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2024.07.12

道長のせいで娘が不幸に。悪霊になった大臣、藤原顕光の哀しき運命

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藤原顕光(ふじわらのあきみつ)は、平安時代に摂関政治で栄華を築いた藤原道長(みちなが)の従兄(いとこ)。道長を恨んで死後、悪霊になった大臣として有名です。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では、ちょっととぼけたところのある大臣を宮川一朗太さんが演じています。

関白の長男だったが、パッとせず?

藤原顕光は天慶7(944)年生まれ。康保3(966)年生まれの道長よりも20歳以上年長です。顕光は円融天皇の御代に関白をつとめた藤原兼通(かねみち)の長男でしたが、朝廷の高官である公卿(くぎょう)になったのは32歳のときで、7歳下の弟・藤原朝光(あさみつ)よりも遅く、その後も弟を追いかける形で出世をしています。どちらかというとのんびりとした性格で、才覚にはあまり恵まれていなかったのかもしれません。

父・兼通が貞観2(977)年に亡くなると、関白の座は藤原頼忠(よりただ)を経て、兼通とは仲が悪かった叔父の藤原兼家(かねいえ)のもとに渡りました。

兼家は、寛和2(986)年に7歳で即位した一条天皇の外祖父として摂政・関白になると、息子の道隆(みちたか)、道兼(みちかね)、道長らをどんどん出世させていきます。年下の従弟たちに官位を追い抜かれ、顕光が出世する道は途絶えたかに見えました。

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長徳元(995)年の大逆転

ところが兼家が病で亡くなり、道隆が関白を継いだあとの正暦4(993)年頃から、都で疫病(天然痘)が流行しはじめます。長徳元(995)年には弟の朝光をはじめ、公卿の約半数が疫病で亡くなる事態となりました。この年には、一条天皇が寵愛する中宮(ちゅうぐう、后のこと)・定子(ていし、さだこ)の父でもある関白・道隆が、糖尿病で亡くなっています。兄の後を継いで関白になった道兼も、就任後、数日で疫病に倒れて亡くなりました。

摂関家の後継者候補にあがったのは、一条天皇の母である東三条院・詮子(せんし、あきこ)と親しい弟の道長と、道隆の長男で定子の兄の藤原伊周(これちか)です。
そして、詮子の働きかけもあり、道長が摂政・関白に準じる地位である内覧(ないらん)に就任しました。その後、伊周は先の帝である花山院に不敬を働いた罪と、詮子を呪詛したという疑惑により大宰府に左遷となっています(長徳の変)。

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公卿の顔ぶれが大きく入れ替わった長徳2(996)年、31歳の道長が一の上(かみ、筆頭公卿)の左大臣になったときに、次席の右大臣になったのが、53歳の顕光です。
顕光はその後、78歳で亡くなるまで20年以上も右大臣をつとめ、道長が孫の後一条天皇の摂政になったのちには、左大臣にのぼりました。

「愚かすぎる」と評価はさんざん

大臣になってからも、顕光は決して仕事のできる人物ではなかったようです。同時代の公卿である藤原実資(さねすけ)の日記『小右記(しょうゆうき)』によると、儀式の手順を間違えるなどの失敗のエピソードが数え切れぬほどあり、貴族たちから嘲笑されることもしばしばだったとか。

古来の先例にのっとって儀式作法を受け継ぐ有職故実(ゆうそくこじつ)の流派が、実資は小野宮流、顕光は九条流と異なることから、顕光が必ずしも手順を間違えていたとは言えないとする見方もあります。
とはいえ『小右記』には、同じ九条流の道長が「至愚(しぐ)のまた至愚なり」と顕光を厳しく罵ったことも残されています。

長女・元子の妊娠騒動

宮中では仕事ができるかどうかよりも、家柄や血筋こそが重視されたのでしょう。顕光は右大臣となってまもなく、娘の元子(げんし、もとこ)を一条天皇の女御(にょうご)にするという、大きなチャンスをつかみました。

