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2023.09.27

祟りの発端は豊臣秀吉? 姫路城大天守に祀られる「おさかべ姫」の謎

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「鼻をつままれてもわからない」

という言葉があります。真っ暗闇で、何も見えない状態のことです。
日常生活では、夜でもめったに経験することはありません。それだけ現在の私たちの生活には、光があふれています。私は学生の頃、栃木県奥日光の夜道で、それに近い経験をしたことがあります。街灯もない山沿いの道はこんなに暗いものなのかと、歩きながら実感しました。それでも、わずかな星明りはありましたから、完全な真っ暗闇とはいえないでしょう。むしろ完全な真っ暗闇は、外光を遮断した建造物の中でこそ、体験しやすいのかもしれません。
私が建造物内の暗闇で連想するのは、お城の櫓(やぐら)の中です。以前、雑誌の取材で、全国のお城に現存する、普段は非公開の櫓の中を撮影していったことがありました。ほとんどが文化財指定された、貴重なものです。管理者の方に開錠していただき、重い引き戸を開けると、埃っぽさと、古い木造建築特有の懐かしいような匂いが鼻をつきます。戸を開けたことで、一階部分は外光が入ってぼんやりと薄暗いですが、窓が閉ざされているため、二階櫓などの場合、階段の途中から二階にかけては、漆黒の闇。懐中電灯を持った管理者よりも先に階段を上ると、何も見えない、まさに「鼻をつままれてもわからない」闇が広がっていました。

今回ご紹介するのは、そんな城の建造物の、暗闇の中での怪異潭(かいいたん)です。

天守に灯る火

兵庫県姫路市の国宝姫路城。純白で優美な天守や建造物の姿は、白鷺(しらさぎ)にたとえられ、世界遺産にも登録されていることは、多くの人がご存じでしょう。

2009年から約5年半かけて大天守保存修理が完成。姫路城の白さに磨きがかかって、美しいと評判です。

現在の姿の姫路城を築いたのは、戦国武将の池田三左衛門輝政(いけださんざえもんてるまさ)でした。
織田信長の重臣、池田勝入斎恒興(しょうにゅうさいつねおき)の次男が輝政です。剛直な武人で、信長の近習(きんじゅう)を務めました。信長の死後、父と兄が小牧・長久手の戦いで徳川軍に討たれたため、輝政が家を継ぐことになり、豊臣秀吉に重んじられます。しかし秀吉が死ぬと徳川家康に接近し、関ヶ原合戦の功績で播磨(はりま)姫路52万石を獲得。関ヶ原の翌年の慶長6年(1601)より、姫路城の大改修を始めます。家康より信頼されていた輝政は、西国の大名を牽制する役割を託されていたといわれ、「西国将軍」と呼ばれることもありました。そして8年間の改修を経て、大城郭に生まれ変わった姫路城は、西国をにらむ要(かなめ)の城と位置づけられたのです。

大天守も美しく完成し、城の大改修が一段落した慶長14年(1609)の暮れのこと、輝政のもとに一通の書状が届けられました。家臣が城内で見つけたもので、内容は城内に寺院を建立(こんりゅう)するよう求めるものでした。差出人の名は「播磨のあるじ」。播磨一国を預かる輝政に対して無礼な物言いであり、輝政は黙殺します。

それから少し経った、ある夜のこと。輝政が側近くに仕える家臣らを集めて、たわむれにこんなことを言ったと『諸国百物語』に記されています。

「天守の最上階に、夜な夜な火が灯るという噂がある。誰でもよい、確かめて参る者はおらぬか」

誰もが尻込みする中、まだ18歳の家臣が「それがしが、見て参ります」と申し出ました。
「しからば、証拠となるものを持って行け」と、輝政は提灯(ちょうちん)を家臣に渡します。

「天守に灯る火を、これに移して参れ」

家臣は火のついていない提灯を手に、一人で真っ暗闇の天守の階段を手探りで上っていきました。最上階の6階にまで上ると、広間の一角にぼんやりとした光があり、よく見ると、17~18歳ほどの十二単(ひとえ)を着た女が、火を灯して座っています。女は家臣に気づくと、声をかけました。

