2024年大河ドラマ『光る君へ』で渡辺大知(わたなべ だいち)さんが演じる藤原行成(ふじわらの ゆきなり)。公式サイトの紹介では『細やかな気遣いで実務に能力を発揮』『文字の美しさでは右に出る者がおらず』とあり、渡辺さんの優しい雰囲気も相まって大人しそうで苦労しがちな印象があります。
では実際はどんな人だったのでしょうか? というのを紐解く前に、複雑な人間関係を整理しなければなりません。
藤原行成とその周辺
藤原行成が活躍したのは、一条(いちじょう)天皇の時代。この時代に世間をブイブイ言わせていた4人の公卿「四納言(しなごん)」の1人です。そして彼らの支援を受けるのが藤原道長(ふじわらの みちなが)。
▼一条天皇についてはこちら。
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平安時代は「藤原だらけで関係がわからない!」と言われがちですが、なぜそうなったかというと……。飛鳥時代の大化の改新でおなじみの中臣鎌足(なかとみの かまたり)さんが、この功績で藤原姓を名乗ることとなったのは有名ですが、その孫が4人いました。その4人が奈良時代にそれぞれ「南家(なんけ)」「北家(ほっけ)」「京家(きょうけ)」「式家(しきけ)」といわれる4つの家を作りました。
その中で平安時代に最も栄えたのが「北家」です。行成も道長も北家の人物で、行成の祖父と道長の父が兄弟という関係になります。
もともとは、行成の祖父である伊尹(これただ/これまさ)が北家嫡流でありましたが、若くして亡くなったため伊尹の弟・兼家(かねいえ=道長の父)が嫡子となりました。道長も兄が2人いたのですが、父・兼家の死後にすぐ病死してしまったため、道長が目立ってきたのです。道長が満39歳の頃でした。
そしてちょうどその頃、下級役人としてコツコツ働いていた行成が、はやり病で空いた蔵人頭(くろうどのとう=天皇の秘書官の長)に満23歳で異例の大抜擢をされました。
兄一家とライバル関係だった道長ですが、行成とは血縁者としても遠かったためか、あまりライバル視はしていなかったようです。行成の日記にも親密な関係だったと書かれています。
藤原行成と清少納言のエピソード
行成が最初に仕えたのは一条天皇。その后である藤原定子(ふじわらの さだこ/ていし)という女性に仕えていたのが清少納言(せいしょうなごん)です。
定子は道長の兄道隆(みちたか)の娘ですが、道長は自分の娘である彰子(あきこ/しょうし)を入内(じゅだい)させて、後宮でも兄の一族に対して政争を仕掛けます。ちなみに、この彰子に仕えていたのが紫式部(むらさきしきぶ)です。
▼紫式部はこんな人。
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清少納言は自身の随筆『枕草子(まくらのそうし)』で行成のことをいくつか書き残しています。
ふう〜ん、おもしれぇ男。
清少納言が、とある女房(にょうぼう=身分の高い侍女)と長い間立ち話をしている行成を見かけました。
清少納言は彼をからかってやろうと「何をそんなに仲良くしているのかしら。彼女だって源扶義(みなもとの すけよし)さまや藤原忠輔(ふじわらの ただすけ)さまがいらっしゃったらそっちに行っちゃうわよ」
ちなみに彼女が名を出した2人は出世コースの実務官僚の人です。身分がモテに直結している時代だと考えるとかなりエッグイからかいだなぁ……と個人的に思います。
しかし行成は笑ってこう答えました。
「誰か、かかる事をさへ言ひ知らせけむ。それ、『さなせそ』とかたらふなり」
「誰がそんな事まであなたにお知らせしたのでしょう。まぁ、そういう事なのでお2人が来ても私を見捨てないでねって話してたんですよ」
ま、わたしは彼の才能をわかってるけどね
このサラッとしたユニークな返しに清少納言は感心したのか、こう書きました。
いみじう見え聞こえて、をかしき筋など立てたる事はなう、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたるに、なほ奥深き御心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など、御前にも啓し
『別に風流な噂もないし、実際に見た目もパッとしないカンジだから、ごく普通の平凡な男だとみんな見てるんでしょうけど、私は彼の心の奥深さを知ったから「彼は凡人なんかじゃありませんよ」って定子さまにも言っておいたのよ』
現代よりも、階級社会だった平安時代。つい最近までただの下級役人だった行成が宮中の人々に白い目で見られたであろうことは想像に難くありません。しかしそれにとらわれずに、行成の才能をすぐに見抜いた清少納言。さすがの才女っぷりですね。
……って、なんでいつも私なのよ!!
