Culture
2022.02.24

気分は徳川家康!鷹の優雅な姿と鷹匠の歴史を知ってタカ?

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野球の投手がボールを投げるように、子どもたちが左手を地面と平行に後ろから前へさーっと差し出す。それはサイドスローのフォームのよう。でも、左手に乗っているのは、鷹(たか)です。

鷹は優雅に羽を広げ飛んでゆき、30mほど先の木の枝に止まりました。しばらくして「はいっ!」と子どもたちが声をかけます。すると、鷹が木から飛び立ち、地面すれすれを滑走して、子どもたちの左手に戻ってきました。その姿は、鷹も、子どもたちも精悍で、かっこいい!

ここは、江戸川の河川敷。鷹を操っていた子どもたち──風音(かさね)ちゃん(13歳)、尊(みこと)君(10歳)、斎生(いつき)君(8歳)──は、川の近くにある「エキゾチックアニマル 鷹の庵(あん)」を経営する伊藤京介さんのお子さんたち。鷹を飛ばす「放鷹(ほうよう)」のデモンストレーションを見せてくれました。

え、子供でもできるの!? スゴ!!


「鷹の庵」は、鷹などに触れられるだけではなく、鷹を飛ばすなどの体験もできる関東では珍しい店。今回は鷹を扱う鷹匠(たかじょう または たかしょう)体験にチャレンジします!

鷹を放つ風音ちゃん(左)と尊君

鷹は地面すれすれを飛んで風音ちゃんのもとに戻ってくる



斎生君にとっては鷹はまだまだ大きい存在?

予約をすればロングフライト体験も 「鷹の庵」

「店を始めたのは4年ほど前。鷹匠体験は2年まえくらいから始めました」と話す伊藤さん。もともと動物好きで、次第に鷹やふくろうなどの猛禽(もうきん)類の魅力に惹かれるようになり、「鷹の庵」を始めたと言います。

鷹に魅せられた人は戦国時代にもたくさんいました。こちらの記事でも詳しく解説しています。


「鷹の庵」があるのは千葉県流山市南流山。JR武蔵野線・つくばエクスプレス南流山駅から徒歩約10分の流山街道沿いに店を構えています。鷹に触れあい写真撮影ができる「鷹匠体験」(500円)は予約不要。予約をすると、広い場所でのロングフライト体験(一人2000円、3名以上の場合一人1500円)も可能です。

エキゾチックアニマル 鷹の庵

そのほか、鷹に関連したさまざまな道具やエサ、「鷹の庵」の活動やイベントなどについてもホームページで紹介されていますので、まずはそちらをご覧ください。

子どもたちはいろいろな道具を身に着けていますが、基本的な道具のひとつが分厚いグローブ。左手にグローブを着けて、いよいよ鷹匠体験にチャレンジします。が、まずは鷹と人間の深くて長い歴史を簡単にご紹介。
エキゾチックアニマル 鷹の庵

日本に伝わったのは古墳時代?

鷹を訓練して狩りをする鷹狩りは、中央アジアで始まったと考えられています。鷹狩りの歴史を『考古学による日本歴史12 芸術・学芸とあそび』(雄山閣出版)を参考に見ていくと、鷹狩りが朝鮮半島から日本へ伝わったのは古墳時代の5世紀。同じ頃、ヨーロッパへも伝わっていきました。

日本では、北関東の後期古墳から「鷹匠埴輪」が出土していて、文献では715(霊亀元)年の『播磨風土記』に記されているのが最も古い鷹狩りの様子だとされています。

日本でも世界でも、鷹狩りは支配者が行うものでした。日本では豪族、そして天皇が鷹狩りを行っていましたが、歴代天皇の中でも最も鷹狩りを好んだのは桓武天皇とのこと。桓武天皇といえば平安京に遷都した天皇ですが、遷都の下見の際も鷹狩りをしていたのではと考えられているそうです。

