2023年の大河ドラマ『どうする家康』では、女性が要所要所で、キーパーソンとなっています。江(ごう)を演じるのは楚々とした美しさが魅力のマイコさんです。また、江の母のお市と姉の茶々を北川景子さんが演じ分けて、注目を集めました。
江戸幕府誕生とともに、江はどのように描かれるのでしょうか。本記事では、両親や近親者の自害、三度の政略結婚、そして最後には、将軍の正室へと昇り詰める江の波乱の人生を追っていきます。
江の系譜
伯父は織田信長、父は北近江の大名、小谷城主の浅井長政(あざいながまさ)、母は信長の妹、お市と、名門の家系に生まれながら壮絶な人生を送るのが江です。後に豊臣秀吉の側室となる長女の茶々(淀殿)、北近江の守護であった名門、京極高次(きょうごくたかつぐ)の正室となる二女の初を姉に持つ、歴史上においても重要な地位についた、有名な三姉妹の三女でした。
母の政略結婚が三姉妹の波乱の人生のスタートに
美濃を制圧した織田信長は、京へ向かう際の軍事・交通の要地を押さえるべく、北近江の浅井家と同盟を結ぶため、妹であるお市を浅井家に嫁がせます。信長と縁戚関係を結んだ浅井長政は、南近江の六角氏と対峙しつつ、北近江での地位を確立していきました。長政と市の関係も良好で、幸せな日々が続いていたといえるでしょう。
しかし、戦乱の世は、昨日の友は今日の敵、一夜にして同盟が決裂することもあります。永禄13(1570)年、二女、初が誕生した年、信長は長政に越前の大名、朝倉義景(あさくらよしかげ)を滅ぼすため、加勢するよう求めます。しかしこの時、義景との関係を維持するため、長政は信長を裏切る行為に出てしまうのです。これにより、信長と長政は敵対することとなりました。
2カ月後、信長と家康の連合軍は、近江の姉川の戦いで浅井・朝倉勢を破ります。その後も小競り合いが続き、天正元(1573)年には、遂に一乗谷の戦いで義景が自害。小谷城に籠城していた長政も、秀吉を中心とした織田勢に攻められると、追い詰められ、自害の道を選びます。江が生まれて8日後のことでした。
「本能寺の変」により、三姉妹はさらなる激動の渦へと
父、長政は小谷城が落城する前に、お市と娘たちに城を出るよう説得。お市たちは苦渋の決断をし、信長の居城である岐阜城に引き取られます。この時、茶々は5歳、初は4歳、江は1歳、まだまだ幼子でした。しかし、伯父と慕っていた信長に父親の命を奪われた彼女たちの心には、大きな傷が残ったことでしょう。その後も三姉妹には、さらなる流転の人生が待ち受けていました。天正10(1582)年、明智光秀が謀反を起し、信長は京都の本能寺で自害。この本能寺の変を機に、情勢は大きく変わります。明智光秀を討った秀吉が、新たな権力の中枢へと躍り出たのです。そんな秀吉を牽制するための政略として、お市は織田家の宿老筆頭家臣である柴田勝家(しばたかついえ)の正室となり、越前へと移り住むことになります。ここで落ち着いた生活を得られると思ったのもつかの間、秀吉との戦いに負けた勝家とお市は自害。彼女たちはまたもや親族を失ってしまうのです。そして、この後、秀吉の天下統一への駒として、三姉妹は操られていきます。なかでも江は、三度の政略結婚に翻弄されていきます。
12歳で初婚、23歳になるまでに3度の政略結婚に翻弄された江
最初の結婚は、天正12(1569)年、12歳で信長の妹の息子、江の従兄弟であり、織田信雄の家臣でもあった尾張国知多郡大野城の城主、佐治一成(さじかずなり)に嫁ぎます。水軍で伊勢湾を押さえる佐治家との婚姻は、信雄を懐柔したい秀吉にとっても魅力的な相手だったのでしょう。しかし、この結婚は、すぐに離縁となってしまいました。というのも、同年に起きた小牧・長久手の戦い時に、一成は秀吉軍と戦っていた家康軍に船を用意し、加担したことがわかります。それに激怒した秀吉は、すぐさま江を呼び戻してしまいます。江にとっては、わずか数カ月の結婚生活でした(なお佐治一成との結婚と離縁については諸説あります)。
天下統一を果たし、関白となった秀吉は、ますます勢いづき、茶々を側室に迎え、初を京極家へと嫁がせます。さらに、離縁し、再び秀吉の元で生活していた江を、岐阜城主となっていた羽柴秀勝(はしばひでかつ)へと嫁がせます。この時、江は20歳になっていましたが、最高権力者の秀吉の命令には、従うしかなかったのです。しかし、この結婚も、翌年の文禄2(1592)年に、秀勝が朝鮮出兵に出陣し、病死したことで、終わりを迎えます。父の顔を知らずに生まれた江は、10代で母と継父を亡くし、さらに夫となる人も、と自分の人生を恨めしく思ったのではないでしょうか。そして、三姉妹を駒のように扱う秀吉を憎悪していたのでは、と思わずにはいられません。しかし、この苦難の人生が、後に江を将軍の正室となる器へと育てたともいえます。
