「俳句」と聞いて、誰の名前を思い浮かべますか?
松尾芭蕉、正岡子規、小林一茶という人もいるかもしれません。
江戸時代、上方で活躍した俳人に上嶋鬼貫(おにつら)という人物がいました。松尾芭蕉と並んで「東の芭蕉 西の鬼貫」と褒めたたえられることもあり、多くの俳人たちに影響を与えています。
「鬼貫」なんて何だか怖そうな名前ですが「にょっぽりと秋の空なる富士の山」など、ほっこりおかしみのある句が多く、現代の私たちにも親しみやすい作風です。
鬼貫がどんな人生を送り、どんな句を残したのか、ご紹介していきましょう。
青年・鬼貫の俳諧にかけた青春
鬼貫は万治4(1661)年、兵庫県伊丹市の裕福な蔵元「油屋」の息子として生まれました。伊丹は酒づくりの街。江戸に売るためのお酒を作ることで栄え、その経済力を背景に、俳諧をはじめとするさまざまな文化が花ひらいた土地です。
ちなみに江戸時代の「俳諧」は、現代の「俳句」とは少し形式が異なります。俳諧のルーツは平安時代、複数人で「五七五」「七七」の句をつなげていく「連歌」という貴族の遊びにさかのぼります。江戸時代、庶民の間で連歌が広まるにつれ、滑稽な内容へと変化したものが俳諧です。松尾芭蕉の登場以降は、俳諧の初めの句である「発句」だけが独立して作られるようになります。俳諧の発句を「俳句」と名づけたのは明治時代の俳人、正岡子規でした。
さて、鬼貫は松尾芭蕉から見て十七歳年下にあたります。俳諧文化華やかなりし時代、活気あふれる酒の街で生まれ育った鬼貫の周りには、幼いころから、俳諧に親しむ人たちが大勢いたのでしょう。鬼貫が八歳のときに作ったという句が残っています。
こいこいといへど蛍がとんでゆく
こっちへおいでと呼んでも、ふわふわ飛んでいってしまう蛍の様子を詠んだ素朴な句です。
さらに十二歳のときには、松江維舟(いしゅう)という京都の俳諧の先生について勉強を始め、こんな句を作っています。
一声(いっせい)も七文字はあり郭公(ほととぎす)
江戸時代、ほととぎすは「テッペンカケタカ」「ホンゾンカケタカ」と鳴くと言われていました。文字を拾っていくと、いずれも八文字。ほととぎすは、一声鳴けば七文字を越えている、というわけです。このなぞなぞのような句を、維舟先生は高く評価したようです。
鬼貫十四歳のときには、維舟の弟子であるお酒好きの俳人、池田宗旦が伊丹にやってきます。伊丹のおいしい酒がすっかり気に入った宗旦は、伊丹にとどまり也雲軒(やうんけん)という私塾を開きました。ここに鬼貫をはじめ、俳諧を愛する若者が集い、賑やかなサロンとなっていきます。
十八歳ごろから二十代前半にかけ、鬼貫と仲間たちは俳書(俳句の本)を次々に出版します。俳人の坪内捻典さんは、「今日の若者に見立てれば、新車を乗り回す金持ちの息子(中略)あるいは、仲間とバンドを組み、自費でCDを出す若者」と鬼貫や也雲軒の仲間たちをたとえています。
当時の若者たちにとって、俳諧に熱中することは、インディーズでライブ活動をするような、憧れの青春だったのかもしれません。
「鬼貫」という俳号を使うようになったのもこの頃です。「貫」の文字は、平安時代の有名な歌人、紀貫之に由来しています。江戸時代には、和歌が高尚な文芸、俳諧はその下にあるものと考えられていました。「醜い」に通じる「鬼」という漢字を使ってへりくだりつつ、「俳諧の世界の貫之を目指す」という意気込みを示したのでしょうか。
武士としての鬼貫
貞享2(1685)年、25歳になった鬼貫は、伊丹を離れて大阪へ向かいます。実は鬼貫、俳号のほかにもうひとつ「藤原宗邇(むねちか)」という武士としての名前を持っていました。彼の遠い祖先は武士だったのです。
大阪へ行った鬼貫は、武士として身を立てたいと考え、就職活動をスタートします。一度は武士として「伊勢守」のもとへ仕官が決まりかけ、大喜びで故郷へ報告したのもつかの間、仕官話は立ち消えになってしまいました。
これに対し鬼貫は、仕官を世話してくれた人の家を訪ね「一日も召し抱えてもらえないのなら、玄関で切腹をする」と言って相手を慌てさせています。よほど武士になりたい思いが強かったのかもしれません。
結果として、鬼貫は筑後(福岡県)の三池藩へ武士としてつとめることになりました。その後もサラリーマンのようにたびたび転職をしつつ、いくつかの藩に仕えています。鬼貫は俳人であると同時に、武士としての自分にも誇りを持ち続けていたようです。
友人の墓前に備えた富士の句
さて、武士としての活動と並行して、鬼貫は30歳のとき、『大悟物狂』という俳書を発表しています。
この中に収められているのが、鬼貫の作品の中でもっとも有名な一句です。
にょつぽりと秋の空なる富士の山
秋の空に高くそびえる富士山の様子を「にょっぽり」と独特な言葉で表現した、ユーモラスな句です。
