「冷え」。彼は春をイメージする桃山に生き、春の盛りとは異なる気分を保って生きていたといえます。

【豪壮と優婉】

猛(たけ)きものを求める志向が強ければ強いだけ、優しきものへの志向も強まります。獅子が絵の主役に描かれたのは桃山からで、かなり新鮮な試みでした。新しい力の象徴です。狩野長信の『花下遊楽図』は甘く温かく優しきものへの志向です。あくまで健康的で清澄、高雅で高い気品を失いません。

【懐古と求新】

新しきものへの憧れが強ければ強いだけ、古きものへの哀惜が強まるのが人間の自然です。例えば、異国のうちでも初めて欧州の人の姿を見た人々の驚きは一様ではなかったはずです。“南蛮(※)渡来”の文物や品物は多方面に“南蛮趣味”の流行をもたらしました。信長と秀吉がそれらを愛好したことが普及に拍車をかけました。

※安土桃山時代から江戸初期における、主として欧州の総称。

【沈静と躍動】

秀吉は「能」や「茶の湯」の沈静を好みました。その秀吉の、何事にも熱を入れるエネルギーの根底にあるのは生い立ちの中に浸み込んだ躍動のこころでしょう。秀吉はしきりに能を興行したばかりでなく、能面への関心も相当なもので「雪の小面(こおもて)」を殊に愛用したと伝えられています。

能面「雪の小面」 伝豊臣秀吉所用 金剛家所蔵

【金碧と水墨】

桃山時代には現実をそのまま肯定する態度が強まり、当世風俗を描く風俗画が増加しました。従って、金碧画や濃彩画が盛んに行われました。一方で、中世からの志向もなお強く残っていて、長谷川等伯の『松林図』のような精神的深みのある水墨画も生まれています。

【花紅葉と冷え枯るる】

桃山時代の美意識には「華やかさ、艶(なま)めかしさ」を志向する流れと「冷え」ないしは「冷え枯るる」を良しとする流れがありました。「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ」(藤原定家)は、見えるものは苫屋ばかりだが、花や紅葉よりも一層艶めかしい趣きがあると詠んでいます。

信長、秀吉、家康の性格が色濃く反映

――桃山文化は信長、秀吉、家康によって育まれたと言われます。それぞれの関わりをどう見ますか。

桃山という時代をつくるにあたって、三者三様に影響を与えたのは確かでしょう。しかし、その響き方は異なります。例えば、信長はその大きな変化を目に見える実力行使で貫いていった。秀吉は大勢の人を集めて新しいものをつくっていくことに大きな貢献をしています。自分がいろんな人生経験を積んでいるので人間を動かすのがうまいのです。

家康は自分があまり真正面に出ないで、部下を上手に使ってものをつくっていくタイプ。信長、秀吉がつくった新しい時代への方向に対して必ずしも自分が出るのではなく、優れた部下にやらせた。

鳴かぬホトトギスに対して信長が「殺してしまえ」、秀吉が「鳴くようにしてやろう」、家康が「鳴くまで待とう」と言ったという、3人の性格の違いを表す有名な比較そのものです。室町時代から江戸時代への転換が良い方向に進んだのは、まさに、こうした性格の違う3人がリーダーになったおかげではないかと思います。

――信長の「殺してしまえ」は性格ばかりでなく、時代背景もあったのでしょうか。

古代、中世で蓄積された日本の文化の成果を生かしながら、近世という新たな時代に展開していかざるを得ないという状況はあったと思います。それまでの時代が行き詰まったからです。そういう歴史的必然があった。

中世の延長ではにっちもさっちも行かなくなったのです。従来の伝統がそのまま生かせない中、大きな視野で従来の伝統をすっぽり受け入れるか、それとも蹴とばすか。とにかく強大な力を持つリーダーがどうしても必要だった。そんな時に現れたのが信長だったのです。まさに時代の申し子です。

従来の価値観が大きく変わり始めるというのは、令和の時代にも通じるところがありそうです。

信長は中世に生きていたら、あんな活躍をしなかったし、江戸時代になってからでも活躍できなかったと思います。まさしく、その時代が要請した人物として現れて、実際、その通りの働きをしたわけです。

――先生は3人が「茶の湯」「能」「武道」を「芸道」として自覚していたのではないかという見立てをしておられますね。

昔から、武術では技と同様に、こころを磨くことが重要とされています。茶の湯も能も同じように、形からこころを学び、こころから形を学びます。それは「姿からこころへ、こころから姿へ」という芸道の道とされています。恐らく、信長も秀吉も家康もそれを自覚していたと言えます。