3度目の政略結婚は徳川家康の三男、秀忠
戦国時代の荒波を一身に受け、辛い人生を送ってきた江の人生に、好転の兆しが訪れるのは、3度目の政略結婚でした。秀吉は、茶々との間に生まれた鶴松が3歳で病死すると、自身の衰えを感じたのか、天正19(1591)年に、関白の座を甥の豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に譲ります。しかし、文禄2(1593)年に茶々が再び、男児を出産。秀頼が誕生すると、秀吉は世継ぎが出来たことに歓喜し、再び、暴走を始めます。秀次に謀反の疑いをかけ、高野山で自害させてしまうのです。さらに秀吉は、秀頼を守るためか、徳川家との関係を強化しようと、次なる政略結婚を画策します。それが茶々の妹、江と家康の三男、秀忠との婚姻でした。文禄4(1595)年、23歳となった江と、17歳の秀忠は、伏見城下で暮らし始めます。年上で、2度の結婚歴のある江は、秀忠にとって頼れる存在だったのではと思います。
青天の霹靂、運命はある日突然、動き出した
秀吉の死後、慶長5(1600)年、最大の実力者である家康を主将とした東軍と、豊臣政権の維持を図る石田三成(いしだみつなり)を中心とした西軍による関ヶ原の戦いが起こります。これに勝利した徳川家康は、朝廷より征夷大将軍として任命され、慶長8(1603)年、江戸幕府を開きます。関ヶ原の戦いに遅刻し、参戦できなかった秀忠でしたが、お咎めを受けることなく、慶長10(1605)年、将軍職を譲り受けます。家康64歳、大坂城にいる秀頼が成人する前に、徳川中心の体制を万全に整えようとしたのでしょう。この時、すでに徳川家による長期政権を想定していたのかもしれません。これにより、江は、征夷大将軍の正室として、江戸城内の女性の地位の頂点へと昇りつめることになりました。そして、これを境に茶々と江の立場は大きく逆転していきます。
大坂夏の陣で、姉、茶々は悲しい最期を遂げる
慶長19(1614)年、大坂冬の陣が勃発。一時的に徳川家と講和した豊臣家でしたが、再開された慶長20(1615)年の夏の陣で、茶々と秀頼は自害に追い込まれました。栄枯盛衰は世の常とわかっていた江も血を分けた姉の死は、辛いものだったことでしょう。秀頼の正室となっていた娘、千姫はなんとか救出され、江戸城へと戻りますが、その後の千姫の人生もまた、母、江と同様、波乱に満ちたものとなっていきました。大坂冬の陣で講和交渉がなされた時、大坂城には常高院となった、江の姉、初の姿がありました。茶々への説得もしていたそうです。戦乱の世を生き延びた三姉妹がこういった形で関わっているのも数奇な運命としかいいようがありません。しかしその努力もむなしく、茶々は悲しい最期を迎えたのでした。
子宝に恵まれた江は、将軍の母となる
江にとって江戸城での暮らしは、夫、秀忠との関係も良好で、子宝にも恵まれた幸せなものでした。慶長2(1957)年、長女の千姫を出産。その後、次々と女の子を授かり、慶長8(1603)年、四女となる初姫が誕生します。彼女は、姉の初、京極高次家の養女となりました。
秀忠は、世継ぎとなる男児が生まれないことにやきもきしていたようですが、慶長9(1604)年、遂に男児を出産。竹千代と命名された後の家光です。その2年後、弟の国松(忠長)が誕生し、江は2男、5女の計7人の子宝に恵まれました。お世継ぎ問題で、家光の乳母である春日局と、二男を溺愛した江との対立がありましたが、結果、嫡男の家光が三代将軍となります。5女の和子は、家康の意向もあり、慶長16(1611)年に即位した後水尾天皇(ごみずのおてんのう)に入内します。これにより、徳川家は家康が望んでいた天皇家の外戚となりました。
波乱に満ちた戦国時代を生き抜いてきた江でしたが、晩年は子どもたちも立派に成長し、安泰の人生を歩みました。そして、末永く続く泰平の世を願いながら、寛永3(1626)年に、江戸城西の丸にて、その壮絶な54年の人生の幕を閉じたのでした。
アイキャッチ:メトロポリタン美術館より
参考文献:『お江 戦国の姫から徳川の妻へ』 小和田哲夫著 角川学芸出版
『戦国政略結婚史 : 浅井三姉妹が生きた時代』 高野澄著 洋泉社
『大奥を作った女たち』 福田千鶴著 吉川弘文館