近藤勇(こんどういさみ)は、江戸時代末期に活動した「新選組(新撰組とも書く)」のトップである「局長」を務めた人物です。
新選組とは、幕末動乱の京都で江戸幕府の特別警察あるいは治安維持部隊のような仕事をした組織のこと。主なメンバーは各地の浪士(仕える主人などがいない武士)から成り、倒幕(幕府を倒そうとすること)を企む過激な人物を取り締まり、幕府の体制を維持しようとしました。
この新選組を取り仕切っていた責任者が、近藤勇。また、「副長」として彼を支え続けた土方歳三(ひじかたとしぞう)は近藤と同郷で、二人は幼い頃から親しい間柄にありました。
新選組は映画や大河ドラマなどでこれまで数え切れないほど描かれており、近藤勇も数々の俳優が演じています。
さまざまな「近藤勇像」が生み出されてきましたが、その多くに共通するイメージは、「豪胆」「豪快」といった言葉で表すことができるかもしれません。彼は実際、どのような生涯を送ったのでしょうか。
桜のような人生
激動の幕末史をまさに「太く短く」生きた近藤勇。その生涯を勝手ながら、ハイライトにしてみました(年齢は数え年)。
16歳:天然理心流3代宗家の近藤周助(試衛館主)の養子になる。
26歳:「近藤勇」と名乗る。同年、松井つねと結婚し、天然理心流の宗家の4代目を継ぐ。
30歳:将軍・徳川家茂の上洛に伴って結成された「浪士組」に参加。同隊と決別し「壬生浪士組」を結成。京都守護職の会津藩主・松平容保の支配下に入り、「新選組」を発足。
31歳:池田屋事件で功を立てる。
34歳:見廻組頭取に任ぜられ、幕臣となる。
35歳:鳥羽・伏見の戦いに近藤自身は負傷のため参戦できず。江戸に敗走後、新選組の残党を指揮し「甲陽鎮撫隊」を組織。隊長となり、「大久保大和 (やまと)」と名乗って戦いを続けるが、下総流山(現在の千葉県流山市)で官軍に捕らえられ、江戸・板橋で斬首された。
新選組の発足から戊辰戦争で亡くなるまで、わずか5年余り。こんなにも短い期間で、日本史にこれほどのインパクトを与えた男がいたでしょうか。新選組がいまも人々を魅了し続ける理由は、彼らが腕だけで成り上がり、刀一本で倒幕勢力に立ち向かい、そして桜のように散ったからかもしれません。
時代の先を行っていた組織
近藤勇は1834(天保5)年、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)で宮川久次郎 (きゅうじろう)なる人物の3男として生まれました。幼名を勝五郎(かつごろう)と言います。
宮川家は武家ではなく農家でしたが、彼は『天然理心流』剣術を学び、同流派の宗家・近藤周助の養子となって試衛館道場で研鑽、やがて宗家を継承します。この試衛館に当時出入りしていたのが、後に新選組の主要なメンバーとなる、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八といった人物たちでした。
1863(文久3)年、近藤29歳のとき、時の将軍・徳川家茂が上洛(京都へ行く)することとなり、それに伴って江戸では幕府が将軍警護のために志のある浪士を募集しました。これに近藤は土方らとともに手を挙げ、『浪士組』は上洛、京都郊外の壬生(みぶ)という場所を宿所とします
この浪士組結成を呼びかけたのは清河八郎という人物でした。実は清川には浪士組結成に将軍警護とは別の目的を画策しており、そのことを知った勇や歳三は、清河とは袂を分かつことを決意します。「新選組」の前身となる「壬生浪士組」が生まれた瞬間でした。その後、当時「京都守護職」を務めていた会津藩主・松平容保(かたもり)の支配下に入ることとなり、そこで「新選組」という名前を賜ります。
結成当初は、筆頭の局長を芹沢鴨という人物が務めていました。しかし芹沢とその一派は素行が悪く、新選組の評判を著しく落としたため、内部において暗殺、処断されます。そうした経緯で単独の局長となったのが、近藤でした。
新選組の組織編成は時代によって変化していますが、小隊制を取り入れた当時としては大変画期的なものだったと言われます。組織のトップは局長。その補佐役が副長。これに参謀(慶応元年時点では、伊東甲子太郎)がアドバイザー的な立場として加わり、副長の下に「副長助勤」と「諸士調役兼監察」が置かれました。