「その方はなにゆえ、ここに参ったのか」
「それがしは主人の言いつけで、参った者。灯火を、こちらの提灯にも移してもらえぬか」
「主命とあれば、許してとらそう」

女は傍らの燭台(しょくだい)の火を提灯に移し、家臣は喜んで受け取ると、その場を離れて階段を下り始めました。ところが3階まで下りたところで、火が消えてしまいます。仕方なく家臣は再び最上階に戻り、「すまぬが、すぐに火が消えぬように、灯してもらえぬか」と女に頼みました。女は蝋燭(ろうそく)を取り換えてくれ、「ここに来た証(あかし)にせよ」と、家臣に櫛(くし)を与えました。

家臣はそのまま輝政のもとに戻り、女が蝋燭を交換した提灯を見せると、「奇妙なこともあるものだ」と輝政は驚いた様子で、提灯の火を消そうとしますが、消えません。そこで家臣が吹くと、すぐに火は消えました。「他に、不思議なことはなかったか」と輝政が訊くと、家臣は女から渡された櫛を懐から取り出して、見せます。それは、具足櫃(ぐそくびつ、甲冑をしまう箱)に入れておいたはずの、輝政のものでした。すぐに輝政が具足櫃をあらためると、対(つい)になっている櫛の片方がありません。まさに、家臣が天守から持ち帰った櫛が、それだったのです。

驚いたものの納得のいかない輝政は、自ら一人で天守に上りました。最上階まで上ると、確かに広間の燭台に火が灯っていますが、人影はありません。どういうことなのかと思案する輝政のもとに、普段なじみにしている座頭(ざとう、琴や平家琵琶などを演奏する盲目の芸能者)が現われます。

「おお、そちか。なぜ、ここに来た」
「はい。お殿様がお寂しかろうと存じ、参りましたが、どうしたことか、琴の爪ばこ(琴を弾く際に用いる爪を入れる小匣〈こばこ〉)のふたが開きませぬ」
「わしによこせ。開けてやろうぞ」

輝政が爪ばこを手に取ると、なぜか手にはりついたまま、取れなくなりました。

「おのれ、わしをたばかるか」

怒った輝政が、爪ばこを足で踏み割ろうとすると、今度は足にもはりつき、身動きできなくなります。すると座頭の体がみるみるふくれ上がり、身の丈(たけ)一丈(じょう)〈約3m〉の鬼神と化しました。

「われはこの城の主なるぞ。われをおろそかにし、尊ばぬというのであれば、いまこの場で、引き裂いて殺してくれようぞ」

仰天した輝政が鬼神に何度も詫びると、鬼神の姿は消え、爪ばこも手足から外れました。やがて夜が明け、輝政が我に返ると、そこは天守の最上階ではなく、自分の居室であることに気づいたといいます。

確かに天守に上ったのに、どうして……。夢であって欲しいけれど、そうではなさそうな。不可解ですね。

姫路城内の階段

加持祈禱での異変

この話が載る『諸国百物語』(延宝5年〈1677〉)では、城主の名を「秀勝(ひでかつ)」としています。しかし、姫路城の歴代城主に秀勝を名乗る者はなく、また『諸国百物語』を引用したと明記する『播陽因果(ばんよういんが)物語』(宝暦3年〈1753〉)には、城主名が池田輝政になっていますので、輝政のエピソードとして語られていたとみてよいでしょう。

ただし、三坂春編(みさかはるよし)『老媼茶話(ろうおうさわ)』(寛保2年〈1742〉)には、全く同じ展開のエピソードながら、これを姫路藩主・松平大和守義俊(まつだいらやまとのかみよしとし)の時代のことで、天守に上った若い家臣の名は森田圖書(もりたずしょ)であるとしています。また森田が天守で女から渡されたのは櫛ではなく、兜の「錣(しころ)」(兜の後ろに垂らし、首を守る防具)でした。松平大和守義俊という名の藩主は実在しませんが、著者の三坂と同時代の藩主が松平侍従(じじゅう)明矩(あきのり)で、侍従になる前は、大和守でした。また初名が「義知(よしちか)」ですから、それを一字変えたものと考えてよいでしょう。池田輝政よりも、140年ほど後の人物です。ではなぜ三坂は、輝政のエピソードとして知られるこの話を、わざわざ松平大和守のエピソードに変えて記したのでしょうか。それについては、また後ほど触れたいと思います。なお大正時代に泉鏡花が著した戯曲『天守物語』は、森田圖書が登場するこちらを下敷きにしています。

