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2022.05.06

なぜ星型? 土方歳三最期の地「五稜郭」を3分で解説

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「五稜郭(ごりょうかく)」とは、江戸時代末期に現在の北海道函館市に築城された日本初の西洋式城郭です。外国からの侵攻を防ぐことを目的に江戸幕府が築きました。

「稜」とは「角(かど)」のこと。つまり「5つの角がある城郭」という意味で、真上から見るとこのような形をしています。

国立公文書館デジタルアーカイブ「渡嶋国五稜郭引渡済届」より(明治7年)

現在、国の特別史跡にも指定されている五稜郭は1857(安政4)年に着工し、1864(元治元)年に完成しました。

時代からわかるように、まさに幕末の激動期に築かれたお城で、実際にここが戊辰戦争の激戦地の一つになりました。この城を拠点に戦った有名な人物がいます。それが、新選組副長・土方歳三

土方歳三についてはこちらで詳しく解説しています。

「鬼の副長」として京都を拠点に活動した土方が、なぜ北海道で戦っていたのでしょうか。
そして、なぜこのような形のお城が造られたのでしょうか。
詳しく解説します。

幕府の命を受けて五稜郭を造った人たち

北海道はかつて「蝦夷地(えぞち)」と呼ばれていました。
この蝦夷地で幕府が拠点としたのは、天然の良港として古くから栄え、本州にも最も近い「箱館(はこだて)」でした。

土塁で囲んだ箱型の「館(たち)=建物」があったことからこう呼ばれたそう。「函館」と表記されるようになったのは明治以降です。


1853(嘉永6)年にアメリカからペリーが来航し、開港を求められた江戸幕府は、長崎に加えて下田と箱館を開港します。アメリカに続いてイギリス、フランス、そしてロシアも開港を求めました。

この開港に先立って、幕府は蝦夷地を松前藩の統治下から幕府直轄地とし、重臣・堀利煕(としひろ)と竹内保徳(やすのり)を箱館奉行として派遣します。彼らの任務は、外国の軍艦からの砲撃に耐えられる要塞を開港までに箱館に築くことでした。

外国に攻められて箱館を乗っ取られたらやばい!と感じていたんでしょうね。

二人のもとで、築城計画に当たったのは武田斐三郎(あやさぶろう)という当時若干20代の青年。緒方洪庵(こうあん)の下で蘭学を、佐久間象山(しょうざん)の下で兵学などを学んだ彼は、英語やフランス語に加えて西洋の海防や砲台の築造、造船についての知識がありました。

武田斐三郎(国立国会図書館デジタルコレクション『函館市功労者小伝』より)

斐三郎は当時「亀田村」と呼ばれていた、箱館港を望む場所に五稜郭の建設を決定。二重三重の防衛線を敷くため、箱館港に弁天砲台(台場とも呼ばれる)も建設します。

明治10~20年代の箱館(撮影:日下部金兵衛)(ニューヨーク公立図書館デジタルコレクション)

1857(安政4)年、工事に着手した五稜郭は7年後の1864(元治元)年5月に完成し、1866(慶応2)年に付帯施設を含む全ての工事が完了。箱館奉行所が置かれ、蝦夷地における政治の中心となりました。
総面積は堀の内側だけでも約12万5500平方メートル(東京ドーム3個分)、水堀の幅は最大30メートル、外堀1.8キロメートル、総工費約10万両におよぶ、幕府の威信をかけた要塞でした。

1両5万〜10万円としたら、50億〜100億円!!

落成した元治元年には6月に池田屋事件、8月には四国艦隊による下関砲撃が起きるなど、まさに激動の時代でした。

なぜ星の形をしているの?

五稜郭の最大の特徴は、雪の結晶のようなこの独特の形にあります。
この形は、「星形要塞」あるいは「稜堡(りょうほ)式城郭」と呼ばれるもので、15世紀のイタリアに起源を持つ建設方式です。

この形の最大のメリットは、「死角」をなくすことができる点です。

前掲資料を加工

たとえば、この城郭を攻め落とそうとする敵が、A地点から城の中に攻め込もうとしているとします。このとき、敵はB地点の砲台から左側面を、E地点の砲台から右側面を狙われることになります。

もしA~Eの各地点が円形だった場合、各円に接する場所にごくわずかな死角が生まれてしまいます。

前掲資料を加工

この死角をなくす最も効率的な城郭の形として生まれたのが、星型要塞なのです。特にオランダで多く見られ、現在でもヨーロッパ各地でその遺構を見ることができます。

オランダ・ブールタンゲ要塞を描いた図(1743年)(アムステルダム美術館パブリックドメイン)