26歳のとき、初めて江戸に出かけた鬼貫。病気で伏せっていた親友の俳人、古沢鸞動(らんどう)から「私はかねてから富士山が見たいと思っていました。あなたが富士山を見て、帰ってきたらそのようすを教えてください」と頼まれます。けれど鬼貫の帰りを待つことなく、鸞動は22歳の若さで亡くなってしまいました。
伊丹に戻ってきた鬼貫が、鸞動の墓前で約束通り富士山の様子を報告したのが「にょっぽりと……」の句です。作られた背景を知ると、友を失いぽっかり穴が空いた鬼貫の心も表現されているようで、十七文字が奥行きを増すような気がします。
『大悟物狂』には、こんな句も収録されています。
さくら咲(さく)頃(ころ)鳥足二本馬四(し)本
古来、桜を詠んだ和歌や連歌は数えきれないほどあります。満開の桜の下を歩くと、何となく気分が高揚して、頭上を見上げる人も多いのではないでしょうか。けれど鬼貫は、花の美しさに心を奪われるのではなく、ふと地上に目を移し「それにしても、鳥の足は2本、馬の足は4本だなあ」と当たり前のことを冷静に観察しているのです。自然をじっと見つめながらも、情緒に流されない人柄が垣間見えるような気がします。
冬の句には、こんな作品もあります。
雪路(ゆきじ)哉(かな)薪(たきぎ)に狸(たぬき)折(おり)そへて
背中に薪を背負った人が、雪道を歩いています。薪には、狸も一緒に添えてある。もしかしたら、夕ごはんのおかずかもしれません。狸を薪に見立てた「折そへて」という表現がユーモラスです。
この頃、松尾芭蕉が「おくのほそ道」を書いていることを、鬼貫は芭蕉の弟子から聞いたようです。「そのアイデア、いいね!」と思ったのかどうか、鬼貫は自分も旅をしたいと考えました。しかし、年老いた両親がいるので、自由に旅をすることは叶いません。そこで、家にいながらこれまで旅した土地の景色を思い出し、空想の旅行記「禁足之旅記」をしたためています。俳諧の世界で有名になりつつあった芭蕉に対し、ライバル心のような気持ちがあったのではないでしょうか。
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6歳の息子を病で失う
元禄4(1691)年、鬼貫は大和(奈良県)の郡山藩に出仕することになります。翌年のお正月にはこんな句を作りました。
我宿の春は来にけり具足餅(ぐそくもち)
具足餅は武家のお正月、床の間に飾った甲冑の前に供えられるお餅のことです。武士としてお正月を迎えることに、誇らしさを感じる気持ちが伝わってきます。
元禄8(1695)年、35歳のときには長男永太郎が生まれています。鬼貫は遅く生まれた永太郎を溺愛しますが、病気にかかり、6歳の幼さで亡くなってしまいました。このときの悲しみをしたためた文章に、鬼貫はこんな句を添えています。
土に埋(うめ)て子の咲(さく)花もある事か
土に種を蒔けば花が咲くように、土に埋めた子が花として咲くというようなことはないだろうか、というほどの意味でしょうか。夏目漱石の『夢十夜』という作品に、亡くなった女性を埋めた土の下から百合の花が咲く場面がありますが、花になってでもいいからもう一度会いたいと願うほど、わが子を失った鬼貫の悲しみは深かったのでしょう。
此(この)秋は膝に子のない月見かな
同じ年の8月に鬼貫が詠じた句です。去年と同じ、美しい月がのぼってきたけれど、膝の上にいとしいあの子はいない。癒えることのない喪失感が伝わってくる作品です。伊丹の墨染寺(ぼくせんじ)というお寺には、小さな永太郎と鬼貫が一緒に眠るお墓が今も残っています。
兼業作家・鬼貫。またしても切腹!?騒ぎ
元禄11(1698)年、鬼貫が「甲斐守」に仕官するという話が持ち上がったことがありました。準備を進めていたところ、甲斐守家の都合が悪くなったので、「玄蕃守」という別の家で召し抱えることになったと役人から告げられたのです。
さて、鬼貫はどうしたでしょうか。またしても「お世話になった人たちに嘘をつくことになるので、お城の馬場にて切腹する所存です」と応じたのです。
ただ、前回の切腹騒ぎとは違う点がありました。狂乱して腹を切るのではない証拠に、「日ごろたしなんでいる俳諧独吟の百韻」つまり俳諧の発句を百句詠じてから腹を切ります、と鬼貫は役人に伝えているのです。武士の子孫であることに誇りを持ちながら、一方で、十代のころから続けてきた俳人としてのアイデンティティも持っている。兼業作家である鬼貫らしいエピソードと言えるかもしれません。
この頃、鬼貫は『仏の兄』という作品集を発表し、同時に「仏兄(さとえ)」という俳号を使うようになります。高貴な姫君が鬼貫の風流な句に感心したものの、作者の名前を聞いて「あな恐ろしや」と顔を隠したので改名した、という伝説も残っていますが、真意はわかりません。いずれにしても「仏様の兄」なんて、大胆すぎてにやりと笑ってしまうようなペンネームですね。
鬼貫が見つけた「まことの俳諧」とは?