坂東玉三郎が監督・主演の映画『天守物語』は、おどろおどろしくて、美しい独特の映像でした。天守に上った若い家臣は、宍戸開。若かりし頃の宮沢りえも出演。

輝政を襲う怪異はしかし、その後も姫路城で続きました。
侍女(じじょ)が何者かにさらわれ、行方知れずとなる。ある侍は白昼、傘を差したまま空中に飛ばされた。輝政の枕元に大男の山伏(やまぶし)が立ち、忽然と消えた。侍女の枕元に数珠をまさぐる坊主が現われ、家臣が刀で斬りつけると消えた。夜な夜な、数十人が泣き叫ぶような声が響く……。そんな不気味な出来事が頻発していたある夜、身分の高い奥女中の枕元に若い女が立ち、「御屋形(おやかた)様が近く、病になる」と告げて、消えました。

数日後、輝政は城下の家臣の屋敷に出かけますが、その帰路、空を無数の烏(からす)が乱舞し、輝政が乗る輿(こし)に次々とぶつかってきます。供をする家臣らは不吉に思い、行列の足を速めて御殿に戻りますが、直後に輝政は人事不省(じんじふせい)となって倒れ、臥せってしまいました。医者が診察しても原因がわからず、家臣らは比叡山の高僧を招き、加持祈禱(かじきとう)を頼みます。なお比叡山というのは近江(滋賀県)の延暦寺(えんりゃくじ)ではなく、「西の比叡山」と称された播磨の圓教寺(えんぎょうじ)のことではないでしょうか。『諸国百物語』には、次のような話が載ります。

高僧を招き、天守で祈禱を行うこと7日7夜。7日目の夜中に、異変が起こりました。
突然、年の頃30ほどの薄化粧をした女が、練絹(ねりぎぬ)の着物をかぶって高僧の前に現われ、なじります。

「なぜ、そのように加持祈禱をしているのか。そんなものでは効き目がないぞ。さっさとやめよ」

女はそう言うと、護摩(ごま)の壇に上がり、高僧をにらみつけました。高僧は動じずに言い返します。

「何者が女の姿となり、わしに向かって言葉を吐くか」

女と高僧はしばらく問答しますが、ついに女はみるみるうちに身の丈2丈(約6m)の鬼神に変じました。高僧はとっさに傍らに置いていた剣を握り、突こうとしますが、鬼神が声を上げます。

「われはこの国(播磨)にかくれなき(知らぬ者のない)、権現(神)であるぞ」

鬼神は高僧を蹴り殺し、そのままかき消えたと、池田家の家臣が語っています。

高僧でも勝ち目がないなんて!恐ろしい!

護摩

姫山のおさかべ神

輝政の病の原因が、「人外の者」のしわざであることはわかりましたが、高僧による加持祈禱も効き目がなく、家臣らが困っていると、どこからともなく緋袴(ひばかま)をつけた16歳ほどの娘が現われ、家臣に書状を渡しました。そこには「輝政の本復を願うのであれば、城内に八天堂(はってんどう)を建立(こんりゅう)し、毎日2座ずつの護摩を焚(た)いて、祈禱するように」と記されていたのです。家臣らは圓満寺(えんまんじ、兵庫県多可町)の僧・明覚(みょうかく)とも相談し、書状の通りに実行すると、城内の怪異はピタリと治まり、輝政も奇跡的に回復したといわれます。

通説では輝政が倒れたのは慶長17年(1612)の1月のことで、病名は中風(ちゅうぶう、脳卒中)でした。そして、このときは軽症で回復しています。同年8月には、駿府(すんぷ)城(静岡市)の家康、江戸城の将軍秀忠(ひでただ)を訪ねるほど、元気になっていました。

では、輝政を襲った「この国にかくれなき、権現」とは何者だったのでしょうか。天狗であった、狐であったという説もありますが、最も広く知られているのが、城が築かれた姫山の地主神(じぬしのかみ)である、おさかべ神(刑部神、長壁神)の祟(たた)りであったというものです。

