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2024.08.31

敦康親王と彰子は『源氏物語』展開になる? 実際の関係を探ってみた

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敦康親王(あつやすしんのう)は一条天皇の第1皇子。
2024年の大河ドラマ『光る君へ』では母の定子(ていし/さだこ)亡き後、藤原道長の娘の彰子(しょうし/あきこ)に養育される子ども時代を池田旭陽(いけだあさひ)さんが、成長してからを片岡千之助(かたおかせんのすけ)さんが演じています。

彰子が内裏北側の後宮(こうきゅう)にある飛香舎(ひぎょうしゃ)、別名・藤壺で暮らしていたことから、敦康親王を『源氏物語』の主人公・光源氏になぞらえて、ふたりが禁断の愛に落ちると予想している『光る君へ』ファンもいるようです。実際の関係はどうだったのでしょうか。

不運な星のもとに生まれた、一条天皇の秘蔵っ子

平安時代に清少納言が『枕草子』を、紫式部が『源氏物語』を執筆したのは、敦康親王の父・一条天皇の御代(みよ)のことです。清少納言が仕えた定子、紫式部が仕えた彰子ら后たちが後宮に教養のある女房を集めて、和歌や仮名文字の文学、管弦楽などを楽しむ社交的なサロンを開き、日本独自の国風文化が一気に隆盛を迎えました。

敦康親王は、一条天皇が長く連れ添った后の定子が長保元(999)年に生んだ皇子です。本来であれば天皇の第1皇子は、周囲から待ち望まれる存在。しかし、長徳2(996)年に定子の兄の藤原伊周(これちか)が先の天皇である花山院に不敬をはたらいて失脚する事件(長徳の変)が起こり、定子は発作的に髪を短く切って出家をしていました。にもかかわらず一条天皇が寵愛を続けての妊娠だったために、貴族たちのなかには眉をひそめる者もいたといいます。

母を亡くし、道長の娘・彰子に養育される

定子は翌長保2(1000)年、敦康親王の妹を出産した際にお産のトラブルで亡くなりました。
母を亡くした敦康親王の養母になったのは、一条天皇のもうひとりの后だった彰子です。養母といっても定子が亡くなったときの彰子は、まだ13歳の少女でした。

この頃、実際に敦康親王の母代わりとなってお世話をしていたのは、定子の妹の御匣殿(みくしげどの)という女性です。一条天皇は敦康親王に会いに行くうちに、御匣殿を寵愛するようになりました。やがて御匣殿は一条天皇の子どもを授かりますが、妊娠中の経過がすぐれなかったのか、母子ともに命を落とします。

敦康親王が2人目の母というべき御匣殿とも死別して、彰子の暮らす藤壺に身を寄せたのは寛弘元(1004)年、6歳のとき。17歳に成長した彰子は幼い敦康親王を思いやりながら、仲良く暮らしはじめたようです。敦康親王の成長を節目ごとに祝い、また亡くなった定子方の親族とも交流を持ち、なにかと心配りをしています。

彰子の生んだ子どもに立場を脅かされる

ところが、彰子が寛弘5(1008)年に敦成(あつひら)親王を出産すると、敦康親王の伯父・伊周の親族らが彰子と敦成親王、道長を呪詛する事件が起こりました。

道長と伊周との間には、過去に摂関家の後継者を争って以来の確執があります。敦康親王が天皇になれば、再び外戚(母方の親族)として権力を握るチャンスが巡ってくると考えていた伊周にとって、彰子が生んだ皇子は邪魔な存在だったのです。
事件が発覚して再び窮地に立った伊周は、内裏に居場所を失い、寛弘7(1010)年に亡くなりました。敦康親王は後見者を失います。

寛弘8(1011)年、一条天皇は病に倒れて三条天皇(花山天皇の異母弟)に譲位します。退位する間際まで「後ろ盾(重臣の外戚)のない皇子だが、なんとか次の東宮(皇太子)にしてやりたい」と敦康親王の行く末を気にかけていました。彰子も一条天皇の考えに賛同し、第1皇子の敦康親王が次の東宮になるのが当然と考えていたようです。

しかし公卿たちからは「後ろ盾のある皇子が天皇になったほうが、世の中が乱れないのではないか」という声が上がり、新しい東宮は13歳の敦康親王を飛び越して、彰子が生んだ4歳の第2皇子・敦成親王に決まりました。

敦康親王は、后の第1皇子なのに東宮になれない自身の身の上を嘆き、彰子は怒って、公卿のトップをつとめていた父の道長を怨んだと伝えられています。

『紫式部日記』には彰子の出産が記録されています。母代わりだった彰子の生んだ皇子は、敦康親王の立場を危ういものにしていきました。
『紫式部日記絵巻(模本)』 出典:ColBase

東宮になれず、20歳で世を去る

敦康親王の目の前で、東宮はその後も2度入れ替わりました。
長和5(1016)年には三条天皇が退位して、9歳の後一条天皇(敦成親王)が即位しますが、このときには三条天皇が自らの第1皇子・敦明(あつあきら)親王を東宮にすることを強く望み、18歳の敦康親王が東宮になるチャンスはなかったようです。

