これまで「節約」についての記事を幾つか手掛けてきた。
戦国武将の知恵を借りるという企画である。
ただ、あの時は……。
こうも必要に迫られていなかった。
昔の人って、大変だよねえ。
へえ、こんなことまでしてるんだ。
ちょっと興味本位で「節約術」でも書こうかしらと。
今となっては、生ぬるい気持ちだったと反省しきりである。
だが、今は違う。
何度、スーパーで値札を二度見、三度見し、絶句したことか。
何度、ガソリンスタンドで遠い目をしたことか。
その遠い目から、何度、ちょびっとだけ、水滴が落ちたことか。
これほどまでに、日々、物価高を痛感したことはない。
嗜好品は仕方ないと諦めもつくが。
日用品にまでその波が押し寄せると、どうにもできないのである。
そこで、ふと、思い出した。
やはり、ここは、再度、彼らの力を借りるべきではないかと。
物価高の世。
そんな時代に必要なのは古今東西、驚きの節約術である。
ということで、今回も戦国武将の節約術にまつわるエピソードを集めてみた。
さてさて。
どのような方がご登場されるのか。
是非とも、驚きの節約術をご参考にしていただきたい。
※本記事は「徳川家康」「島津義久」「豊臣秀吉」の表記で統一しています
やっぱり節約といえば…神君?
まずはお1人目。
「節約」といえば、やはりこの人。
さすがに、彼を抜きにして語ることはできないだろう。
じつに徳川一強時代が250年以上続いたのも、初代がその礎を盤石に築いたからである。
初代、つまり、周囲から「神君」と呼ばれ、崇められた男。
そう、徳川家康である。
それにしても、家康には様々な「連想ワード」がある。
その中でも彼の修飾語としてはダントツ、誰もが「家康」を指し示す言葉として一致するのが「節約」である。
まあ、悪く言えば「ドケチ」ともいうのだが。それほどまでに、彼の「節約」に関するエピソードは非常に多い。
いつもなら、ここで彼のお約束のエピソードを、たっぷりとご紹介するのだが。
さすがに、それでは。
相も変わらず……芸がない。
そこで、少しばかり立ち止まって考えてみることに。
そもそも組織のトップが「節約」という指標を掲げ、常日頃より率先垂範しているならば、である。属する人間も、自ずと同じ思考に染まるであろう。つまり、その度合いに個人差はあるものの、配下の者たちが同じ「節約」体質へと進化している可能性が高い。なんなら、忠誠心が強い者ほど、その傾向は顕著となるはずだ。
ということで、今回は趣向を変えて。
節約キングたる「家康」に忠実な「配下の者たち」のエピソードをご紹介しよう。
まずは、駿府城(すんぷじょう、静岡県)で台所奉行として財政や台所などを取り仕切っていたとされる「松下常慶(浄慶、まつしたじょうけい)」の逸話から。
そもそも、松下常慶とは何者か。
駿府城公園の公式サイトには、以下のように記されている。
東御門は、駿府城二ノ丸の東に位置する主要な出入口でした。…(中略)…台所奉行であった松下浄慶(まつしたじょうけい)にちなんで「浄慶御門」とも呼ばれ、主に重臣たちの出入口として利用されました。
(駿府城公園公式HPサイト「東御門・巽櫓について」より一部抜粋)
なお、『徳川実紀』によると、松下常慶は「松下安綱(やすつな)」という名であり、元々、浜松の「二諦坊(にたいぼう)」の住職であったと記されている。二諦坊とは、浜松にある鴨江寺の鎮守、白山宮の別当寺を指す。その住職であった常慶には生まれついての才能があり、租税などに精通していたとか。そのため、駿府城の台所などを取り仕切ることを任され、彼の名は駿府城の城門につけられるまでに至った……。
ふむ。