『播磨国風土記』によると、神代の昔、火明命(ほあかりのみこと)が起こした風波で父神の大汝命(おおなむちのみこと)が乗る船が壊れ、さまざまなものが播州平野に落ちて、14のお椀を伏せたような丘となりました。そのうち蚕子(ひめこ、かいこのこと)が落ちてできた丘は、「日女道丘(ひめじおか)」と呼ばれ、これが姫路の地名の由来とされます。ただし、日女道丘は長く「姫山」と呼ばれ、姫路という地名が使われ始めたのは、戦国時代に羽柴秀吉が姫山の城を支配した頃からでした。

おさかべ神は、古くより姫山に祀られていたようです。素性については諸説ありますが、まつわるエピソードはすべて女性の姿で現れていますので、姫神と考えられ、おさかべ姫とも呼ばれます。姫山は播州平野の中心に位置し、姫路の語源ともなった播磨国の象徴ともいえる地です。その地主であるおさかべ神が、「この国にかくれなき、権現」と言うのは、当然の自負であったでしょう。なお姫山には南北朝時代頃より赤松(あかまつ)氏が砦を築き、戦国の頃には黒田(くろだ)氏が居城としていました。やがて黒田官兵衛(かんべえ)より城を譲られた秀吉が、城を改修するにあたり、おさかべ神を城下の播磨総社に移したといわれます。姫山を追われたおさかべ神の怒りは本来、秀吉に向けられるべきでしょうが、秀吉はほとんど姫路城を留守にしていたため、関ヶ原合戦後に壮麗な城を築いた池田輝政に、「われこそが姫山の城の主」とアピールしたのかもしれません。

豊臣秀吉が災いの種をまいていたとは、意外な展開。そして、本人には危害が与えられないなんて。運がいいというか……。

日女道丘(姫山)と周辺の丘(国土地理院地図を加工)

この城は誰のものか

さて、一旦は回復した池田輝政でしたが、駿府、江戸から帰国した翌年の慶長18年(1613)1月に中風が再発し、姫路城内で死去しました。享年50。この急死についても、おさかべ神の祟りではないかという話がありますが、前年、池田家はおさかべ神の要求通りに城内に八天堂を建て、また城下の総社に移されていたおさかべ神を城内に祀り直したともいわれます。だからこそ輝政は一度回復したわけで、それを再び祟る理由はないでしょう。輝政の死とおさかべ神は無関係であると、私は考えます。ただ、輝政の死に不審な点もあります。それは、輝政が吐血したという記録があることです。脳内出血が原因の卒中で、吐血は起こりません。すると輝政の本当の死因は、中風ではなかった可能性が生じます。輝政逝去は、大坂冬の陣の前年のこと。その死に、大坂城の豊臣秀頼(ひでより)の家臣らが落胆したという話も伝わりますから、姫路52万石池田家の存在を警戒した徳川幕府が、謀略をめぐらせた可能性もあり得ない話ではないのです。

一方、姫路城内に八天堂が建てられた後、おさかべ神がおとなしくしていたかというと、決してそうではありません。松浦静山(まつらせいざん)の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』(文政4年〈1821〉~天保12年〈1841〉)には、次のような記述があります。

「世に云(い)ふ。姫路の城中にヲサカベと云妖魅(ようみ)あり。城中に年久(ひさし)く住(すまえ)りと云ふ。或云(あるひはいふ)。天守櫓(やぐら)の上層に居て、常に人の入ることを嫌ふ。年に一度、其城主のみこれに対面す。其余(ほか)は人怯(おそ)れて不登(のぼらず)。城主対面する時、妖(あやかし)其形を現すに老婆なりと伝ふ。(以下略)」

松浦静山はおさかべ神を「妖魅(妖怪)」として記していますが、それはともかく、おさかべ神は依然、天守の最上階にいて、年に一度、城主と対面し、その際は老婆の姿であったというのです。城主と年に一度、対面したことを裏づける記録はありませんが、城主が替わるごとに、少なくとも一度は現われていたと思わせる話があります。大正時代頃に活躍した作家の岡本綺堂(おかもときどう)は、随筆『小坂部(おさかべ)伝説』で、次のような内容を紹介しています。