ちなみに清少納言は行成より6つ年上です。周りは政敵だらけといっても過言でもない宮中で、こんな風に自分を認めてくれる先輩がいたら懐いちゃうのもわかります。
わかりますが……行成は定子さまに取次ぎをお願いするときはいつも清少納言に頼っていました。清少納言が別の用で部屋にいないときは宮中を探し回り、長期休暇で実家に帰っていても実家までおしかける始末。……そこまでするのは、ちょっとわかりませんね。
困った清少納言が「ほかの人に頼んでよ!」といっても聞く耳を持ちません。口論になってしまい、とうとう絶交状態になってしまいます。
その時の行成の捨て台詞がこちら。
「げに、にくくもぞなる。さらば、な見えそ」
「ああ、もうほんと憎たらしくなってきた! もう会わない!!」
……って、子どもか!!
あんたって、ほんと……しょうがないんだから!
行成と絶交状態となってしまった清少納言。ある寝起きの朝、偶然一条天皇と定子が久々に仲良く庭を散歩している姿を見かけました。それを「尊い……ッ!」と眺めていたら、ふと御簾の隙間から行成がこちらを覗いているのを見つけました。
当時、かなり仲がよくない限り男女が顔を合わせることは基本ありません。今までの行成と清少納言のやりとりは御簾越しに行われていたもので、ここで行成は初めて清少納言の顔を見たことになります。
「何してんのよ!」と驚く清少納言に、行成はこう答えました。
女は、寝起き顔なむいとよき、と言へば、ある人の局に行きて、垣間見して、またも見えやする、とて来たりつるなり。まだうへのおはしましつる折からあるをば知らざりける
「女性というものは、寝起きの顔がとてもよいというので、じゃぁとある女性の所へ行って覗こうと思って来たのですよ。一条天皇たちがいらっしゃる前からいました。気づきませんでしたか?」
いや、ほんと何してんの? さっぱりわかりませんが、清少納言はこの答えを面白がったのか仲直りし、以来御簾をくぐって、中に体を差し入れておしゃべりする仲になったそうです。……いや、頭良い人同士の仲ってよくわかりませんね。
ちなみに、よく行成と清少納言は恋仲だといわれています。しかし、枕草子の描写は「かなり仲が良い」と言えますが、それ以上の関係であったのかは明らかではありません。私はどちらかというと姉弟みたいな感じだったのかなぁと思います。
藤原行成と百人一首の和歌
行成の時代から約200年後。藤原定家(ふじわらの さだいえ)が百人一首を作りました。その百人一首の中に清少納言の歌もあるのですが、その歌が作られた時のエピソードも『枕草子』の中にあります。
清少納言と夜遅くまで話し込んでいた行成ですが、『明日は宮中で物忌みだし、丑の刻になってしまう前に……』と清少納言の元を去ってしまいました。そして翌朝、清少納言の元に行成からの手紙が届きました。
「今日は、残り多かる心地なむする。夜を通して、昔物語も聞こえ明さむとせしを、鶏の声に催もよほされてなむ」
「まだまだ話したりなくて、心残りも多い気がする。夜通し昔話で盛り上がりたかったのに、鶏の声にせかされてしまったよ」
これに清少納言は「言葉が多くて素晴らしいわ!」と感激(?)してお返事を書きました。(なんかこの部分、すごく京ことばっぽいなぁって思います)
「あんな夜中に鳴く鶏って、孟嘗君(もうしょうくん)の鶏かしら?」