だが、もう少しだけ突っ込んで様々な資料を調べると。
どうやら、松下常慶は意外にも家康の近くで活躍していたようだ。活躍というよりは、「暗躍」といった方がいいかもしれない。それに彼の立ち位置も複雑だ。
富永公文著『遠州松下加兵衛之綱とその一族』によると、松下常慶の兄は松下清景(きよかげ)。この清景は、徳川四天王の1人である「井伊直政」の母親と再婚した人物である。つまり、松下常慶は井伊直政の継父の弟という間柄。なんなら直政と家康を引き合わせるためのお膳立てをしたっていう話もある。あっという間にややこしい感じになってきたが。ここはサラッと軽く触れる程度で止めておこう。
先ほどの書籍によれば。
松下常慶は、秋葉神社の神札を配り歩き、各地を巡歴。『井伊家伝記』の中では「山伏の様に」と表現されていることから、怪しまれぬよう修験僧のような恰好で、様々な情報を各地で収集していたようだ。
当時、家康は「引間城(ひくまじょう)」の奪取を目論んでいた。
三河(愛知県)から遠江(静岡県)進出のためにどうしても必要だったのである。そんな折、松下常慶の存在が耳に入った家康は、引間城の懐柔工作の密使として彼を送り込み大成功。
なお、家康が手に入れた引間城は、のちに「浜松城」と改名され、その一部に取り込まれることとなる。以降、松下常慶は諜報要員として暗躍し、家康のそばで付き従っていたようだ(諸説あり)。
さて、そんな常慶に話を戻そう。
『徳川実紀』に記されている彼の逸話は、とんでもない。
なぜか女房たちから罵詈雑言の嵐。
理不尽な口撃から始まるその様子を、一部抜粋しよう。
駿府にて、若き女房たちがこぞって、「あの常慶坊ほど情けなく憎い者はいない」と口々にけなしていたのを、(家康は)じっと覗いておられた。
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝5』より一部抜粋)
家政婦は見た?
いや、今はミタゾノか……などと、つい、家康の怪しい動きに注意が削がれるが。注目すべきはそこではない。若い女房らが、松下常慶の悪口を言いたい放題という状況がポイントだ。
それにしても、不思議である。
常慶は、なぜそこまで非難されるのか。
じつは、女房らのところへと毎日、朝夕に、台所から「漬け物」が送られるのだが。これがあまりにも塩辛くて食べられないというのである。当時、台所を取り仕切っていたのは松下常慶。つまり、責任者を陰で吊るし上げし、漬け物への不満をあれやこれやとぶつけていたのだ。
えっ?
漬け物の味付けだけで? ここまで言われるの?
まあ、食べ物の恨みはなんとやら……というではないか。女房たちの恨みつらみは、なんとも恐ろしい。家康もそう考えたのか、早速、常慶に女房たちの苦情を伝え、今後は味噌や漬け物の塩を軽くせよと命じたという。
これに対して、松下常慶は予想外の行動に出る。
常慶はつつしんでこのことを承り、そのまま(家康の)御側に進みより、何かひそかに囁いたところ、(家康は)御笑いになられた。(家康より)何の仰せもなく、常慶はその場を退いた。
(同上より一部抜粋)
そのまま家康の命令を恭しく承るワケではなく。
なんと、そばに近付いて。
何やら囁いたというではないか。
正直、そんな恐れ多いコトをしていいのかと、書いている私も戸惑ったが。松下常慶のひそひそ話に、まさかの家康は爆笑。「わかったわかった」という様子がありありと目に浮かぶ。
そして、家康からの追加の命令もなく、そのまま常慶は下がったという。
それを見ていた近くの者たちは……ざわざわ。
そりゃ、ざわつくわな。
好奇心が止められず、とうとう、松下常慶に何を言ったのかと聞いたという。
