春を待つ私たちの心に優しい灯りをともしてくれる雛まつり。華やかな祝い事を彩る雛飾りは、子どもたちの健やかな成長を願い、その想いを人形に託した日本の美しい伝統の形です。
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中でも江戸時代の大名家に伝わる雛飾りは、美術品としての価値や長い歴史を経てきた重みを感じさせてくれ、見るものを雅な世界へと誘ってくれます。
今年で36回を迎える徳川美術館(愛知県)で開催中の「尾張徳川家の雛まつり」では、超絶技巧ともいえる伝統工芸の技を集約した雛人形や雛道具を間近で見られる貴重な機会。長きにわたって受け継がれてきた雛飾りからわかる江戸時代の大名家の風習やその時代背景、美しい技の数々を徳川美術館学芸員の加藤祥平さんに伺いました。
家の格式を象徴していた嫁入り道具や雛飾り
江戸幕府を頂点として全国に300近くあった藩の中でも、徳川将軍家に次ぐ地位とされた『尾張』『紀伊』『水戸』の御三家。その中でも筆頭格とされた『尾張徳川家』の当主に嫁ぐ姫君は、相応の大名家、公家から輿入れされました。そのため、家と家、格式と格式を象徴する婚礼には、豪華絢爛な嫁入り道具があつらわれており、その一つが雛人形であり、婚礼道具のミニチュアである雛道具でした。その精緻な技術で作られた雛飾りは、現代においても素晴らしい工芸品としてその魅力を伝えてくれています。
蒔絵の最高技術を駆使した工芸品としても秀逸な雛道具
尾張徳川家十一代斉温(なりはる)夫人の福君(さちぎみ)は、五摂家筆頭であった近衛家から、数え17歳で尾張徳川家に嫁入りします。京都から江戸に向かう行列は流行り歌になるほどの豪華さで、嫁入り道具は、当初から多くが失われたと考えられる現在でも六十余件にも及んでいます。
―「尾張徳川家の雛まつり」に展示されている雛飾りは、普段私たちが知っている雛飾りとは違い、まさに豪華絢爛といった趣ですが、どのような特徴があるのでしょうか。
加藤:この時代、本人の分身である雛人形に、婚礼道具と同様のデザインの雛道具が作られていました。天保7(1836)年に近衛家から尾張徳川家に嫁いだ福君の婚礼調度『菊折枝蒔絵調度(きくおりえだまきえちょうど)』には、菊の折枝を配し、ところどころに徳川家の家紋である「葵紋」と近衛家の家紋である「抱牡丹紋(だきぼたんもん)」を散らしたデザインが施されています。雛道具もこれと同様の文様で作られているなど、現存する大名家の雛飾りの中でも格調高い作品となっています。
雛道具の技法にも身分制度が反映されていた!
―嫁入り道具と同じデザインの作りといえど、雛道具は数cmから数十cmの小さな世界。厨子棚や黒棚、櫛台の中に、さらに小さな箱やお道具が作られていて、その緻密さに驚かされます。やはり大名家に納められるものということで、特別なものだったのですね。
加藤:何人もの職人が分業で関わっていたことは容易に想像できます。この『菊折枝蒔絵雛道具』は、金粉を蒔いて漆を塗った面を研ぎあげ、幾度の工程を要する高度な技法で、地の部分が梨の肌地のように見えることから梨子地(なしじ)と呼ばれています。実はこの技法を用いた婚礼調度が許されていたのは、将軍家か御三家といった限られたお家柄だけでした。どんなにお金を積んでも作ることのできない梨子地蒔絵は、当時の尾張徳川家の家格の高さの象徴といえます。許しが与えられていない家は、梨子地の婚礼道具や雛道具を作れなかったのです。
―雛道具にまで身分制度が示されていたとは驚きました。徳川美術館には、大変貴重な雛飾りが収蔵されていますが、最古の雛飾りはいつ頃のものなのでしょうか。
加藤:最も古いものは『鉄線唐草蒔絵雛道具(てっせんからくさまきえひなどうぐ)』で、これは17世紀末から18世紀初頭に制作されたものと考えられていますが、所有者はわかっていません。懸盤(けんばん・お膳類)と行器(ほかい・食べ物を入れる器)を福君が所持されていました。
受け継いでいくことの大切さを認識していた尾張徳川家
―雛道具ということを忘れてしまうほど、美しい作品ですね。これだけ良い状態で保存し、受け継いできたことで、さらにその希少価値が高まっているように思います。このような状態の良い形で受け継ぐためには、どのような工夫がなされていたんでしょうか。
加藤:もともと雛人形や雛道具は傷みやすいものです。人形などは顔に胡粉と膠(にかわ)を塗っているだけなので、経年劣化でボロボロになりやすいんです。ヒビや虫食いなどもできやすく、子どもが触ったりするので、欠けることもあります。良い状態のまま受け継がれているのは、江戸から近代へと移行する中で、徳川美術館へ作品がほぼそのままに引き継がれ、それと同時に作品の扱い方などが受け継がれていったことが大きいと思います。