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特に秀吉の場合は、修羅場を踏んで平和をもたらしたわけですから、技とこころを学ぶ大切さを知っているのです。実際、秀吉は最後の城、伏見城の中に学問所をつくっています。家来にも技とこころを学ばせようとしていたのでしょう。

さまざまなものが入り乱れた桃山時代

――3人の郷土が近いことと桃山文化との間になんらかのつながりはありますか。

三英傑と呼ばれる彼らが今の日本の中央から生まれてきたのは偶然ではないと思います。長らく日本の文化の中心であった京都、そして鎌倉の地域があり、その地理的な中間であった尾張・三河(共に現在の愛知県)。そこの出身である彼らが時代の要請に応えた仕事を遺してくれたのだと思います。

日本の長い歴史の中でも、桃山時代ほどさまざまなものが入り乱れている時代はなかったと思います。歴史を大きく捉えてみると、そういう時代が必要だったのですね。彼らの活躍は歴史の変化を求める何かが後ろにいて操っていたことによるような気がします。

それを「神」と呼ぶのかどうかは分からないけれど、偶然が重なったようでいて必然だった、と感じること、よくあります。

――今までになかった新たなものが入り乱れる一方で、変わらなかったものもたくさんあるように思います。

日本文化の伝統は特にそうですね。歴史を見るときにはどうしても、その時代に大きく変化してきたものに目が行き、クローズアップされがちです。しかし、そうした変化に関わりなく、底流として変化しないものがいつも続いてきています。

そこに目をしっかり注いでいくことができるかどうか。大切なのは、その時代の動きの中に埋没するのではなく、時代の動きを受け止めながら、前の時代からずっと継続している大事なものを捉えていくということです。江戸時代でいえば、松尾芭蕉が代表格でしょう。ああいう人が良き日本文化を継続させ、その一方で新しい文化をつくっていくことに貢献したと思います。

変わるものと変わらないもの、変えてはいけないものと変わっていくべきもの。様々な流れが過去から現在、現在から未来へと繋がっているのですね。

「雪の小面について」と題する特別講座も

――特別展『桃山の美とこころ「信長、秀吉、家康の遺したもの」』の見どころは。

「こころ」と「美」はそれぞれ独立したものではないことを訴えたいですね。「こころ」は「美」によって深まり、「美」も「こころ」によって深まるものだからです。互いに絡み合うことでさらに深まっていく。これが生きている芸術の大切なところです。

展覧会ではその「美とこころ」をわかっていただくために、さまざまなものをお見せします。その上で、人や事が学術や芸術研究を伝え、表現をする。来場者にそれを受け止めてもらえば大成功だと思っています。

名古屋能楽堂では「桃山芸術の映像投影によるデジタル展覧会」「信長・秀吉の朱印状の愛知県初公開」「大人の勉強会」などを予定。家康ゆかりの徳川美術館では「雪の小面について」と題する特別講座を開きます。

新型コロナウイルス禍でまだまだ先は見えませんが「花と雪間の草」のところででお話したように、雪の下には来たるべき春を待つ草が息をひそめています。この展覧会も、やがて訪れる平穏な時代に向けた希望につながることを願っています。

『桃山の美とこころ「信長、秀吉、家康の遺したもの」』

https://dentoubunka2021.com/

詳細は上記サイト内の「続きを読む」から。

【名古屋能楽堂】
特別展覧会:2022年3月26日(土)~3月27日(日)

【徳川美術館】
特別講座:2022年3月30日(水)

書いた人

新聞記者、雑誌編集者を経て小さな編プロを営む。医療、製造業、経営分野を長く担当。『難しいことを易しく、易しいことを深く、深いことを愉快に、愉快なことを真面目に』(©井上ひさし)書くことを心がける。東京五輪64、大阪万博70のリアルな体験者。人生で大抵のことはしてきた。愛知県生まれ。日々是自然体。

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人生の総ては必然と信じる不動明王ファン。経歴に節操がなさすぎて不思議がられることがよくあるが、一期は夢よ、ただ狂へ。熱しやすく冷めにくく、息切れするよ、と周囲が呆れるような劫火の情熱を平気で10年単位で保てる高性能魔法瓶。日本刀剣は永遠の恋人。愛ハムスターに日々齧られるのが本業。