「まさか、本能寺で…」
ざわざわざわざわ。しばしの家臣との相談。
「殿!」「殿!」
「もはやこれまでか…切腹いたす」
「殿!」
さて、このやりとり。一見すれば、織田信長の最期と勘違いしそうだが、違う。じつは本能寺の変が起きた天正10(1582)年6月2日の当日の会話である。一体、誰が切腹するとのたまっているのか。
それが、こちらのお方。
徳川家康公である。
えっ?なんで家康?と思われた方。
合ってますよー。そうです、そうなんです。「えっ?何で?」という疑問はことのほか正しい。というのも、本能寺の変=織田信長という図式を日本史の授業では教えられ、それ以外のことは「んなもん、大したことない」扱いとなっているからだ。まさか、その裏で、あの天下を取った徳川家康が死にそうになっていたなんて。誰も知るはずがない。結果的には、家康の人生最大の危機は、歴史の中で埋もれるしかなかったのだ。
そこで、今回はあえて、死にかけているのに何の注目もされなかった徳川家康にズームイン!決死の岡崎城(愛知県)までの道のりをレポートしよう。題して「あなたの知らない神君伊賀越え」。
信長の接待を受けていた家康
色々疑問があるだろう。まず、どうして本能寺の変が起きたときに、徳川家康は畿内、それも堺(大阪府)などという京都の近くにいたのか。
事の発端は、なんと織田信長が家康を接待すると言い出したからである。まずそこから経緯を説明しよう。
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座して喰らふは徳の川」という落首(らくしゅ)。落首とは、創作者不明の世相を風刺した内容の歌のこと。この通り、天下は織田信長から豊臣秀吉、そして徳川家康へと移行していくが、各々の関係性は全く異なるものだった。というのも、織田信長と豊臣秀吉の間には固い主従関係が構築されていた。しかし、一方で織田信長と徳川家康はというと、同盟関係の間柄であった。
天正3(1575)年織田・徳川連合軍は長篠の戦いで武田軍を撃破。その後も武田家の家臣を寝返らせながら、ようやく天正10(1582)年3月に武田勝頼ら一門を討ち果たすことになる。このとき、徳川家康は、武田氏から寝返った穴山梅雪(あなやまばいせつ)を案内者として甲斐攻め(山梨県)を行っており、それが認められる形で、信長より駿河・遠江の両国(共に静岡県)を進呈された。穴山梅雪も本領を安堵される形となったようだ。
この御礼のために、家康と梅雪は安土へ来ることとなる。信長は、自身が甲斐攻めから安土に帰城する際に、家康が見せた気遣いを覚えていたのだろう。家臣に、家康らを丁重に接待しなければならないとして、街道を整備させている。信長の家臣である太田牛一(おおたぎゅういち)が書いた『信長公記』にも、「二人の宿泊地ごとに国持ち・郡持ちの大名たちが出向き、できる限りの手を尽くして接待せよ」との命令が記録されている。
安土城での接待は同年5月15日から17日の3日間。その後、5月21日に上洛。信長より、京都や大阪、奈良、堺を見物することを勧められ、案内者として信長の家臣、長谷川秀一(はせがわひでかず)が同行している。家康の足取りだが、28日まで京都に滞在、29日には堺へと向かっている。当時、堺は国際貿易港として栄えており、家康は今後の国づくりの参考にしたかったのだろう。数日間滞在している。6月1日には堺の豪商の茶会に招かれた記録もある。家康は、のんびりと京都や堺を見物し、買い物を満喫した。その後の苦労など予想もせず、なんだかご機嫌な様子が目に浮かぶ。
そして6月2日早朝。「本能寺の変」
信長の家臣、明智光秀が謀反。京都の本能寺で信長・信忠父子が討たれる歴史的大事件が起こる。一方、家康はというと、ちょうど堺を出発して京都へと向かっているところであった。そして、枚方(大阪府)まで来たところで、本能寺の変の知らせを受け取ることとなる。
こうして、家康の人生最大の受難が始まるのである。
自刃か?本能寺の変での決断
「本能寺の変?」
家康は絶句したに違いない。書物の中には狼狽したと書かれているものもある。「天正10(1582)年6月2日早朝に織田信長が本能寺で討たれた」と知らせに来たのは、茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)。家康と親しくしていた京都の豪商である。一説には、家康が上方の情報収集のために配置したともいわれている。
このとき家康は少数精鋭のお供しか同道させていなかった。徳川四天王(酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政)を筆頭に、のちに秀吉方に出奔する石川数正、伊賀出身の服部半蔵(はっとりはんぞう)など、総勢34名。足軽はいなかったとされている。このわずかな手勢で、一体どうすれば最大の危機を乗り越えることができるというのか。
結論は「否(いな)」
※家康の頭の中の結論。
なんと、家康は浄土宗総本山の知恩院(京都)にて自刃も考えたのである。
家康は腰抜けなのか?