ところが翌年、24歳の敦明親王は「天皇になるのは荷が重い」と東宮を辞退します。彰子は「今度こそ敦康親王が東宮になるべき」と父・道長に訴えました。しかし、新しい東宮に選ばれたのは道長の孫で、彰子が寛弘6(1009)年に生んだ一条天皇の3番目の皇子、敦良(あつなが)親王だったのです。

「自分が東宮に選ばれることは、もはやない」と将来を悲観したのでしょうか。敦康親王は寛仁2(1018)年、急な病のため20歳で世を去りました。
彰子は「一条天皇が特別にかわいがっていた皇子でいらっしゃったのに」と悲しみ、「小一条院(敦明親王)が東宮を退いたときに、敦康親王が次の東宮に選ばれていたら、たとえ早世なさったとしても本望でいらっしゃっただろう」と心を痛めています。

敦康親王の家系図(略図)。この時期には、冷泉天皇系と円融天皇系から交互に天皇が即位しています。

敦康親王と彰子は、光源氏と藤壺の女御のような関係だった?

『源氏物語』の主人公・光源氏は幼くして母を亡くし、藤壺の女御を母代わりと慕って育ちます。光源氏は帝の子でありながら母親の身分が低く、後ろ盾がなかったために、成長すると源氏姓を賜り臣籍に下りました。
藤壺の女御を慕う気持ちはいつしか男女の愛に変わり、あるとき二人は禁断の一夜を過ごします。藤壺の女御は妊娠し、光源氏の子どもを出産。子どもは帝の皇子として養育され、やがて次の天皇になります。

確かに光源氏と藤壺の女御の関係は、敦康親王と彰子の関係に似ているところが多々あります。
しかし、彰子が出産したのは寛弘5(1008)年と寛弘6(1009)年。その頃、敦康親王はまだ10~11歳です。しかも生まれた年を1歳として、正月に1つ年をとる数え年ですから、今ならさらに1~2歳幼かったことになります。
敦康親王が20歳で亡くなったことを考えても、彰子との禁断愛は現実的ではなさそう。
彰子にとって敦康親王はあくまでも「かわいそうで放っておけない、愛する一条天皇の大切な皇子」だったのではないでしょうか。

平安時代の歴史物語『栄花物語』には、そんな敦康親王が死後、幽霊となって彰子のもとに現れたという話があります。

死後、物の怪になって現れた敦康親王の心とは

万寿3(1026)年、後一条天皇が熱病にかかり生死の境をさまよったときのことです。つぎつぎと物の怪(もののけ、人を怨んで病や死をもたらすといわれた死霊や生霊、妖怪などのこと)が現れて、その中には先の関白の道隆(定子と伊周の父)や、敦康親王の姿もありました。

敦康親王は物の怪になって祟るほど、この世に怨みを残していたのでしょうか。

内の御悩のことありて、いと世の中もの騒がし。さまざまの御物の怪どもいみじうこはし。関白殿わたり、式部卿宮(しきぶきょうのみや、敦康親王)さへ出で給ひて、いと恐ろしきこと多かるなかに、東宮の御乳母(めのと)などの、貴船に祈り申したるなどいふことさへ御物の怪申すを大宮(おおみや、彰子)いと聞きにくく、かたはらいたく思さるべし。
『栄花物語』 巻第27 ころものたま より

恐ろし気に見えた物の怪は彰子に、「後一条天皇の病は、東宮(敦良親王)の乳母が貴船神社に呪詛しているからだ」と教えます。

後一条天皇と敦良親王は1歳違いの兄弟ですから、敦良親王の乳母は後一条天皇が元気でいる限り、自分が仕える親王は天皇になれないと思いつめたのかもしれません。
彰子はわが子である兄弟のいさかいを耐えがたい思いで聞きますが、呪いを遠ざけるためにしっかりと心身を清めたことにより、後一条天皇の病気は快方へと向かいました。

「怨もうとしても、怨めない」
敦康親王の彰子への、複雑な胸の内が聞こえてくるかのようなエピソードです。

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*女性の名前の訓読みは一説です。平安時代の人物の読み仮名は正確には伝わっていないことが多く、音読みにする習慣もあります。

アイキャッチ:『源氏五十四帖 二 箒木』より一部をトリミング 出典:国立国会図書館デジタルコレクション

参考書籍:
『日本古典文学全集 栄花物語』(小学館)
『日本古典文学全集 大鏡』(小学館)
『藤原彰子』著:服部早苗(吉川弘文館)
『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)

書いた人

岩手生まれ、埼玉在住。書店アルバイト、足袋靴下メーカー営業事務、小学校の通知表ソフトのユーザー対応などを経て、Web編集&ライター業へ。趣味は茶の湯と少女マンガ、好きな言葉は「くう ねる あそぶ」。30代は子育てに身も心も捧げたが、40代はもう捧げきれないと自分自身へIターンを計画中。