古典が好き。
なんていうと、堅物と思われそうだけれど、なんてことはない。古典を読むことに正当な理由や立派な動機なんて必要ないし、『源氏物語』や『伊勢物語』や『徒然草』だけが古典というわけでもないのだ。
じっさい、古い作品には思いもよらぬユニークな物語が転がっていたりする。ロマンチックな恋心から滑稽話まで、顔も知らない、でもどこかで聞いたことがあるような、いつかの時代を生きた人たちの身の上話をしよう。
失恋話の集大成 『平中物語(へいちゅうものがたり)』
平安朝文学の頂点が『源氏物語』なら、失恋挿話の集大成は『平中物語』かもしれない。
ここでは、からかい上手な女たちの、笑いあり、涙あり、の王朝での恋話が繰りひろげられる。
女たちの冴えた返信
ある女に夢中になっている男がいた。
しかし相手は一向に男の文に応えてくれるようすがない。思いつめた男は、「せめて自分の手紙を見たというだけでもよい。返事をよこしてほしい」と頼む。男が期待に胸を膨らませていると、ついに文が返ってきた。
懇願にこたえて女は「見つ」と二文字だけの文面をよこした。
きわめて現実的なお返しだ。
その気のない女たちの返信は、ぴりりと辛辣でどれも爽快。
またある男は、「あなたに恋焦がれるあまりに恋死にしそうだ」と女に伝える。
すると女のほうは、「人は病気で死ぬのであって、恋愛で死にはしません」と返してみせた。もちろん、こんな二人の仲だからこの後の進展は期待できない。
男のほうから女をあきらめたという話もある。
ある男はひとりの女に長いあいだ憧れていたが、この女が人目を気にしすぎる性格だったために面倒くさくなって別れてしまった。
またある男は、念願かなってお忍びで女に会いに行くも、女が植えこみのなかにこっそりと僧侶を忍ばせているのを見つけてショックを受ける。とはいえ、もしここで自分が騒ぎたてれば、女のほうは坊主の申し込みが先だったと答えるにちがいない。とはいえ、腹がたたないわけがない。だんだん胸がむかついてきたので、男は女をあきらめてしまった。
当人たちにはロマンチックな恋も、読んでいるこちらとしては、まるで友人のお喋りを聞いているようで笑ってしまう。
女性の気質を描いた浮世草紙『世間娘容気(せけんむすめかたぎ)』
戦国時代が終わり、平和な時代を生きた人びとの心情が描かれる『世間娘容気』には、タイトルのとおり、さまざまな町娘が登場する。エネルギッシュでパワフルな娘たちの様子は現代にも通じるものがあって、それだけで十分に面白いのだけれど、と同時に、当時の女性観やモラル、女性の社会的地位などを霞んでみることができるのも特徴だ。
陽気な女の子たちとお転婆姉妹
たとえば、男装して、夫と二人で遊び歩く娘。
親の過保護が過ぎるために、新婚の夜さえ乳母が添い寝して乳を飲ませてもらっている娘。
嫉妬心が強いことで有名な娘の結婚相手は、彼女を凌ぐ嫉妬深い性格だった、という話。
「姉妹もの」もあって、これはまるでドタバタ劇だ。
結婚の日に婿が頓死してしまい、処女のまま尼になろうとする姉。しかし、それでは家が絶えてしまうからと再婚するも、姉は新しい夫に妾をもたせることにした。どうしてそんな面倒なことをするのかといえば、両親の死後、尼になるつもりでいたからだ。
いっぽう妹のほうは、姉とちがって恋多き女性。
結婚してすぐに別の男と密通しているのがばれて実家へ戻り、今度は家の若い連中を誘惑しはじめる。再婚させようとしたところ、我こそ婚約者、と名乗る男が証文をもって乗りこんでくる始末。
家を出たり入ったりを繰りかえす姉妹の騒がしい様子が伝わってくる。
戦国時代の笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』
戦国時代の笑い話なら『醒睡笑』。当時の町の噂がたっぷりと、赤裸々に書き留められている。
隣夫婦の痴話喧嘩
これは、夜中に目を覚ました夫婦のひと場面。
隣の夫婦喧嘩の気配に目を覚ました夫婦が、壁越しに聞き耳を立てている。どうやら喧嘩の原因は、お隣の亭主の浮気らしい。
途端、妻は一緒に聞き耳をたてていた夫の頭をぴしゃりと叩く。「なにをするのか」と驚く亭主。「隣の亭主と同じことをしたら、こういう目にあうのだ」と警告する妻。
どこの家庭にもありそうな、ささやかだけれど、真剣な日常のひとこまがとてもいい。軽妙な夫婦の会話は、いつの時代もやっぱり面白い。
夫婦生活における女性の強さが垣間見えることも『醒睡笑』の面白さだ。とはいえ家庭で権力を握る女性像は、当時の女性の地位の低さを「笑いをもってする強力な反論」にしているとの指摘もある。当時の民衆の考えや心のうちを知ることのできるという意味でも、貴重な作品集だと思う。
庶民の男色文化
ところで『醒睡笑』には、男性同士の性愛話もおおい。
現代社会ではまだひっそりと語られがちな性関係(男色)も、当時の社会では、女色とおなじように日常生活に溶けこんでいたのだ。しかも、それが当然のこととして、道徳的な非難を受けることもなかった、という事実もみてとれる。
日本人の「恋」
恋は愛に、愛は生の欲動と意志に結びついている。
人は誰しも、独自の仕方で恋愛に参加し、それぞれのかたちで他人に惹かれたり、裏切られたり、想いを伝えたりする。だから世界の文学に恋愛物語はつきないのだし、じっくり見さえすれば、この瞬間も、世界のあらゆる場所で物語が生みだされていることに気づくはずだ。
親子や夫婦や友人同士など情愛を表現する「愛」にくらべると、「恋」という言葉は、いささか限定的な意味で使われがちかもしれない。しかし日本では、恋という言葉は、もともとかなり広い意味で使われていた。恋は、愛情表現を担う唯一の日常語だった。
たとえば萬葉集では、恋(こひ)は「孤悲」と表記されることもある。
単に漢字の音を借りただけで特定のイメージを反映することはできないけれど、それでも「孤悲」という字には、孤独の悲愁(なんていうと格好つけすぎかもしれないが)、想いを寄せる相手に会えない悲しみ、といった恋する人なら誰しも経験のある心の複雑さを見事に表現しているように思う。
【参考文献】
中村真一郎『日本古典にみる性と愛』新潮社、1975年