常慶の答えは……。
「さればそのことでございますが、各々方もお聞きになられたように、浅漬け大根の塩を軽くせよとの仰せでございました。今のように塩辛く漬けているときでさえ、朝夕の食べる量は非常に多いのに、女房たちの好みに合わせて塩加減を減らしてしまえば、(さらにたくさん食べ、)どれほど費用がかかるか想像もできません。女房たちの申していることなどお聞き入れにならぬようになさるのが適切ですと申し上げました」
(同上より一部抜粋)
なるほど。
そういう手があったかと、つい、膝を打った。
わざとマズくして、食欲を削ぐ。
それにしても、スゲーな。この松下常慶って人は。
ふむ。
いや、そうではないか。
スゲーのは、松下常慶に塩辛い味付けを断行させた女房たちの食欲か。
どちらにしろ。
倹約家で有名な家康が爆笑するくらいなのだ。
主君の節約、倹約の精神を、骨の髄まで染み込ませていた松下常慶であった。
蝋燭1つ……で叱られ損の坊主
次にご紹介するのが、家康の忠実な家臣である「成瀬正成(なるせまさなり)」。
以前の記事でも一度取り上げたことのある男だ。未だ家康が天下人となる前、頂点にはあの豊臣秀吉が君臨していた時代のこと。秀吉からの転職のオファーをきっぱりと断り、我が主君は家康公のみという、家康一筋を貫いた家臣である。
そんな彼が関わるエピソードがある。
ある日の夜、急な用事で成瀬正成は連署状を書く必要があったとか。そこで、松平正綱(まつだいらまさつな)と共に、近くにいた坊主に頼んで2、3寸(6~9㎝ほど)しか残っていない蝋燭(ろうそく)をもらい、この光を頼りに文書を作成したという。
ちなみにここで登場する松平正綱だが、こちらも家康の側近で、江戸幕府初期の勘定頭(勘定奉行)を務めた男である。彼ら2人は僅かな光で、ようやく無事に書状を完成させた。そうして、ホッと息をついたのか。あろうことか、蝋燭の火を消さずにそのまま席を離れてしまったのである。
その後、コチラの場所を見回っていた目付役が蝋燭を発見。
すぐさま、坊主を呼び出してきつく叱ったという。
「上様(家康)が御覧になったら御咎めがあるだろう。何故(蝋燭を)消さないのだ」と大げさに罵ると、坊主は「これは隼人殿(成瀬正成)、右衛門殿(松平正綱)が、これこれなさったのです」と申し立てた。
(大石学ら編『現代語訳徳川実紀 家康公伝5』より一部抜粋)
そもそも、鷹狩りで使うこの屋敷には家康の決めたルールがあった。
それは、蝋燭を使う場所は2箇所のみ。御座所(貴人の居所)に蝋燭を1台、鷹を夜据え(夜の間に鷹を手にとめ外を歩き回る訓練)するのに蝋燭を1台、それ以外は油火のみを使用することになっていたという。
つまり、蝋燭の使用時点でアウト?
たとえそれが使用済みであっても、軽く注意が入りそうなものというコトになる。それなのに、恐れ多くもそのまま火を消さずにいたとなれば。これはさすがに、御咎め案件となる可能性が高そうだ。
さすがに忠実な家臣であっても、このままでは終われない……のか?
そんな目付役と坊主のやり取りのさなか。
状況が一変する。
というのも、先ほど書状を書き終えた2人が、なんと、消し忘れに気付き戻ってきたのである。
そして、彼らが発した言葉とは……。
そのうちに両人が気付いて戻ってきて、「(蝋燭は)我らが忘れたのである。(だが、)そなたがそのままにして消さないでおいたのだ」と、またまた坊主を叱ったという。
(同上より一部抜粋)
えっ?
ええっ?
うん。
確かに、蝋燭は消し忘れたよね。あんたたち。
うん。
確かに、自分から申告したのはいいことだよ。
うん?
だからって、なぜ、坊主を叱るのだ?