五稜郭での激戦で命を落とした土方歳三

五稜郭は、外国からの侵攻を防ぐための要塞として築かれましたが、皮肉にも使われたのは日本の内戦である戊辰戦争でした。

1868(明治元)年9月、戊辰戦争で劣勢の状況にあった榎本武揚(えのもとたけあき。通称・釜次郎)率いる旧幕府艦隊は、品川沖を脱し、途中仙台に寄港。東北戦争に敗れた大鳥圭介(おおとりけいすけ)らの旧幕府脱走軍などを収容し、総勢約3000人で蝦夷地に上陸します。

榎本は明治新政府に対し、蝦夷地を旧徳川の家臣団に与えることを要望し、箱館を中心に明治新政府とは異なる別の政権(俗に榎本政権、蝦夷共和国などと呼ばれる)の樹立を目指していました。

榎本武揚(国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より)

彼は10代の頃、先に触れた箱館奉行・堀利煕に小姓(身の回りのことを手伝う武士のこと)として仕え、蝦夷地の調査に従事しており、五稜郭築城に当たった武田斐三郎は彼のことを弟のようにかわいがっていたといいます。

そして、この榎本軍に仙台から加わった兵士たちの中に、土方歳三がいました。

土方歳三(国立国会図書館デジタルコレクション「近代日本人の肖像」より)

土方は京都における鳥羽・伏見の戦いののち、関東へ敗走。その後も宇都宮、会津と戦いながら北上を続け、仙台で榎本武揚率いる軍勢に加わり、その後陸軍奉行・大鳥圭介に継ぐ「陸軍奉行並」として各隊を率います。

まだまだ戦うつもりだったのですね……。

新政権設立を嘆願する榎本軍でしたが、明治新政府はこれを拒否。1869(明治2)年3月に征討軍を派遣します。この一連の戦いが戊辰戦争最後の戦いである「箱館戦争」です。新政府軍側を率いていた参謀は後に首相となる黒田清隆(きよたか)でした。

榎本軍は海と陸の両方で戦いに臨みますが、海における中心的存在であった「開陽丸」が荒天により沈没。また、五稜郭は当時すでに江戸幕府から明治新政府へ引き継がれていましたが、榎本軍はこの場所を占拠。徐々に新政府軍に追い詰められ、彼らは五稜郭に立て籠もります。

(永嶌孟斎「時明治元戊辰ノ夏旧幕ノ勇臣等東台ノ戦争破レ奥州ヘ脱走ナシ夫ヨリ函館ヘ押渡再松前城ニ於テ合戦ノ図」(明治8年)3枚を合成。国立国会図書館デジタルコレクション)

幕府の威信をかけた要塞である五稜郭を拠点にして彼らは戦いを続けますが、5月には多くの兵を率いていた土方歳三も五稜郭にほど近い場所で敵の銃弾を受け、絶命します。彼の最期の様子については諸説ありますが、直前まで彼に付き従った新選組隊士の記録が残っています。

土方に最後まで仕えた新選組隊士・市村鉄之助についてはこちらで詳しくどうぞ

土方の死から7日後の5月18日、榎本軍は降伏。五稜郭を明け渡し、彼らが目指した榎本政権実現の夢はかないませんでした。

箱館戦争後、榎本武揚らの助命嘆願に奔走したのは相手方だった黒田清隆だったと言われます。恩赦を受けた榎本は、後に明治政府の開拓使出仕となって北海道に戻ってくるのです。ドラマのような物語。


この箱館戦争の終結によって戊辰戦争は区切りを迎え、近代国家・日本の歩みが始まります。箱館戦争は徳川に忠誠を尽くそうとした武士たちの、いわばやむにやまれぬ「魂の戦い」であり、その最後の舞台こそ、五稜郭だったのでした。

参考文献
・星亮一『箱館五稜郭』(1989年、成美堂出版社)
・菊池勇夫『五稜郭の戦い -蝦夷地の終焉-』(2015年、吉川弘文館)
・三浦正幸監修『古写真で見る幕末の城』(2020年、山川出版社)
・函館市公式観光情報サイト「はこぶら」
・ウェブ版『日本大百科全書』

▼参考文献はこちら
五稜郭の戦い: 蝦夷地の終焉 (歴史文化ライブラリー)

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