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Culture
2020.03.01

ムカデよ、我らに勝利を…!前田利家ら戦国武将が好んだ意外な「虫・動物」4選

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北海道にはゴキブリがいない。
いきなりなんのこっちゃという話なのだが、これは都市伝説の類などではなく、紛れもない「事実」である。かつて2年半もの間、北海道で暮らした私が自信をもって太鼓判を押すのだから、信じてもらうには十分だろう。

しかし、その代わりといっては何だが、北海道には超高速で移動する未知の生物がいた。人生初のご対面、あろうことか私は立ったまま失神。ヤツは突然現れ、15対の脚で我が家を蹂躙し、嵐の如く去っていった。というか見失っただけなのだが。早速調べて正体を知った。その名も「ゲジゲジ」。義兄の住む茨城県にも出没するのだとか。ちなみに、あんな強烈な姿でありながら「益虫」というから本当に驚くばかりだ。

さて、「虫」には、そのフォルムからは想像できない性質や特徴がある。だからだろう。当時、イメージからは全く想像できない理由で、戦国武将から好まれた「虫」や「動物」がいた。今回は、そんな戦国時代に武将たちから多くの支持を得た「虫」、そして「動物」をまるっとご紹介。モノの見方が変わるかもしれない。

ぞぞっ!あの虫を指物に描いた?

まずは、なんともグロテスクなこの虫から。

百の足と書いて、「百足(ムカデ)」とよむ。
じつは、『甲陽軍艦』には、武田氏の使番が、このムカデを描いた指物を使っていたとの記録があるのだとか。

でも、どうして?と疑問に思うのも無理はない。確かに、姿形は、決して颯爽とは言い難い。さすがに、戦場でムカデを見て、「よっしゃー!やったるで」的なテンションの上がり方には無理があるだろう。しかし、意外にも、ムカデは武将に好まれた。というのも、俊敏に動いて獰猛。そのうえ、ムカデには他の虫にはない習性があるからだ。つい、「毒」…と思いがちだが、そうではない。じつは、ムカデは「前にのみ進む」という特徴がある。あのじゃらじゃらした脚で前に進み、ひたすら前に進み、やっぱり前に進むからだ。

戦場では、後ろに下がることを大変忌み嫌う。後ずさりなど以てのほか。「退く」つまり「退却」を連想させるため、縁起が悪いのだ。だから、出陣の際の儀式である「三献の儀」でも、酒を注いでそのまま後ろに下がることはしない。くるりと向きを変え、大将に後姿を見せたとしても、後ずさりは厳禁。そういう意味では、「百足(ムカデ)」は理想的な虫といえるだろう。絶対に後ずさりせず、前進する姿が、好まれた。

ええっー?今度は兵具にあの虫を?

次は、童謡にもでてくる、日本人にとっては見慣れたこの虫だ。

なんでまた?
そう、蜻蛉(トンボ)である。
『軍陣之聞書』では、以下のように記されている。

「一切の兵具に、蜻蛉を付ける事は、蜻蛉の虫は、すゝみて退事なきゆへ是を用と也」

じつは、トンボもムカデと同じく、前に進んで飛ぶことから、退かない虫として、戦国時代には好まれた。ちなみに、一説には、獲物を空中で捕えるところも理由の一つだとか。戦国時代では「勝ち虫」として重宝されている。

なお、先ほどの「兵具に付ける」とはどういうことか。まさか、生きたトンボをくくりつけるというわけではない。この例として有名なのが、前田利家(まえだとしいえ)だろう。じつは、前田利家の兜の前立(まえたて)はトンボだ。現代人の目からすれば、なんとも奇怪に映るだろう。甲冑やらなんやら上から下までガチっと揃えて決める。「超かっけー」と思いきや、兜の前にトンボが、それも真正面にいるわけだから、そのセンスは理解に苦しむ。しかし、戦国時代はこれが縁起担ぎでもあり、武将のテンションを上げるパフォーマンスでもあったのだ。

干支の一つ、イノシシも指物に?

