戦国時代といえば勇ましい武将の時代、と思われがちですが女性も要所要所で活躍しています。山内一豊の妻・千代のように「内助の功」を発揮する人もいれば、大坂の陣での淀殿のように自ら命令を下す人も。そうしたさまざまな戦国武将の中から、前田利家の娘で豊臣秀吉の養女となり、宇喜多秀家に嫁いだ「豪姫(ごうひめ)」を紹介します。
秀吉にかわいがられた養子・宇喜多秀家と豪姫
まず、豪姫の結婚相手となった宇喜多秀家の、結婚までについて触れておきます。
宇喜多秀家は1572年、備前国岡山城主・宇喜多直家の次男として生を受けました。1581年に父・直家が病死しましたが、翌年当時宇喜多氏が仕えていた織田信長により本領を安堵され、家督を継いだとされます。
父の死後、秀家とその家臣は毛利家攻略のため、水攻めで有名な中国遠征を進めていた羽柴秀吉の備中高松城攻めに協力しました。ただまだ幼少であったことから、父の重臣で「宇喜多三老」と呼ばれた戸川秀安、長船貞親、岡利勝らが補佐を務めました。
1582年に本能寺の変が勃発すると秀吉と毛利輝元は和睦、秀家はこの時の所領安堵によって備中東部から美作・備前を領有する大名になりました。また、毛利家の監視役を務めることとにもなります。この時まだ秀家は11歳でした。その後、秀吉の寵愛を受けた秀家は、秀吉の養子となり、これがその後の出世のきっかけとなります。
秀吉とおね(ねね)の夫妻には子どもがいなかったため、前田利家とまつの四女(第五子)である豪姫を養女として迎えました。豪姫は1574年生まれですので、秀家より8歳ほど年下です。のちに書かれた史料によると、生まれた子どもは男女にかかわらず養子になることが決まっていたといいます。実子がない秀吉夫妻は豪姫をとてもかわいがったとされていますが、豪姫の幼少時の詳しい様子はあまりわかっていません。
秀吉に寵愛されるふたりの養子が結婚した時期についても、実は正確な年代がわかっていませんが、1582年ごろのことと考えられています。備中高松城を攻略したころのことで、秀家は11歳ですから、婚約のみで正式な結婚にはまだ至っていないと思われます。1584年になると秀家が豪姫に小袖を送った記録があるので、この時にはすでに婚約は整っていたようです。
秀吉は豪姫を寵愛しており、おねにあてた手紙で「豪姫が男なら関白に就任させたい」「おねより高い位につけてやりたい」などと書いているので、おそらくはかわいいだけでなく賢い姫だったのでしょう。また、1595年に豪姫が病気になると、神楽を躍らせて平癒を願っています。しかも「狐が憑いたせい」での病と聞かされて、日本中の稲荷台明神に「日本中の狐を狩ってやる」との書状まで送りました。それほどまでにかわいがった養女だったことがうかがえるエピソードです。
宇喜多氏は所領こそ多くありませんが、毛利との防波堤に位置する重要な場所を治めていました。そのため、秀家を婿にするだけではなく、秀家の姉を養女にし、毛利氏を支えていた吉川元春の三男・広家に嫁がせています。
1582年、わずか11歳の秀家は、従五位の下という官位を与えられました。 備前の中小国を治める少年がここまで出世するのは、やはり秀吉の強い寵愛があってのこと。だからこそ秀家の「秀」の字も送られたのです。ここには、秀家への期待とともに、宇喜多家をコントロールしようとした秀吉の思惑があったに違いありません。
関ヶ原の戦いと夫婦の別れ
豪姫は結婚後、「備前御方」、のちに「南御方」と呼ばれました。二人の仲は良く、 秀高・秀継・理松院の二男一女を産みます。ところが、1600年の関ヶ原の戦いで秀家は石田光成率いる西軍方に。ご存じのとおり西軍は敗北し、宇喜多氏は改易されてしまいます。秀家は命からがら逃げ、島津氏にかくまわれて薩摩に潜伏していました。しかし、島津氏が徳川家康に降伏、秀家は助命を条件に引き渡され、息子2人と共に八丈島に流罪とされたのです。1606年のことでした。
