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さて、イザナギ・イザナミ系の神々のうち、一番上のお兄ちゃん(あるいは三貴子に挟まれた鬼っ子)であるヒルコが不遇の時代を経て華々しく蘇ったのは前回書いた通りだが、存在こそ派手なわりにエピソード的にはぱっとせず、ずーっと影が薄いままの神もいる。
生まれた時は派手だったのに…
誰あろう、日神と並ぶ月神・月読尊である。月夜見(つきよみ)とも月弓(つくゆみ)とも記録されたこの神は、記紀ともにアマテラスの次に生まれた光り輝く重要な神としている。
だが、しかし。
誕生エピソードと、その際に付記された「一書」の話以外、どこにもなんにも記述がない上、ヒルコのように新たな神生を与えられることもなく、今なお地味さ爆発の、ある意味ボッチの鑑のようなお人――ならぬ神、なのだ。
古事記ではイザナギが独りで、日本書紀ではイザナギ・イザナミ共同で生んだことになっているこの神、アマテラスほどではないけれども、やっぱりすごく光り輝いていたので夜の世界を支配することになった、となっている。名前といい、エピソードといい、まごうことなき月神だ。
空で一際目立つ日と月が神格として並び立つのは、古代人にとってはごく自然な発想だっただろう。太陽は恒星で月は衛星っていう科学的事実を持ち出せば姉弟なのはおかしいが、それは屁理屈というものである。
だが、神話上の扱いとなると、恒星と衛星どころの差ではない。それどころか、月とスッポン、いや、月とミドリガメかもしれない。
まず、古事記は誕生以降、完全無視である。
日本書紀は一書で彼のその後を語るものの、内容が情けない。どれぐらい情けないかというと、以下の通りです。
三貴子がそれぞれ治める場所に納まった後のこと、アマテラスが天上でこんなことを言い出した。
「葦原中国(地上のこと)には保食神(うけもちのかみ)っていう食べ物の神がいるんですって。ツキヨミ、あんたちょっと行ってどんな神か見ていらっしゃい」
そこでツキヨミは保食神の元に行ったところ、保食神はご馳走を並べて歓待してくれた。ところが、その食べ物はすべて保食神の体内から出てきたものだったから、ツキヨミは怒った。
「穢らわしい! どうやったら口から吐き出したものを俺に食べさせようなんて思えるんだ!」
そしていきなり剣を抜いて保食神を斬り殺してしまったのだ。
天上に帰ったツキヨミはアマテラスにことの成り行きをつぶさに報告した。すると、今度はアマテラスが激怒した。
「お前は悪い神だ! 顔も見たくない!」
これ以来、姉弟は仲違いし、昼夜隔てて住むようになった。
……。
いや、まあ、気持ちはわからないではないですよ。吐き出したものを食べろって、そりゃないよね、とは思うから。でも、いきなり斬り殺すってそりゃちょっと荒ぶりすぎですよ。アマテラスが怒り心頭だったのも当然です。
とはいえ、この後、アマテラスも実にちゃっかりした面を発揮するんですけど、それはまた別の話になるのでここでは触れないでおきます。気になる方はぜひ日本書紀/神代上/第五段/一書第十一をご参照下さい。
いくら月といえど影薄すぎ神
夜の主役ともいえる月の神。だというのに、記紀に残るのは、なんとこのエピソードのみである。粗暴な神としての失敗譚だけが記録されるなんて、あんまりじゃないか。
さらに、お姉ちゃんは伊勢神宮という押しも押されもせぬ日本一のお宮を本拠地とし、全国各地で祀られているのに、弟神であるツクヨミの神社はあんまり見当たらない。
「は? 月読神社なんか各地にありますケド?」と思われた方もいらっしゃるだろう。
確かに京都の松尾大社の摂社に月読神社があり、これは壱岐の月読神社から移されたとされている。
だが、こちらでお祀りされている「ツキヨミノミコト」は、記紀のツクヨミノミコトとはどうやら別神くさいのだ。というのも、月読神社では鎮座の由来として「日本書紀」第十五巻顕宗天皇三年二月に起こった故事をあげているのだが、ここで神がかりした、つまり神の言葉を伝える役目を負った人を通して「私は月神だけど、親は高皇産霊(たかみむすび)だよ」ときっぱり言い切っているのである。
ちょっと待って。ツクヨミの親はイザナギではないのか。高皇産霊といえば、イザナギ・イザナミ以前、生まれてすぐ後に独神として隠れてしまった別天津神/造化三神の一柱である。親が違えば、当然別人だ。つまり、壱岐系の月読神社には、三貴子ではない別の月神が祀られていると考えざるをえないのだ。
前回、えびす神は少なくともヒルコと事代主命の流れが見られると説明したが、月の神もまたイザナギ・イザナミ系の神と高皇産霊系の神がいるようなのである。
さすがにお伊勢さんにある月読宮は間違いなくアマテラスの弟神だが、その他はよくよく確かめないとどちらかわからないわけだ。ほか、有名な神社だと出羽三山の一角月山神社の祭神が月読命とされているが、こちらもこちらで別神が同一視されたパターンじゃないの? という気がしないでもない。月山だけに月神、だからツクヨミ、ぐらいな感じで。
とにかく、三貴子としてのツクヨミは、三貴子なのに影が薄すぎるのである。
月読尊はつけたり神だった?
では、彼はなぜそのような憂き目に遭うことになってしまったのだろうか。
この点については神話研究者もはっきりと言い切ることはなかなかできないようだが、神話生成の都合上、後からつけたりで挿入された神だったからではないか説がそこそこ説得力を持つようである。
つまり、元々いた神ではなく、大人の事情によって突っ込んだため、エピソード不足に陥った、というのだ。
神話学者の松前建氏などによると、そもそもイザナギとイザナミは淡路島周辺に勢力を持つ海人系部族の神々であり、国生み神話も淡路島周辺限定の話だったと考えられるという。そして、三貴子もそれぞれが別の部族の主神や重要な神だったのを、大和朝廷による国土統一の過程で一つの神話に取り込まれていったのではないか、というのだ。
その上で、天照大神とはもともと日月を含んだ神だったが、日と月を分ける必要が生じたので、新たに生み出された神格がツクヨミではなかったか、と。先のエピソードはそれぞれの部族が持っていた月神エピソードの名残ではないか、とも考えられるらしい。
何にせよ、自然神=素朴な信仰から自然に発生した神というわけでもなさそうだ。神話というのもなかなか作為に満ちている。
それにしても、月読尊様はなんだかお気の毒です。私は日より月が好きなタイプなので、今後は積極的に推し神として応援したいと思います。地味なボッチ、大いに結構じゃございませんか。目立たぬように、はしゃがぬように、似合わぬことは無理をせずって故・河島英五氏も歌っておられました。そんな人生もまた、ボッチにはふさわしゅうございましょう。
時々で形を変えながらも、ひっそりと闇を照らす存在。
それはそれで美しいものでございます。
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