「城の持ち主が代替りになるたびに、必ず一度ずつはかの小坂部が姿をあらわして、新しい城主にむかってここは誰の物であるかと訊く。こっちもそれを心得ていて、ここはお前様のものでござりますと答えればよいが、間違った返事をすると必ず何かの祟りがある。現にある城主が庭をあるいていると、見馴れない美しい上臈(じょうろう、身分の高い女性)があらわれて、例の通りの質問を出すと、城主は気の強い人で、ここは将軍家から拝領したのであるから、俺のものだと、きっぱり云い切った。すると、女は怖い眼をしてじろりと睨んだままで、どこへかその姿を隠したかと思うと、城主のうしろに立っている桜の大木が突然に倒れて来た。(中略)その城主は間もなく国換えを命じられた」

姫山と姫路城は私のものだ……。おさかべ神は城主が替わるごとにそのことを念押し、自らを崇(あが)めるよう求めたのでしょう。そして、従わない城主には容赦なく災厄をもたらす。それほど強い力を、おさかべ神は持っていました。

姫路城内の庭園・好古園

天守の新たな役割

そんなおさかべ神を崇敬したのが、寛保元年(1741)に国替えで姫路藩主となった、松平侍従明矩(まつだいらじじゅうあきのり)です。つまり前に紹介した三坂春編『老媼茶話』に登場する、松平大和守義俊のモデルでした。明矩は城内に祀られていたおさかべ神の社を、天守最上階に移したといわれます。常に「城の主」として天守最上階に姿を現していたおさかべ神ですから、明矩のはからいを喜んだことでしょう。

しかし明矩は、おさかべ神が天守最上階によく現われるからというだけで、社を移したわけではなかったかもしれません。というのも当時、天守には特別な役割があると考えられていたからです。そもそも天守は、居住空間ではありません(織田信長の安土城は例外)。天守の役割と利点について、江戸時代の軍学者がまとめた10項目「天守十徳」がよく知られています。次のようなものです。

一、城内を見る 二、城外を見る 三、遠方を見る 四、城内武者配り自由(指揮所の役割)、五、城内の気を見る 六、守備下知自由(守備)、七、寄せ手(攻め手)の左右を見る 八、飛物掛り自由(攻撃) 九、非常時変化(臨機応変の対応) 十、城の飾り(権威)

つまり天守は城内最高所の物見櫓であり、何より有事の際の司令塔と考えられていました。また平時においては、威厳のある姿を人々に見せつけ、城主の権威を高める効果も期待されています。とはいえ江戸時代の泰平の世になると、物見櫓や司令塔としての機能を発揮する機会は失われ、天守は権威の象徴、城のシンボルとしての役割のみを負うことになりました。そして普段、人があまり立ち入らない天守には、新たな役割が加えられることになります。すなわち、「祭祀空間」でした。

実際、最上階が祭祀空間を兼ねている天守は少なくありません。長野県松本市の国宝松本城天守最上階の梁(はり)の上には「二十六夜神」が祀られていますし、神奈川県小田原市の小田原城天守最上階には、「御天守八尊」と呼ばれる守護神が祀られていました。岡山県高梁市の備中松山城天守には「御社壇」と呼ばれる空間があり、そこに宝剣や神々が祀られていたといいます。これらは城のシンボルである天守に神を祀ることで、城の加護と安泰を祈ったものと考えられるでしょう。

おさかべ神の社を姫路城天守に移した松平明矩もまた、恐るべき力を持つおさかべ神を天守最上階に祀ることで姫路城の守護神とし、その力を城の加護に転用しようとしたと考えられます。そして、その話を伝え聞いた三坂春編が、本来は池田輝政時代のエピソードを、あえて松平明矩(作品の中では松平大和守義俊)を彩る逸話として『老媼茶話』で描いたのではなかったでしょうか。