豪姫は宇喜多家が没落した後、出家したおね(高台院)のところに身を寄せていましたが、1607年ごろ生家である前田家の金沢に引き取られたようです。その際、化粧料として1,500石を受け、金沢西町に居住したとする記録が残っています。なお、この少し前に豪姫は洗礼を受けてキリシタンとなっていました。
1599年ごろ、宇喜多家の大阪屋敷が占拠された「宇喜多騒動」が起こっています。この原因は、豪姫とともに前田家来て重用された中村次郎兵衛らの専横に対する他の重臣達の不満といった家臣団の政治的内紛に加え、宇喜多家では日蓮宗徒の家臣が多かったのにキリシタンである豪姫のために家臣にもキリシタンになるよう命じたことが理由であるともされています。豪姫を大事にしていた秀家なら考えられる話ですが、残念なことに、詳細はさだかではありません。
はなればなれの夫婦の死 その後も続く仕送り
秀家が八丈島に流されてから30年近くが経過した1634年5月、豪姫は死去しました。墓所は金沢市の野田山墓地にあります。そのころ流罪となった秀家はすでに死去していて……と思われた方も多いでしょう、しかし実は秀家は関ヶ原の合戦を戦った武将としてはいちばん最後まで生き残った人物となったのです。
八丈島の秀家は「浮田久福」となり、豪姫の実家である前田家からの援助を受けて、流人としては厚遇で宴を楽しんだ記録も残っているほどです。八丈島での生活はやはり不自由だったようですが、現地妻を置いた記録はないため、一途に豪姫を思い続けたのではないかと思われます。秀家が亡くなったのは1655年になってからで、当時としては長寿の84歳でした。墓所は東京都八丈町大賀郷の稲場墓地など、何カ所かに置かれています。
「八丈島には食べるものがない」という秀家の窮状を時折耳にしていた豪姫は米などの仕送りを始め、豪姫が亡くなった後も江戸幕府の許可を受けて前田家がその役割を引き継ぎました。しかも、なんと秀家が84歳で没したのちも続いたのです。豪姫が秀家のために始めた仕送りは、秀家の子孫たちに向け、明治維新まで送られ続けたのです。ここにふたりの愛情の深さを感じられるといえるかもしれません。豪姫からの変わらぬ愛と、不自由ながら戦乱や政治と離れた島での暮らしが、秀家に長寿を与えたのでしょうか。
豪姫は前田家で生まれ、豊臣家の養女となり、宇喜多家に嫁いで夫と別れるなど、戦乱の中で翻弄されたように感じられますが、物語などでは、その「豪」という名のとおり勇ましく戦国を生き抜く女性として描かれることの多い人物です。その代表が1992年に公開された映画「豪姫」。まだ10代の宮沢りえさんが馬で駆けるシーンが印象的でした。監督は勅使河原宏さん。共演も仲代達矢さん、三國連太郎さんなど豪華です。豪姫と千利休や古田織部を取り巻く話の展開ですので、宇喜多秀家との夫婦愛はあまり描かれていませんが、豪姫の一面を知るのにおすすめの作品です。
戦国時代にはさまざまな女性たちが活躍し、夫を支え戦乱の世を生き抜いていきました。時代は変われども変わらぬ夫婦の愛情、そしてこの時代ならではの策謀。仕送りのきっかけとなった豪姫の思いやりにも、わたしたちは学ぶことがありそうです。
岡山城天守閣
住所:岡山市北区丸の内2-3-1
アクセス:路面電車…「岡山駅前」から「東山行き」に乗車、「城下」下車、徒歩10分、バス…岡山駅から岡電バス「岡電高屋行き」、両備バス「東山経由西大寺行き」
いずれも「県庁前」で下車、徒歩5分
観覧時間:午前9時~午後5時30分(入館は午後5時まで)
休館日:12月29・30・31日
入場料金:大人 320円 、小中学生 130円
https://okayama-kanko.net/ujo/index.html