神聖ローマ皇帝の鷹狩りの書

ちなみに、13世紀半ば、神聖ローマ皇帝でありシチリア王でもあったフリードリッヒ2世(1194~1250)も鷹狩りを趣味としていて、『鷹狩りの書 鳥の本性と猛禽の馴らし』という著作を残していますが、2016年に邦訳(吉越英之訳)が文一総合出版より出版されています。

鳥の構造や習性、狩りについてなど実に細かく記されているのですが、第1巻第1章が「鷹狩りはなぜ他の狩りより高貴か」というタイトルで、冒頭にこう記されています。

鷹狩りは狩りの一種であるが、それは疑いなく追跡の変化に富み、多岐に渡る技術で構成され、それぞれの技術は特殊な熟練を要する。その細分化された技術の全てを駆使して実施する鷹狩りを余は高貴な狩りと考える。


さらに、「鷹狩りの技術は人工的な補助道具や四肢動物に頼らず、ほとんど猛禽の助けだけで行うものであり、それは生き物でない道具や訓練した四肢動物で追跡する狩りよりも明らかに高尚なものである」とも記述。網や縄、落とし穴などの人工的な道具や、犬などを使う狩りよりも、鷹を訓練し操らなければならない鷹狩りは熟練するのが難しいだけに洗練されていると力説しています。

難しければ難しいほど燃える、という気持ちはよくわかります。

生涯で鷹狩りは1000回以上! 徳川家康

権力の象徴ともいえる鷹狩り。天皇や貴族がその中心となった平安時代から戦国、そして武士の時代となると、当然、鷹狩りは将軍のものへとなっていきます。

鷹狩りにおいては、当然、鷹が必要ですし、鷹の飼育、狩りをするため鷹の訓練も必要です。その役割を専門的に務めたのが鷹匠。鷹狩りを行った権力者の陰には、鷹匠の存在が欠かせないのです。

武士の中でも最も鷹狩りを好んだとされるのは徳川家康です。『徳川家康事典コンパクト版』(新人物往来社)によれば、家康は生涯において1000回以上の鷹狩りを行ったとのこと。大坂の陣に出陣の途中、また帰りの途中でも、家康は鷹狩りをしました(『将軍の鷹狩り』根崎光男/同成社)。

徳川家康って片手に鷹を持った銅像もありますよね。それくらい好きだったんだ。


そして、1604(慶長9)年には天皇や公家の鷹狩りを禁止。御三家や一部の大名(譜代大名など)だけに鷹狩りを許可し、全国統一者である家康は鷹狩りを統制することで、大名も統制したのでした。

あの将軍は鷹狩り禁止に! 復活させたのは?

家康は、鷹狩りは娯楽ではなく、遠く郊外に出ることで庶民の生活を視察し、自らの健康の増進も図るなど、さまざまな目的があると説明しています。鷹狩りをする場所は鷹場と呼ばれ、3代家光の時代になると鷹場制度の基礎が確立されたといわれます。

関東であれば、日本橋より5里四方、大雑把に言うと現在の都心以外はすべて幕府の鷹場となりました。鷹狩りが始まると、その地域の村では犬や猫はつないでおかなければならず、道や橋の修理も義務づけられたとのこと。いわゆる接待費が幕府から支給されたようですが、実際の出費はそれ以上で負担は相当なものでした。今もあまり変わらない“お上の接待”だったのでしょう。

鷹狩りは浮世絵にも数多く描かれている。歌川芳藤画「徳川十五代記瑠畧 十代将軍家治公鷹狩之圖」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)

しかし1696(元禄9)年、この鷹場が全廃されます。その命令を下したのは……、なんとなく思い浮かびますね、そう、5代将軍綱吉。「生類憐みの令」により、鷹狩りそのものが禁止となり、飼育されていた鷹は伊豆諸島で放たれました。

出ました「犬公方」様!


しかししかし、再び鷹場制度が復活します。よみがえらせたのは8代将軍吉宗。吉宗は「鷹将軍」とも呼ばれました。こちらもイメージ通りでしょうか。以後、幕末まで鷹狩りは続くこととなります。

明治以降の鷹狩りは?