助勤は内務では局長と副長を補佐し、実戦では小隊長として各隊を指揮します。沖田や永倉、斎藤一や武田観柳斎、原田左之助、井上源三郎、藤堂平助といった映画でもおなじみのメンバーはこの助勤の立場にありました。
一方、諸士調役は対外的な諜報活動を行い、集めた情報を副長に報告していました。また、監察は隊内部の監視を役目とします。
血で血を洗う大事件
京都の人々にしてみれば、新選組の面々は粗野な男たちと映ったでしょう。実際疎ましがる向きもあったと言われます。そんな声を一刀両断で黙らせ、また、彼らの名前を一躍有名にしたのが、1864年(元治元)6月の「池田屋事件」です。
これは、京都三条の旅館「池田屋」で起こった、新選組が尊攘過激派を襲撃した事件。「尊攘派」とは、尊皇攘夷派のことで、さまざまな捉え方がありますが「幕命よりも勅命(天皇の命令)を重んじ、それを奉じ行動しようとした志士たち」のこと。当時、熊本藩の宮部鼎蔵(ていぞう)らが中心となり、中川宮(朝彦親王)、一橋慶喜、松平容保の暗殺を企て、潜伏した京都で計画を画策していました。
1864(元治元)年6月5日、吉田稔麿、宮部鼎蔵ら長州・土佐・熊本などの藩士20人あまりが池田屋に集まって蜂起の件を謀議していました。この日の早朝に捕えた浪士宅から大量の武器が発見され、驚いた近藤らは二手に分かれて祇園、木屋町周辺をしらみつぶしに捜索、同日亥の刻(22時ごろ)すぎ、近藤は沖田、永倉、藤堂平助の3人を連れ、池田屋に踏み込みます。
日本家屋の狭い室内における、刀を用いた殺し合いなわけですから、相当の惨状であったことが想像されます。後に控えていた土方組も戦闘に加わり、9人が殺害され、4人が捕縛(推定。翌朝も逃走した志士たちの掃討作戦が会津・桑名藩らとの連携のもと行われ、そこでも約20人が捕縛)されました。
この大騒動は夜のうちに京都市中に広がり、現場には多くの野次馬が詰めかけたと伝わります。
切腹は許されず斬首 その首は行方知れず
近藤の愛刀は江戸の刀工・長曽弥虎徹入道興里(ながそねこてつにゅうどうおきさと)です。一般に「虎徹」と呼ばれ、「四つ胴の斬れ味」があったと言われます。つまり、4つ重ねた人間の胴を一刀両断にできるほどの剛刀でした。
そうした名刀と抜群の剣の腕をもって、新選組はその後も京都で倒幕を目指す志士たちを取り締まります。しかし幕府終焉への流れは止めることができず、時代は戊辰戦争に突入していきます。
近藤は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、新選組の残党とともに幕府の軍艦で江戸へ戻ります。そこで近藤は幕府から「甲陽鎮撫(こうようちんぶ)」を命じられ、甲州街道を通って甲府へと向かいます。しかしこれは一説には、江戸無血開城を目指す勝海舟が、徹底抗戦しようとするであろう新選組を江戸から離したと見る向きもあります。
いずれにせよ、幕命によって1868(慶応4)年3月には甲州勝沼の戦いで新政府軍と再び刀を交えますが(相手は東山道先鋒総督参謀・板垣退助)、ここでも敗走。八王子を経て江戸へと引き上げ下総国流山(千葉県流山市)にたどり着いたところでついに新政府軍に捕縛されました。このとき近藤はあくまで『大久保大和』と名乗っていましたが、新政府軍内に近藤をよく知る者がいて、新選組の近藤として、江戸・板橋宿まで連行されます。
処遇が検討されたのち、1868(慶応4)年5月、板橋刑場で斬首されました。武士としての名誉である切腹が許されなかったところに、新政府軍の近藤への見方がにじんでいるといえるかもしれません。
首は京都まで運ばれ、三条河原で梟首(晒されること)されました。その後、近藤の首がどこへ行ったのかは、いまも謎に包まれています。
参考:
吉川弘文館『国史大辞典』
講談社『日本人名大辞典』
小学館『日本大百科全書』
伊東成郎『新選組 2245日の軌跡』
菊地明他編『新選組日誌 上下』
菊地明『土方歳三日記 上下』