なんだかなあ。
踏んだり蹴ったりとは、まさしくこのような状況をいうのだろう。
ホントに可哀そうなほど「叱られ損」の坊主である。
2人に頼まれて蝋燭を渡し、呼び出されていきなり目付役に罵られ、揚げ句の果てには、消し忘れた張本人たちに責められるって、どーなんだ。
こういう末端の人々に、いつもシワ寄せが来るんだよなあと、つい、遠い目をしてしまった。
まあ、あえてまとめるなら……。
罪のなすり合い? が起こるほど、徳川家中での倹約ムードは高まっていたというコトだ。
ちょっと、雑なまとめ方になってしまったのは、申し訳ない。
これでは、記事が締まらないので、次にいくとしよう。
清貧のイメージが強い?島津家
やはり、最後は、コチラの方にご登場いただこう。
家紋の「丸の十字(丸十紋)」が眩しい、九州の名門、島津家である。
九州南部より破竹の勢いで北上し、九州全土を統一する目前、あえなく豊臣秀吉に降伏。秀吉はそのまま天下人の道を突き進み、反面、島津家は苦汁をなめる結果となる。
その当時の島津家16代当主が、島津家四兄弟の長男である「島津義久(よしひさ)」だ。
そんな彼の逸話をご紹介しよう。
薩摩の国分(鹿児島県霧島市国分)の城門についての話である。
時期は明言されていない。
当時は茅葺き(かやぶき)の城門であったとか。その外観が勢力拡大中の島津家にそぐわず、あまりにも粗末なものであったため、城門が破損したタイミングで、家臣は1つの提案をする。
ご城門が破損いたしましたので、この際、ご修理のついでに小板葺きいたしてはいかがでしょうか。三ヵ国の太守がいらっしゃるご城門が茅葺きでは、あまりに粗末のように存じます。
(岡谷繁実著『名将言行録』より一部抜粋)
ここで「三ヵ国の太守」と呼ばれている義久。
三ヵ国とは、薩摩(さつま、鹿児島県西部)、大隅(おおすみ、鹿児島県東部)、日向(ひゅうが、宮崎県と鹿児島県北東部)のこと。恐らく、未だ豊臣秀吉が九州討伐へと動く前、島津義久率いる島津軍団が意気揚々と九州北部に向かって領地を拡大している時期のことだろう。
それにしても、である。
まあ、確かにねえ。
城門って、入口にあたるし。立派とまではいかなくても、せめて「茅(かや)」ではなく「小板」にしたい。常日頃からそんな思いを持っていた家臣が、つい、口にしたのだろう。
この提案に対して、義久はというと。
他国から使者としてよこされるほどの者は、きっと心ある者である。使者としてくるからには、当国の地を数里も通ってくるわけだから、それならば三ヵ国の太守の城門が茅葺きで粗末であっても、途中で目に入る国民の風俗をみれば、富み栄え、仁政がさだめし厚く行われているという大事なところにこそ気付くであろう。小板葺きにして立派になっても、百姓どもが疲れ切っているようでは、国主のやり方がよくないことを見抜くであろう。
(同上より一部抜粋)
いや、ホント。正論で。
見事なほど、正論で。
なんだか、先ほどの徳川家の節約術を真面目に(ホントか?)解説しているのが、ちょっとアホらしく思えてきたほど、ド直球の正論だ。
これは、なんだろな。
個人的には、各家庭で実践というよりは、是非とも政治家の方々に心に刻んでいただきたい内容である。
まさに、国を治めるとはこういう志が必要なのだと。
大いに痛感した島津義久の言葉であった。
最後に。
このまま真面目なテイストで。
この記事を、さらなる「島津義久」の名言で締めることにしよう。
茅葺きの城門でも構わぬと、断言した義久。
じつは、このあとに続く言葉がある。
恐らく、現在、物価高に苦しむ私たちにとって、必要な言葉となるはずだ。
その言葉とは。
肝要のところに気を配り、どうでもよいところに気をつけるものではない。
(同上より一部抜粋)
確かに、おっしゃる通り。
これで、膨らんだ家計も見直すことができそうだ。
……。
……ふむ。
ただ、すべては、共に暮らす人たちの総意があってこそ。
1つの出費が「肝要」な部分に関してか「そうでない」かは、人によって異なるだろう。
各々の価値基準のズレを照らし合わせねばなるまい。
結果的に。
全員が「肝要」と感じる項目は、少なくなり……。
やがて、必要最低限のモノで暮らすライフスタイルへと移行。
なるほど。
こうして、人は「ミニマリスト」になるのかもしれない。
参考文献
成瀬美雄 編 『成瀬正成公伝』 松沢鎮 1928年
富永公文 著 『遠州松下加兵衛之綱とその一族』 樹海社 1984年9月
大石学ら編 『現代語訳徳川実紀 家康公伝4』 株式会社吉川弘文館 2011年10月
大石学ら編 『現代語訳徳川実紀 家康公伝5』 株式会社吉川弘文館 2012年2月
岡谷繁実著 『名将言行録』 講談社 2019年8月
新名一仁編 『現代語訳 上井覚兼日記2』 ムヒカ出版 2021年11月
新名一仁編 『戦国武将列伝11 九州編』 戎光祥出版 2023年7月