明治時代になると、鷹狩りも鷹場も幕府の崩壊に伴って廃止されます。しかし、明治天皇の意向により、古い技術文化を守るため鷹狩りを含めた伝統的な猟が保存されることとなります。

1879(明治12)年、幕府の鷹匠だった諏訪流の第14代・小林宇太郎が宮内省の鷹匠となり、浜離宮や新宿御苑が鴨場として整備されました。

鷹匠にはいろいろな流派がありますが、そのひとつが諏訪流。「現代に伝承されている諏訪流は、織田信長に仕えていた小林家次が継承した技を基にしている」とされ、「小林家は後に豊臣秀吉、秀頼、そして徳川家康に仕え、以降は代々徳川将軍家に仕え」(『鷹匠の技とこころ──鷹狩文化と諏訪流放鷹術』大塚紀子/白水社)たとのこと。

ちなみに織田信長の娘婿・中川秀政は戦の途中に鷹狩を始めて亡くなったと伝わります。こちらで詳しく


諏訪流のルーツは長野県の諏訪湖周辺に4つの境内がある諏訪大社です。巨木を引き境内に建てる「御柱大祭」で有名な諏訪大社は、日本で最も古い神社のひとつ。鷹で捕らえた獲物を神に供える神事があり、鷹とのつながりが強かったと考えられています。この神事のため鷹を調教する技が伝えられたとされ、その鷹匠の技は諏訪流と呼ばれるようになりました。

鴨場とは鴨の猟をする場所。「鷹狩りにはいろんな獲物をねらったものがありますが、鷹と鷹匠がいちばん活躍する晴れの舞台が鴨場での鴨猟なんです」と『天皇の鷹匠』(草思社)で記すのは花見薫(1910~2002)。諏訪流第16代の鷹匠です。

諏訪流はその後、第17代田籠(たごもり)善次郎(1948~2021)、そして現在は『鷹匠の技とこころ』の著者でもある大塚紀子さんが第18代を受け継いでいます。

鷹と人との関係や鷹の調教、鷹匠についてはとても奥深いので、興味がある方は『天皇の鷹匠』や『鷹匠の技とこころ』を一読することをおすすめします。

鷹が自分に向かって飛んでくる!

「では、これを左手につけてください」と伊藤さんからグローブを手渡されました。いよいよ鷹匠体験です。

ただ「鷹匠」とはいうものの、扱っているのは「ハリスホーク」。日本名をモモアカノスリという鷹の一種で、日本にはいません。アメリカ南西部から南米にかけて主に分布しているとされます。現在の日本では、すべての猛禽類が鳥獣保護法などで保護されていて、捕獲や飼育は禁止されているため、かつての鷹狩りのようにオオタカ、クマタカなどを使うことはできません。

ちなみに、鷹といっても種類はさまざま。鷲(わし)も分類上はタカ目タカ科で、タカ目のうち大型が鷲、小中型が鷹。違いは大きさだけです。

大きさの違いだけなんですね。ブリとハマチみたいな?(釣り好き)


グローブをつけると、風音ちゃんが長い木のピンセットのようなものの先に、エサのうずらの肉片を挟み、左手に添えてくれます。ハリスホークを手に10mほど離れたところから、「それじゃあ、行きます」と伊藤さんが声をかけました。放たれたハリスホークが音もなく自分へ向かって飛んできます。そして、ふわりと左手に乗り、静かに悠々とエサをついばみました。

分厚いグローブをつけ、エサをセッティングしてもらう

手に止まって感覚は予想以上に優しい。爪は鋭いけれども

その姿は優雅そのもの。手に乗るときは衝撃があるかと思っていましたが、なんの威圧感もなく優しい感触です。こちらの方が「飛んできていただいている」といった印象。完全にハリスホーク、鷹の方が御主人様(?)のようです。

