2025年大河ドラマ『べらぼう』の主人公は、横浜流星演じる蔦屋重三郎。酒井抱一(さかいほういつ)は蔦重と一緒に出版物を作ることもあった、江戸琳派の絵師だ。意外にも抱一は町人ではなく武士階級出身で、筆者は勝手に「おぼっちゃんで、きっと優等生だったのだろう。」と思い込んでいた。
しかし抱一、実は遊廓に通い、艶っぽい狂歌も詠んだという。しかも狂歌では「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」という面白いペンネームを使っていたとか。いろいろ気になる抱一について、彼の実家、姫路藩の酒井家に詳しい姫路市立美術館学芸員・紅林優輝子さんに聞いてみた。
尚、聞き手はオフィスの給湯室で抹茶をたてる「給湯流茶道(きゅうとうりゅうさどう)」。「給湯流」と表記させていただく。
抱一は名門大名家の御曹司なのに、若いころから遊廓に通いまくり?
給湯流茶道(以下、給湯流):いきなりミーハーな質問ですみません。抱一は吉原の遊郭に通い、山東京伝や十返舎一九、蔦谷重三郎や大田南畝(おおたなんぽ)などと交流していたと聞きます。しかし、抱一の出身は姫路藩。姫路から江戸の遊郭に頻繁に通っていたのでしょうか?
紅林優輝子(以下、紅林):姫路藩、薩摩藩、などと聞くと、それぞれの地域に建てた城に住んでいるイメージがありますよね。ですが、大名家の御曹司たちは江戸の藩邸に住むことが多かった。抱一は江戸生まれ、江戸育ちなのです。
給湯流:なるほど。
紅林:抱一は名門・酒井家の次男。6歳上のお兄さん酒井忠以(さかいただざね)は文化人、とくに茶の湯の名人でした。多くの茶道具を集めた大名茶人、松平不昧(まつだいらふまい)と親しく交流していたようです。
給湯流:お兄さんが文化人だったとしたら、抱一が絵師を目指しても応援してくれたのでしょうね。
紅林:兄弟の仲は良かったことが、残された作品や文献からもうかがえます。また抱一は次男でお殿様ではありませんから、遊廓に通うことも黙認されたと思います。遊廓には松平不昧の弟や松前藩主の弟も通っており、吉原の「三公子」として名を馳せていました。
給湯流:いいなあ。お金を持っているから遊廓にいけば美女たちにチヤホヤされ、名家の御曹司としてリスペクトもされていたと。
紅林:羨ましいですよね。お兄さんは18歳で藩主を継ぎ、江戸の藩邸に文化サロンを開いていたようです。狂歌の名人、大田南畝もお兄さんのサロンに出入りしていたとか。6歳下の抱一は12歳ぐらいから、サロンをそばで見て、影響を受けていたと思いますね。お兄さんに紹介してもらえば、いきなり有名な文化人とも知り合いになれる。庶民から成り上がっていった絵師よりだいぶアドバンテージがあります。
給湯流:12歳から文化サロンに出入りするスーパーエリート抱一! お兄さんを通して大田南畝とも知り合い、抱一は狂歌を詠んでいたのですね。
紅林:また、遊廓はただの遊興の場ではなく、お茶会、歌会、書画会などを催す会場にもなっていました。上級武士や貴族の相手をする遊女は花魁(おいらん)と呼ばれ、和歌や漢詩などにも精通していましたし。
給湯流:遊廓は、ただ女の人とイチャイチャする場所ではなかったのですね。
紅林:はい。抱一の洒脱な芸術センスも、遊廓の文化的な催し物を通して育まれたと思います。
給湯流:抱一や蔦屋重三郎が活躍した時代の吉原は、文化や芸術の香りがプンプンしていたのですね。遊廓から、有名な絵師や文芸家が生まれていったと。かっこいい!
紅林:ちなみに抱一の時代から少し遡りますが、江戸時代、大名の藩主が遊廓に出入りしていた記録も残っています。姫路藩に酒井家が来る以前、榊原家が藩主をしている時期がありました。そこの藩主が遊女を側室に迎えたという。
給湯流:なんと! お殿様は武家の女性しか側室に迎えないと思い込んでいました。江戸時代、ガチガチな身分制度のイメージが崩壊!
紅林:ただ、その時はやりすぎだと徳川家から怒られたようです(笑)。
抱一の先祖が、尾形光琳のパトロンをしていた?
給湯流:酒井家は代々、芸術が好きな家だったのでしょうか?