これに行成は「孟嘗君は鶏を鳴かせて函谷関(かんこくかん)を開いて、三千人を逃がしたと中国の歴史書『史記(しき)』にあるけれども、あの鶏が開いたのはあなたと私の逢坂の関(おうさかのせき)ですよ」と返事しました。逢坂の関は平安京の東の出入り口にあたる関所で、別れや再会の歌によく読まれます。
これに清少納言が返したのが、百人一首に採用された歌です。
夜をこめて鳥の空音(そらね)は謀(はか)るとも よに逢坂の関は許さじ
「夜が明けないうちに鶏が鳴いたなんて嘘おっしゃい。逢坂の関の関守は函谷関の関守と違って騙されないわよ(私は絶対にあなたを許さないからね)」
それに対する行成の返歌がこちら。
逢坂は人越えやすき関なれば 鳥鳴かぬにも開けて待つとか
「逢坂の関は函谷関の関と違って人が越えやすい関なので、鶏が鳴かなくても開けて待ってるそうですよ(でも、あなたは私をいつでも待っているでしょ?)」
……自信満々だな!? 相手から愛されてるってわかってなきゃ言えないですよこんなこと!
これに対して清少納言は「行成さまの歌が素晴らしすぎて、歌を返せませんでした」なんて書いてますが……これ、絶対呆れてますよね?
藤原行成の書の代表作
藤原行成について語る上で外せないのが、書の達人であるということ。10世紀に活躍した3人の書の達人を「三蹟(さんせき)」と言いますが、行成はその1人です。
どれほどの腕前なのかは、実際に残されている書を見てみましょう。歴史に名を遺す美文字ストなだけに「藤原行成の書だ」と伝わっているものはたくさんありますが、「確実に」藤原行成の書と断定できるものはわずかに5点。そのうちの2点は東京国立博物館が所蔵するものです。
う~ん……。こう、読みやすい字なうえに、真っすぐに書けるのはすごいですね。
ちなみに下記は、かの百人一首の選者にして、悪筆で有名な藤原定家(ふじわらの さだいえ)の書。
……比べるのもちょっと意地悪な気もしますが、気難しくって頑固で気性も激しかった定家と比べると、行成は地味で大人しそうで真面目な印象が、字からも見て取れますね。清少納言の『枕草子』に描かれる、ちょっと子どもっぽい印象とはまた違う味わいです。
藤原行成の日記
藤原行成は当時の貴族のたしなみとして、日記を書き残しています。その名も『権記(ごんき)』。これは、行成の最高官位である「権大納言(ごんの だいなごん)」から取られています。
一条天皇や藤原道長と親しくしていた人物のリアルタイムの日記で、宮廷内での政治家としての生活や儀式について書かれています。そして先述の通り行成は美文字だったため、多くの写本を依頼されていたようで、平安時代の朝廷内の儀式や学問・文化や風俗なども知ることができる貴重なものです。
残念ながら原本は残っていませんが、現存する最古の写本も鎌倉時代になる前に制作されているため、歴史史料としても価値が高い第一級の史料です。
藤原行成の魅力
不遇な時代を経て、その才覚を買われて大出世した藤原行成。実務能力が高く、仕事一辺倒で真面目な性格かと思いきや、親しい間柄の人物には子どもっぽい茶目っ気を見せる。
そんな人間らしい藤原行成を『光る君へ』で渡辺大知さんがどう演じるのか、とても楽しみですね。
参考文献:
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
清少納言『枕草子』
黒板伸夫『藤原行成』(吉川弘文館)
池田亀鑑校訂『枕草子』(岩波文庫)
アイキャッチ画像:冷泉為恭『藤原行成像』 慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)