元子は一条天皇の寵愛を受け、やがて妊娠。

一条天皇の中宮・定子が父や兄の後ろ盾を失い、道長の娘はまだ幼くて入内(じゅだい、女御として内裏に入ること)させることができなかったこの時期に、顕光は未来の天皇の外祖父に最も近い公卿だったと言えるかもしれません。

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ところが、出産のために実家に帰っていた元子は、予定日を過ぎてもなかなか産気づきませんでした。祈祷を重ねてやっとお産がはじまりましたが、大きく膨らんだお腹から出てくるのは、水ばかりです。

元子の妊娠は、今で言うところの想像妊娠だったのでしょうか。「水を生むとは奇怪なできごとだ」と世間を騒がせたようです。内裏で、大きなお腹を得意気に他の女御に見せつけていた元子は、「恥ずかしくて再び内裏にのぼることなどできない」と嘆きました。

次女・延子の婿を奪われる

長保元(999)年には、出家していた定子が宮中に呼び戻されて、第一皇子となる敦康(あつやす)親王を出産。道長の娘・彰子(しょうし、あきこ)が12歳で入内しました。
時は流れ寛弘8(1011)年、一条天皇が三条天皇に譲位したときに東宮(皇太子)に立ったのは、彰子が生んだ敦成(あつひら)親王(のちの後一条天皇)です。

この頃の顕光は元子ではなく、三条天皇の第一皇子・敦明(あつあきら)親王と結婚した次女の延子(えんし、のぶこ)に望みを託していました。
長和6(1016)年に、病と闘っていた三条天皇が9歳の後一条天皇に譲位すると、ついに娘婿の敦明親王が東宮に立ちます。

しかし、翌年に三条天皇が崩御すると、敦明親王は東宮の座を降りてしまいました。小一条院となって上皇に準ずる立場を得ると、道長の娘・寛子(かんし、ひろこ)を新しい妻として、道長と良好な関係を築こうとしたのです。

夫を奪われた延子の悲しみは深く、水も飲めないほどに衰弱し、その姿を見た顕光の髪は一晩で白髪になったとも伝えられています。
延子は寛仁3(1019)年に35歳前後で、顕光は治安元(1021)年に78歳で、道長を恨みながら亡くなりました。

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『月百姿 源氏夕顔巻 (つきの百姿)』より一部をトリミング 著者:芳年 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

道長の娘を呪い殺した悪霊左府

小一条院と結婚した寛子は、夫と仲睦まじく幸せな日々を送っていましたが、万寿2(1025)年7月に、20代の若さで病のため亡くなりました。死の直前には延子と顕光の霊があらわれて、「やった、やった」と喜んだそうです。

延子と顕光の怨霊は同年8月、寛子の異母妹の嬉子(きし、よしこ)が出産する際にもあらわれ、まだ19歳だった嬉子は難産に苦しみ、産後まもなく命を落としました。
また、この2年後に亡くなった三条天皇皇后の妍子(けんし、きよこ)の命を奪ったのも、怨霊のしわざだと言われています。

人々は道長の娘たちを次々と呪い殺した顕光のことを、悪霊左府(左大臣)と呼んで恐れました。
道長がきらびやかな栄華を築いた影で、悪霊になってしまった哀れな大臣とその娘たちの話は、歴史物語の『栄華物語』、『大鏡』などに記されています。

*女性の名前の訓読みは一説です。平安時代の人物の読み仮名は正確には伝わっていないことが多く、音読みにする習慣もあります。

アイキャッチ:『和漢百物語 貞信公』より一部をトリミング 著者:一魁斎芳年 出典:出典:国立国会図書館デジタルコレクション

参考書籍:
『新編 日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『新編 日本古典文学全集 大鏡』(小学館)
『小右記7』編:倉本一宏(吉川弘文館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。