享保3(1718)年、58歳になった鬼貫は、大阪へ移り住み、有賀長伯という歌人から『古今和歌集』の秘伝を伝授されます。伝授を受けた鬼貫はこんな句を作りました。
谷水や石も哥(うた)よむ山ざくら
言葉を持たない、動くこともない石が「歌を詠む」というのは不思議ですね。生物も無生物も、この世に存在する万物が「かくまでも我事をいひおよぼしぬる物かな」つまり「よくここまで私のことをぴったりの言葉で表現してくれた」と深く喜ぶような句ができたら、それは「まこと」の俳句だと、鬼貫はこの年に出版した俳書『独(ひとり)ごと』の中で語っています。
人間以外のものが歌を詠むという比喩を使ったのは、鬼貫が初めてではありません。紀貫之が『古今和歌集』の巻頭に寄せた「仮名序」に、こんな一節があります。
花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
花の枝にとまって鳴く鶯や、川に住む蛙の声を聞いて、歌を詠まずにいられる生き物がいるだろうか、いやいるはずがない、と紀貫之は綴っています。
「鬼の貫之」を名乗り、伝統的な和歌とは違う新しい文芸を目指しながらも、老境に差しかかった鬼貫の心には、貫之の歌心への共感が芽生えていたかもしれません。
『独ごと』は、鬼貫の俳諧に対する考え方をまとめた、いわば集大成のような本。ここに記された「まことの外(ほか)に俳諧なし」という言葉は、鬼貫の俳諧観を表す言葉として、よく知られています。
「まこと」とは「偽り」の対義語。言葉を飾ったり、技巧をこらしたりしようとせず、目の前のことをふだんの言葉で詠めばそれが俳句になると、鬼貫は考えたようです。
鬼貫の代表作のひとつと言われ、墓碑にも刻まれているこんな句があります。
おもしろさ急には見えぬ薄(すすき)かな
ススキには、桜のように誰もが一瞬で心惹きつけられる華やかさはありません。でも、見る人の心ひとつでじわじわと面白さがわかってくるというのです。
鬼貫は生涯を通じてあまり弟子をとりませんでしたが、彼を慕う俳人たちの中には後年、「ススキの句が芭蕉に影響を与えた」という者もいたようです。
与謝蕪村らによって再評価された鬼貫
大阪で友と交流しながら晩年を過ごした鬼貫は元文3(1738)年、78歳でこの世を去ります。
夢返せ烏の覚(さま)す霧の月
鬼貫の辞世の句です。
カラスが鳴き、霧が晴れて夜空に月がのぞきます。この世を去る直前、鬼貫が見たのは、いったいどんな夢だったでしょうか。
鬼貫の句は、与謝蕪村と炭太祇(たんたいぎ)という俳人により再評価されます。「東の芭蕉、西の鬼貫」とたたえられ、川柳や狂歌の題材になったり、戯曲の題材になったりと、後世に影響を与えることになりました。太祇が精選した『鬼貫句選』では、素直でわかりやすく、現代でも共感できる楽しい作品にたくさん出会うことができます。
筆者が特に好きな鬼貫の句をいくつかご紹介して、結びにかえたいと思います。
鳥はまだ口もほどけず初ざくら
青麦や雲雀(ひばり)があがるありゃさがる
(『鬼貫句選』には未収録)桃の木へ雀吐出す鬼瓦
人の親の烏(からす)追(おい)けり雀の子
(人の親だから、スズメの子をいじめているカラスを追い払ったのだ)恋のない身にも嬉しや衣(ころも)がへ
鵜とともにこころは水をくぐり行(ゆく)
さはさはと蓮(はちす)うごかす池の亀
なんとけふの暑さはと石の塵を吹(ふく)
そよりともせいで秋たつことかいの
行水(ぎょうずい)の捨(すて)どころなきむしのこゑ
つくづくともののはじまる火燵(こたつ)哉(かな)
参考文献
復本一郎校注『鬼貫句選・独ごと』(岩波文庫)
櫻井武次郎『伊丹の俳人 上嶋鬼貫』(新典社)
坪内稔典『上島鬼貫』(神戸新聞総合出版センター)
『鬼貫のすべて』(柿衛文庫)ほか
【トップ画像】
歌川広重「冨士三十六景 甲斐大月の原」(シカゴ美術館)