「否」
うん?いや…どうだろう。そこはなんとも歯切れが悪くなるのだが。とにかく、ここで第2の疑問が浮かぶ。のちに天下を取るほどの家康が、どうして攻めもされていないのに、自刃を選択肢に入れたのか。
それは、明智光秀の軍が1万3000という規模であり、その光秀は、つい2週間ほど前に安土城で家康を接待した張本人からだ。家康の足取りは光秀側にもろバレだった。少数の供廻りで京都もしくは堺にいると把握されていることくらい、誰でも気づく。もっといえば、本能寺の変を起こした理由の一つに、家康への接待の不手際を信長に責められたからという説もあるくらいだ(『信長公記』にはそのくだりはないのだが)。
どちらにせよ、東国へ通ずる主要な道を明智軍に押さえられれば、この機に乗じて簡単に討ち取られる可能性が濃厚である。信長の弔い合戦などもってのほか。少数の手勢では殉死するのが落ちであろう。一方で、明智軍を撒けたとしても、山中などを通って三河(愛知県)まで帰る場合、一揆勢との遭遇や、落ち武者狩りなどの危険が伴う。実際、家康と別行動で帰った穴山梅雪は、一揆勢に襲われて命を落としている。家康からすれば、襲われる相手は異なるが、結果的に無様な死に際をさらすのは同じ。そんな最期を迎えるくらいなら、京都まで上って、知恩院へ駈け込んで自刃をしようと考えたのだ(本能寺の焼け跡という説もある)。
「命運尽きた…」と家康。
その場で「えっ?諦めるの早くね?」的な雰囲気が漂ったかどうかはさておき。ただ、家康は大いに取り乱し、最終自刃を選択しそうになったとか。しかしそんな家康に対して、若輩ながらと新たな提案を申し入れしたのが、本多忠勝(ほんだただかつ)である。そう、家康への溢れんばかりの忠義で熱い忠勝は諦めなかった。他の家臣が家康に突き従う中、忠勝は「なんとか生き延びて畿内を脱出し、光秀を討つことこそ最大の供養」と説得。こうして、忠勝の粘り勝ちで、家康は自刃を断念。岡崎城までの逃避行を選択するのであった。
伊賀越えのルートとは?
さて、「伊賀越え」とは、その名の通り伊賀国(三重県)を通り抜けること。じつは、この「神君伊賀越え」のルートは定かではない。というのも、なぜか残された資料に記載されている日数やルートはまちまちで、未だにどのルートだったのか確定されていないのだとか。
そもそも伊賀越えが、どうしてそこまで厳しいのか。それは当時、伊賀には「総国一揆(そうこくいっき)」といわれる自治組織が存在していたからだ。勢力範囲は伊賀の国を超えるほど。じつは1年前の天正9(1581)年に、信長はこの伊賀惣国一揆を徹底的に攻撃し殲滅させている(天正伊賀の乱)。本能寺の変が起きたときも、伊賀国では大規模な一揆が起きていたとされており、伊賀はまさに危険区域だったといえるだろう。
そんな背景を踏まえての大脱出劇であったため「神君伊賀越え」と呼ばれたといえる。「神君(家康のこと)、よくぞ御無事で!あの伊賀を越えられてお戻りになったとはスゴイ」という意味合いなのだ。実際のルートでは、伊賀を通ったと想定した場合、「伊賀越え」の距離は20キロから25キロほど。全体の行程の一部分でしかない。
では、どのようなルートだったのか。
様々な資料がある中で、ここでは比較的良質とされる『石川忠総留書(いしかわただふさとどめがき』を参考にする。石川忠総は、大久保忠隣(ただちか)の子で、石川康通(やすみち)とは養子の間柄である。神君伊賀越えには、この大久保忠隣、石川康通も同行しており、この二人を情報源にしたと考えられている。この記録では、神君伊賀越えの全ルートが示されているという。
6月2日 堺―南山城路―山城国宇治田原山口館(泊)13里
6月3日 山口館―南近江路―近江国甲賀郡信楽小川館(泊)6里
6月4日 小川館―北伊賀路―伊勢国長太―舟(泊)17里
6月5日 舟―三河国大浜―三河岡崎城
藤田達生著『検証 本能寺の変 資料で読む戦国史』より一部抜粋