紅林:江戸時代の大名家は新興貴族のような側面があり、どの家も茶の湯や能、絵を習ったりしました。その中でも酒井家は文化に力を入れる家であったと思います。酒井家が姫路に行く前、前橋藩主をしていました。その頃の1707年、酒井家は尾形光琳に給料、扶持(ふち)をあげていたのですよ。
給湯流:なるほど。ご先祖が尾形光琳の作品を持っていた。その影響で、抱一が光琳の作風を学び江戸琳派を確立したのかもしれない。
紅林:そういう側面はあると思います。お兄さんが茶会を開き、尾形光琳の絵を飾ったという記録も残っています。「これやこれ! 家に代々伝わってきた光琳やで~!」と茶会で話していたかもしれません。
給湯流:うおお! その茶会は、さぞかし盛り上がったでしょうね。
紅林:尾形光琳は破天荒な人だったと言い伝えがあります。芸術の才能があるとはいえ、問題を起こす可能性がある人に、今の政治家にあたる大名が給料をあげていた。個人的な推測ですが、光琳に扶持を渡した酒井家は、相当の芸術好きだったと思いますね。
遊廓の貴公子が自虐でつけたペンネーム「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」
給湯流:酒井抱一は絵を描くだけでなく、尻焼猿人というペンネームで蔦屋重三郎がプロデュースする本などに文章を寄せていたと聞きました。なぜそんな風変わりなペンネームをつけたのでしょうか?
紅林:昔の人は、サルは尻を焼かれたから赤い。だからサルは落ち着きがないのだと考えていました。そこから、せっかちで落ち着きのない人、1つのことに集中できない飽きっぽい人を、尻焼猿(しりやけざる)と呼んでいたようです。
給湯流:当時の人には、なじみがあった言葉なのですね。今風に言えば「せっかち焦男(せっかち・あせお)」とか、そんな名前かな(笑)。
紅林:尻焼猿人は、狂号。狂歌を詠むときの名前です。琳派の特長の1つに、様々なジャンルに手を出す、いろいろな分野に興味を持った点があると思います。抱一は尻焼猿人と名乗り、さまざまなことに手を出しては、ものにならないと謙虚に自分を落としていたのでしょう。尻焼猿人という名で抱一が詠んだ狂歌を1つご紹介しますね。蔦屋重三郎が版元で、喜多川歌麿が絵をかいた狂歌集(※1)の巻頭に載っています。
「惚れもせず 惚れられもせず 吉原に 酔うて廓(くるわ)の花の下影(したかげ)」(※2)
給湯流:遊郭で酔っぱらい、ふと外に目をやった。 すると植えられた花の影が見えた、といった感じでしょうか。
紅林:いかにも遊郭の貴公子という狂歌ですね。「惚れもしないし、惚れられもしない。俺はただ吉原で遊んでいるだけさ。」
給湯流:軽妙! みんなが浮かれる遊廓で、ただひとり冷静なシティーボーイの言葉だ。
紅林:抱一は出版物の冒頭をよく飾っているのですが、その背景には大名家の御曹司を起用して本に箔をつけたいという蔦重の考えもあったのでしょう。
給湯流:抱一が吉原に遊びにいくと、蔦屋重三郎に声をかけられ「坊ちゃん、今度、山東京伝の洒落本を出すんでさあ。一筆お願げーしますよ。」などと頼まれる。そんなシーンが妄想できますね。
紅林:大名家の子息が遊廓についての狂歌を載せるなど、なかなか大胆な行動ともいえます。しかし、当時は大名家が春画を持っていたようなおおらかな時代でした。とくに田沼意次も活躍した天明期(※3)は、江戸ののびやかな気運のなかで、抱一が狂歌も詠んでいた時期です。
給湯流:酒井抱一といえば「江戸琳派」。絵だけを描いた人だと思っていました。しかし抱一は吉原に通うシティーボーイでもあった。文芸に長けた人や浮世絵師、版元などさまざまな文化人が集まり、艶っぽく洒脱な空気があった遊廓。そんな場でネットワークをつくり、絵だけでなく様々な出版物を生んでいたのですね。抱一と蔦重、最高です! 今日は抱一の魅力を教えていただき、ありがとうございました。
※1 宿屋飯盛 撰 喜多川歌麿 画「絵本詞の花」1787年
※2 抱一の狂歌、原文は「ほれもせす ほれられもせすよし原に 酔うてくるわの花の下かけ」
※3 1781年~1789年
姫路市立美術館
姫路市立美術館では現在、「チームラボ 無限の連続の中の存在」を開催中!姫路市立美術館は、酒井抱一も訪れた姫路城のすぐ東隣りです!
詳細はホームページをご確認下さい。
チームラボ公式HP https://www.teamlab.art/jp/e/himeji/
姫路市立美術館HP https://www.city.himeji.lg.jp/art/
〒670-0012 兵庫県姫路市本町68-25
電話:079-222-2288
開館時間:午前10時00分から午後5時00分まで(入館は午後4時30分まで)
休館日:毎週月曜日(祝日・休日の場合を除く)、年末年始