体験させていただいて、ありがとうございます。


天皇たちが、家康が、フリードリッヒ2世が魅せられたのは、その瞬間にわかりました。鷹が権力者たちに愛されてきたという文献上の知識、そして、人間と鷹が長く深い歴史的な関係を築いてきた事実は、この一度の体験で実感できたのです。

少し離れた土手の上からのロングフライトも体験。ハリスホークは悠然と大地にそって飛んできて、優雅さがさらに感じられます。斎生君と両手でつくった輪の中を飛んで抜けたり、自分の股の間を通り抜けたりもしてくれたハリスホーク。短い時間の体験でしたが、すっかりその姿にひとめ惚れしました。

土手からのロングフライト(土手に小さく見える人影がハリスホークを放った伊藤さん)。迫力はあるものの、こちらもふんわりと手に止まってくれる


今回のハリスホークは3歳で体調は30~40cm、体重は600~700g。思っていたよりも軽い感じがしました。ひなのときから訓練を始めるそうです。伊藤さんのお子さんたちも3、4歳の頃から触れ合い、練習を積んできたとのこと。技術だけではなく、自分のハリスホークの世話をずっと続けてきています。

日本ファルコナーズクラブ

今回は、伊藤さんのがお世話になっている鷹匠の金子和幸さんにも来ていただいていました。伊藤さんが「鷹の庵」を始める前にSNSで知り合い、今でもいろいろなアドバイスなどをいただいているそうです。

金子さんは19歳の頃から鷹匠の修業を始めすでに30年以上。知り合いに鷹匠の方がいたという環境もあり鷹に興味を持ち、この道に進んだとのこと。先に紹介した鷹匠、花見薫や田籠善次郎の指導も受けていて、1997(平成9)年に花見薫より直接、諏訪流鷹匠格の免状を取得。同年、ほかの鷹匠たちとともに「日本ファルコナーズクラブ(NFC)」を設立しています。同クラブは現在30名ほど。ホームページも新しく立ち上げられ、順次、内容を充実させていくとのことです。

10年ほど前から猛禽カフェが増えるなど猛禽類の人気は高くなってきて、猛禽類を飼いたいという人や鷹匠に興味を持つ人も増えてきているようです。ただし、猛禽類は安易に飼えるものではありません。「アメリカでは1羽あたりの飼育場所の広さなども厳密に決められていて、違反すると捕まります」。猛禽類に限らずペット全般に対する規則は、アメリカではかなり厳しいと金子さん。日本でもペットの問題は大きくなっていますから、今後その流れは広まってくるかもしれません。

何よりも、まずは猛禽類のこと、そして鷹匠のことを知ることが大切。鷹たちに触れたいという人には「鷹の庵」の鷹匠体験をおすすめします。鷹匠になりたいという人や興味を持っている人は、前出の書籍を読んだり、日本ファルコナーズクラブにアプローチしてみてはいかがでしょうか。

後列右から金子和幸さん、伊藤京介さん、伊藤さんの奥様の朋子さん。前列右から尊君、風音ちゃん、斎生君

鷹匠体験の最後には、左手にハリスホークを乗せて、ゆっくりと観察させてもらいました。「どうぞ触ってみてください」。伊藤さんにうながされて羽根に触れると、なんともいえず滑らかです。「胸の奥にも指を入れてみてください」。おそるおそる指を入れると、中はふわっとしていて奥行きがあります。そして、とてもあたたか。

左手の上のハリスホークは優雅で高貴な姿のままですが、かわいらしさも感じられて親しみがわいてきたのでした。

日本ファルコナーズクラブ

▼漫画で学ぶ鷹匠
鷹の師匠、狩りのお時間です!(1) (星海社コミックス)

書いた人

1968年、北海道オホーツクの方で生まれる。大学卒業後、アフリカのザイール(現コンゴ)で仕事をするものの、半年後に暴動でカラシニコフ銃をつきつけられ帰国。その後、南フランスのマルセイユで3年半、日本の旅行会社で3年働き、旅行関連を中心に執筆を開始する。日本各地や都内の路地裏をさまよい歩く、または右往左往する日々を送っている。