2日目の行程が6里とは非常に短いが、伊賀を越えるための情報収集をしていたと考えられている。なお、この行程だと、伊賀国境の桜峠を越えて、丸柱から柘植(つげ)を経由しており、伊賀道中の行程は20キロ。ただ、短いといっても伊賀の危険度に変わりはない。そこで、服部半蔵と茶屋四郎次郎が一役買って、危険な道中も事なきを得たとされている。
伊賀出身の服部半蔵に関しては、その尽力により伊賀者約190名が護衛についたと伝わっている。ただこの記録は江戸時代中期以降に作成されたもので、誇張された可能性が指摘されている。一方、茶屋四郎次郎が書き残した『茶屋由緒紀』には、先発した四郎次郎が銀子(ぎんす)を渡したとされ、未然に落ち武者狩りを防ぎ、地元の者が案内したようだ。こちらはイエズス会宣教師の記録にも出てくるため、事実の可能性が高い。どちらにせよ、家康は様々な助けを経て、岡崎城に達したとされている。
他にも、伊賀道中のルートは何種類かある。『徳川実紀』に記録されているルートは、多羅尾(たらお)方面の御斎峠(おとぎとうげ)を越える行程だ。現地には、実際に家康が休息したとされる多羅尾砦もある。ただ、このルートは、かつての惣国一揆の中心地に近づくことになり、疑問が残ると指摘されている。ちなみにこのルートを通れば、伊賀道中は25キロとなる。また『戸田本三河記』では、伊賀ではなく甲賀(滋賀県)を越えたとされている。確かに伊賀よりも安全な甲賀を通った可能性も否定できない。この場合の伊賀道中はたったの3キロ。今となっては、信楽小川館から柘植までの間、実際の伊賀道中がどのルートなのか、多くの疑問と可能性を残している。
なお、家康は岡崎城にたどりついた後、軍備を整えて14日に出陣。畿内に向かうも、道中で秀吉の使者から光秀の死がもたらされ、戻ったとされている。その後の服部半蔵と茶屋四郎次郎についてだが、家康はきちんとその恩を返している。伊賀者を重用するとともに、茶屋四郎次郎に対しては、幕府御用達の呉服師にしたとか。こうして「神君伊賀越え」は、無事に実現されたのである。
さて、不幸中の幸いなのか。
徳川家康の人生の中で三大危機の一つといわれている「神君伊賀越え」。この危機により、「本能寺の変」の黒幕から、徳川家康はいったん除外されるに至った。さすがにここまでの危機に自らが陥って、じつは黒幕というのは説得力がなさすぎるだろう。もし家康が黒幕なら、あまりにも企画立案力に乏しすぎるといわざるを得ない。
人は、自分が一番厳しい状況に立たされた際に、その本性が出るといわれている。その最たる例が徳川家康かもしれない。本能寺の変で自らも命を狙われ、危険な道中を進んでいるまさにそのとき。じつは家康は日野城(滋賀県)へと使いを出している。甲賀郡の山中氏に伝来する『山中文書』に、その書状が含まれているのだとか。
「…信長年来の御厚恩忘れ難く候の間、是非惟任(明智光秀のこと)の儀成敗すべく候の条…」
藤田達生著『蒲生氏郷』より一部抜粋
書状の日付は6月4日。まさしく日野城では、信長の娘婿である蒲生氏郷(がもううじさと)が、信長の一族を安土城から移して明智光秀に備えているところだった。家康は、信長の家臣である蒲生賢秀(かたひで)・氏郷父子に対してその労をねぎらい、明智光秀を成敗することを表明した書状を使者に託した。家康自身も、これから伊賀を越える大変な時である。そういう意味では、やはり徳川家康は天下人となる器なのだろう。危機の最中であっても周りを見渡すことのできる器量は、並大抵ではない。そして、一朝一夕では身につかないものなのだ。
それにしても「本能寺の変」という同じ危機に瀕して、信長は死に、秀吉は中国地方から爆走し、家康は故郷へと難を逃れた。
なんとも三者三様の運命かな。
参考文献
『信長公記』 太田牛一著 株式会社角川 2019年9月
『証言 本能寺の変』 藤田達生著 株式会社八木書店 2010年6月
『徳川四天王と最強三河武士団』 井上岳則ら編 双葉社 2016年11月
別冊太陽『徳川家康没後四百年』 小和田哲男監修 平凡社 2015年4月