―財産だけでなく、そういった技術も受け継がれたというのが素晴らしいですね。
加藤:特に雛道具は、刀や甲冑と違って、小さい分、形見分けしやすかったり、親戚に譲ってしまうなど、散り散りになってしまうものが多かったんです。これだけの雛飾りがまとまって残っているのは大変珍しいんです。尾張徳川家でも、古い時代のものはほとんど残っていません。
有職雛に着せられた装束は考証して作られた雛人形の最高峰
―現在、展示されている十四代藩主の慶勝(よしかつ)夫人である矩姫(かねひめ)が所持していた雛人形も、衣装が素晴らしいですね。
加藤:矩姫は、福島・二本松の大名であった丹羽長富の二女で、数え十九歳で尾張徳川家に嫁ぎました。矩姫の所持した有職雛(ゆうそくびな)は、高さ37.5㎝余の大きな男雛と女雛とが五対あり、平安時代の公家の着ていた装束を考証して作られた最高峰の雛人形です。有職とは、公家社会のさまざまな決まり事を差す言葉で、身に付けている装束も、身分、年齢、季節によって異なり、雛人形の背丈にみあった文様を別織しているんです。男雛の装束の種類によって礼服の『束帯(そくたい)姿』、平常服である『直衣(のうし)姿』、カジュアルな『狩衣(かりぎぬ)姿』と区分けもされています。
大名家につたわる文化財を守るために徳川美術館を創設
―そう思うと、徳川美術館で見られるいろいろな時代の雛飾りが、とても貴重なものだということがよくわかりました。途切れることなく、受け継いでこれたことも奇跡に近いですよね。日本の多くの美術工芸品は、雛人形に限らず、昭和に入ってから、経済的な理由で売り払われてしまったものも多いですよね。
加藤:そうですね。尾張徳川家では、十九代当主の徳川義親(よしちか)が、昭和10(1935)年に、大名家の貴重な家宝や文化が流出するのを恐れ、徳川美術館を創設しました。そのお陰で、現在のように多くの文化財を残すことができ、みなさんに見ていただくことができています。まさに先見の明であり、美術館としてきちんと保存管理することで、良い状態で受け継ぐことができているのだと思います。
尾張徳川家が伝える明治、大正、昭和3世代の雛飾り
―「尾張徳川家の雛まつり」の展示の中でも圧巻なのが、徳川美術館を創設した十九代義親夫人・米子(よねこ)さま、二十代義知(よしとも)夫人・正子(まさこ)さま、二十一代義宣(よしのぶ)夫人・三千子(みちこ)さまの3人の夫人が所持した雛飾りを一堂に見られることですね。
加藤:大名家の雛飾りというのは、節句の祝儀にいろいろな方が人形や道具などを贈り、それも一緒に飾って楽しんだとされています。その雰囲気を味わえるのがこの「尾張徳川家三世代にわたる雛飾り」です。数組の内裏雛に、三人官女、五人囃子をはじめ、いろいろな方から贈られた人形や道具が加えられています。また、明治から大正、昭和へと移り変わる中で、雛人形の顔の変化なども楽しんでいただけるのではないでしょうか。
―雛飾りからもいろいろなことが見えてきますね。昔は子どもが健やかに成長するということ自体、大変な時代でしたし、人々の想いもより強かったのではと思います。そして物を大切に受け継いでいく精神も雛まつりには含まれているようです。
加藤:名古屋は空襲もあり、徳川美術館の周辺も被害がありましたが、徳川美術館の本館と収納庫は燃えなかった。それと、一部の文化財を疎開させていたことで、焼失を免れたんです。
―江戸時代から続く雛飾りを守り、保存していくことの大切さを改めて感じました。
加藤:長い期間、物が伝わるということは大変難しく、災害や戦火で守ろうとしても守れないものがたくさんありました。だからこそ、こうして目にすることのできる文化財を守ってきてくれた人たちに感謝の気持ちが生まれます。私たち美術館は、こういった貴重な伝統文化を喜び、分かち合える場であることも役目だと思っています。
―平和の象徴のような雛飾りを見て、先人の想いを語り、心豊かになりたいですね。今日はありがとうございました。
【展覧会情報】
特別展「尾張徳川家の雛まつり」
会期:2023年2月4日(土)〜4月2日(日)
会場:徳川美術館
住所:愛知県名古屋市東区徳川町1017
開館時間:10:00〜17:00(入館は16:30まで)
休館日:月曜日
入館料:一般1,400円、高校生・大学生700円、小中生500円
※土曜日は高校生以下入場無料