大天守に祀られるおさかべ神

現在、姫路城の天守閣は見学できるので、お社を見ることができます。

大天守を焼夷弾が直撃

松平明矩の死後、15歳の息子朝矩(とのもり)は姫路から、上野国(群馬県)前橋に移ることになりました。その際、朝矩はおさかべ神の分霊を姫路城から遷(うつ)し、前橋城内に祀ります。前橋城は利根川を利用した要害の地でしたが、反面、暴れ川の利根川に侵食されて、城域がたびたび壊される欠点もありました。そのため朝矩はおさかべ神を祀り、その絶大な力で城を守ってもらおうとしたのでしょう。ただし、朝矩はおさかべ神を天守最上階ではなく、川に近い城内の西南に祠(ほこら)を建てて祀ったようです。それがおさかべ神の気に入らなかったのか、前橋城への利根川の侵食は止まず、ついに本丸の一角が崩れるに及び、朝矩は幕府に願い出て、前橋城を廃城にして、武蔵国河越(かわごえ)城(埼玉県川越市)に移ることになります。この時、朝矩の夢におさかべ神が現われ、「一緒に河越城に連れていってほしい」と頼みますが、朝矩は「城を守れなかったではないか」と拒み、おさかべ神の祠を前橋城に置いていきました。すると朝矩は河越城に移った翌年、31歳の若さで急死します。おさかべ神の怒りをかったのでしょうか。おさかべ神はその後、前橋東照宮に合祀されることになりました。

前橋東照宮には、こんな話が伝わっています。時代は下って、終戦直前の昭和20年(1945)8月5日の夜。アメリカ軍による前橋空襲が行われ、街は火の海となりました。前橋東照宮の神域にも焼夷弾(しょういだん)が落ち、炎が広がりますが、どこからともなく十数名の兵隊が現われ、手際のよいバケツリレーで延焼を食い止めます。ところが当時の宮司が御礼を言おうとすると、兵隊たちの姿はどこにも見当たりませんでした。彼らの姿を目撃した人の話では、兵隊たちが持っていた提灯に「長壁大神」 の文字が書かれていたといいます。

また、姫路城にも、こんな話が伝わります。前橋空襲の1カ月前になる7月3日、アメリカ軍による姫路空襲が行われました。本土空襲によって、国内に現存する貴重な天守のうち、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城が焼失しましたが、姫路城にもその危機が迫っていたのです。純白の大天守は目立つため、建物全体に黒い偽装網がかけられていましたが、軍需産業の拠点であった姫路への空襲は大規模で、街は焼きつくされました。そしてついに、姫路城大天守にも焼夷弾が直撃します。ところが、焼夷弾は奇跡的に爆発しませんでした。不発弾だったのです。また大天守以外にも、城内に数発の着弾がありましたが、不思議なことに爆発せず、ついに姫路城に炎があがることはなかったのです。空襲の翌朝、がれきと化した街に茫然とたたずむ人々は、姫路城が無傷で揺るぎなくそびえる姿を見て、涙を流したといいます。

何という奇跡!敵に回すと恐ろしいけれど、巨大なパワーを秘めていると感じます。

時代が移り、人間の城主がいなくなった姫路城大天守で、いまや名実ともに「城の主」として鎮座するおさかべ神。姫路城の守護神として、世の移り変わりをどのように眺めているのでしょうか。

姫路城大天守

参考文献:篠塚達徳訳著『新釈諸国百物語』(ルネッサンスブックス)、三坂大弥太『老媼茶話』(雨書房)、松浦静山『甲子夜話』(東洋文庫)、岡本綺堂『小坂部伝説』(青空文庫)、小和田哲男『戦国城郭に秘められた呪いと祈り』(山川出版社)、『名城を歩く 姫路城』(PHP研究所)、兵庫県立歴史博物館HP、前橋東照宮HP 他

書いた人

東京都出身。出版社に勤務。歴史雑誌の編集部に18年間在籍し、うち12年間編集長を務めた。「歴史を知ることは人間を知ること」を信条に、歴史コンテンツプロデューサーとして記事執筆、講座への登壇などを行う。著書に小和田哲男監修『東京の城めぐり』(GB)がある。ラーメンに目がなく、JBCによく出没。

この記事に合いの手する人

幼い頃より舞台芸術に親しみながら育つ。一時勘違いして舞台女優を目指すが、挫折。育児雑誌や外国人向け雑誌、古民家保存雑誌などに参加。能、狂言、文楽、歌舞伎、上方落語をこよなく愛す。ずっと浮世離れしていると言われ続けていて、多分一生直らないと諦めている。