さて、虫だけではない。動物もじつは、指物に描かれていたことが確認されている。その動物とはこちら。イノシシだ。

茨城県桜川市の真壁伝承館歴史資料館には、イノシシの旗指物(レプリカ)が展示されている。この真壁氏は、平安時代末期より桜川市付近を統治していたが、のちに佐竹氏の家臣となり、関ケ原の戦いの結果、この地を離れた一族である。

残されている指物の大きさは縦146センチメートル、幅180センチメートル。指物ほぼ全体に大きなイノシシが一匹。威風堂々の姿で描かれている。巨大な体躯は濃淡ある墨で表現され、金色の目がこれまた目立っている。耳や口、鼻は赤く塗られ、全体的に迫力ある強烈な印象の指物となっている。

なぜ、イノシシなのか。じつは、数多くの武将が守護神として崇拝していた摩利支天(まりしてん)。この摩利支天が乗る動物が、なんとイノシシなのだ。ちなみに、摩利支天とはサンスクリット語の「マリーチ」からきているのだとか。帝釈天が阿修羅と戦った際に、日と月を守ったと伝えられている。この摩利支天の乗り物であるということ、また勇敢で猪突猛進ともいわれる特徴ゆえに、イノシシは武将に好まれたといわれている。ただ、トンボのように武具などが数多く残されているわけではない。

島津家は稲荷信仰って本当?

一般的に、合戦時に現れた鳥を「霊鳥」として捉え、縁起を担ぐ場合がある。ただ、武将によっては「鳥」ではなく、特定の動物を吉事を知らせる使いとして認識していたことも。薩摩(鹿児島県)の島津家では、ある動物に思い入れがあったという。

まずは、島津義弘像の兜に注目して頂きたい。

島津義弘像 兜の前立に「キツネ?」

なんだか、「鬼島津(おにしまず)」には似合わない、ちょっとキュートな感じの動物が、前立になっている。そう、「キツネ」である。じつは、島津家では「白狐」が「霊鳥」の代わりとなっているのだとか。

もともと、島津家では代々「稲荷信仰」が受け継がれていたという。信仰のきっかけは、島津家の祖先、あの鎌倉幕府を開いた源頼朝の長庶子である「島津忠久」の出産である。忠久の母は、源頼朝の側室、丹後局(たんごのつぼね)。頼朝の寵愛を受け懐妊するが、正室の北条政子に嫉妬され、結果的に鎌倉を追われてしまう。あろうことか、この道中に産気づき、住吉大社(大阪府)にて忠久を産んだ。大雨で大変な状況の中、不思議なことに狐火に照らされて、無事に出産できたと伝えられている(一説には神狐がご神燈を掲げたなどの諸説あり)。以降、島津家では稲荷信仰がなされたのだとか。

実際に、島津家に関わる様々な合戦において、記録には「キツネ」が出てくる場面が多い。『陰徳太平記』では、島津軍と大友軍が戦った耳川の戦いにおいて、白狐が出現すると記されている。

「白狐一匹旗許(はたもと)のお陣より出て、敵陣へ向て走り行、是即(これすなわち)島津家の吉瑞の例なるに依りて…」

「白狐」が「島津家の吉瑞の例」と記されており、戦国武将の中では非常に珍しいケースといえるだろう。ただ、現実的に「白狐」を見つけるのはたやすいことではない。北海道では、それこそ毎日のようにキタキツネを目にしていたが、全て茶色である。白いキツネは見たことがない。そういう意味では、なかなかハードルが高い「吉瑞の例」といえるだろう。しかし、だからこそ、その希少価値ゆえに、「吉事」への信頼性はほぼ100%なのかもしれない。

様々な虫や動物を紹介してきたが、中でも特に地位の落差が激しかった「ムカデ」には、同情を禁じ得ない。戦国時代の武将からは好まれたが、現代では害虫の上位にランクイン。当事者からすれば、今も昔もただ必至で生きているだけ。

嗚呼。時代が変わるとは、なんと残酷で不条理なことよ。

参考文献
『戦国入門 戦いとくらしの基礎知識』二木謙一監修 河出書房新社 2019年9月
『名将名言録』 火坂雅志著 角川学芸出版 2009年11月
『戦国軍師の合戦術』 小和田哲男著 新潮社 2007年10月